二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十二、


 月琴の音がふつりと途切れるに至って雪瀬は我に返った。まずい、と後ろに下がろうとすると、下駄が小枝を踏んでしまう。ぱきりと乾いた音が響いた。

「――誰かいるの?」

 月琴を濡れ縁に置き、藍が立ち上がる。彼女が側近くにあった蜜蝋を闇へと掲げる前に、雪瀬は茂みを背にして腰をかがめた。目を瞑り、気配を消すよう努める。それが功を奏したのか、はたまた樹が鬱蒼と茂り、見通しが悪かったお陰か、ほどなく少女が濡れ縁に座り直す気配があった。
 真砂の居場所を聞くためにしても今、藍と接触するのはまずい。
 そう結論付けた雪瀬は腰をかがめたままの姿勢でそろそろと庭を移動する。けれど刹那、館のほうからけたたましい足音が轟き、「藍さま!」とやけに切迫した男の声がした。

「なぁに。騒がしい」
「申し訳ございません。しかし先ほど屋敷へと曲者が入り、それを藍さまのご客人が――」

 そのあとは男のほうが声を落としてしまったらしく、離れた場所にいる雪瀬には聞こえなかったが、並々ならぬ事態が起きたことはその場の空気から推測できた。今“曲者”ということはよっぽど奇遇な盗人が入りこんだでもない限りは暁と見て間違いない。捕まったのか、と雪瀬は胸の内で舌打ちし、思案した。
 どうする。
 だけども、かの青年を連れてきたのは自分である。見捨てるわけにはいかない。
 
 ひそやかに嘆息すると、雪瀬は足を返した。茂みの合間からそっとうかがえば、ひとりの男――おそらくは藤月邸の家人であろう――と連れ立って藍がこちらに向かって歩いてくるのが見える。
 雪瀬は地面に身体を伏せた。すぐそばを藍と男が通過していく。

「それで? 入り込んだ曲者の身元は?」
「さぁ、見覚えのない男です。おそらくは盗人のたぐいかと思われるのですが……、ただ半刻ほど前なのですが、正面門に被衣をかぶった何やら怪しげな少女が出没したという話もありまして」
「ふぅん……。その娘は?」
「門番としばらく言葉を交わしたあと、帰っていったそうです」
「そう」

 怪しげな少女というのはおそらく柚葉のことである。
 無事帰った、との言葉に胸を撫で下ろしつつ、他方で雪瀬は暁の身を案じた。この様子だとかなり大事になってしまいそうだ。雪瀬ひとりの力で助けることができるかどうか。
 前に使った煙幕でも持ってくればよかったな、と若干己の無策ぶりを悔いたりしながら、雪瀬は藍と男を少し離れた場所から追う。ひとまずあれこれと考えることはやめにした。今はあちらに気付かれないようにすることへ注意を払わねばならない。
 
 先ほど素通りした長屋の前を横切り、西の離れのほうへと向かう。静まり返っていた長屋は今は明かりがついていた。庭に人気はないが、どことなくざわついた気配がする。館の住人がみな起きてしまったのだろう。
 館をいくつか越えると、東の離れと瓜二つの作りの館が目の前に現れた。その庭に青年がひとりうずくまっている。雪瀬は茂みに隠れ、遠目に目を凝らした。ずいぶん長いこと闇夜を彷徨っていたせいですでに夜目が効くようになっている。――暁だ。
 
 うずくまる青年の足元にはうっすら鮮血の痕が見て取れた。傷を負わされたのだろうか。雪瀬は青年からその前に立つ人影へと視線を移し、あ、と声を上げそうになった。そこに立っていたのはまさしく橘真砂そのひとだったのだ。
 手に持った、おそらくは暁から奪ったらしい懐刀をくるくると回し、真砂は地に伏せる青年のかたわらへと膝をつく。顔を上げた暁へと真砂は何がしかを耳打ちした。暁が驚愕に目を見開く。普段は静謐とした双眸が漆黒に染まったかのようだった。
 暁は焦燥を帯びた表情であたりを見回し、声を上げようとする。しかしその口を手で覆い、真砂は青年の左胸へと容赦なく懐刀を突き立てた。

「……っ」
「待って!」

 とっさ雪瀬は刀を抜いて一歩を踏み出しかけた。だが、そこへ少女の鋭い制止の声がかぶさる。雪瀬は思わず足を止めた。
 藍が真砂の前へと飛び出て行くのが見える。雪瀬にではない、真砂に対して『待って』と言ったのだ。

「待ちなさい。この者を殺してはだめ」

 暁を庇うように手を広げる少女へ真砂は冷めた一瞥を送る。

「おやおや、藍サンはお優しい。曲者を庇うわけ?」
「藤月邸での殺生は許されてないわ」
「へぇー。でもこいつ、葛ヶ原の衛兵なんよ。生かしておいて報告でもされたら困りますしー?」
「けれど殺してはだめ」

 両者は一歩も引かず、しばしの睨み合いになる。

「……わぁーかったよ」

 だがそれも寸秒と続かず、小さく呆れまじりのため息をついて真砂は懐刀を鞘に納めた。それをぽいと藍のかたわらに控えた藤月邸の家人に投げると、やれやれとばかりに肩をすくめて濡れ縁に上がる。
 ふと振り返りざま、翳りを帯びた琥珀の眸がこちらを見やった気がした。雪瀬は身体をすくめる。気づかれたか、と思ったが真砂は眸をすっと眇めただけで、うーんと大きく伸びをしながら屋敷の中へ入っていった。障子戸が閉められ、青年の長身の影も消える。

 しばらくじっと明かりのない障子戸を見据えてから、雪瀬は暁のほうへと視線を戻した。血が抜けてしまったせいだろう、暁は力なく地に伏しており、意識も覚束ないようであった。駆けつけた男たちに腕を取られて引き立たせられてもなされるがままになっている。

「どうしますか、藍さま」
「――どうもしなくていいわ。もはや虫の息。裏門から外へ捨てておきなさい」

 暁の顎を取って顔色をうかがうと、藍は男たちへ短く命じる。
 すぐに駆けつけたい衝動に駆られながらも、雪瀬は刀の柄をぎゅっと握り締めることでそれに耐えた。暁の背を見送り、自分も逃げ道を探す。裏門から出された暁をすぐにでも瀬々木の元へ連れて行かなければならない。
 それでもどこか後ろ髪を引かれるような気持ちが残る。館のほうを一度振り仰いでから雪瀬は緩く首を振ると、闇夜へ身を潜めるようにして走った。






「風が背中を貫いているな。かなり深い」

 血に濡れた手をたらいで洗いながら、瀬々木医師は淡然と告げた。
 この医者はこと仕事に関わる事柄に関しては常に冷静沈着さを保っている。決して感情的にはならない。男の言葉に頭を冷やされるような気分になりながら、雪瀬は向かいに座った男を仰いだ。

「それで、暁は平気なの?」
「まぁ普通の人間ならともかく人形だからな。加えて暁は桜とは違って“戦人形”なんだろう。回復力が高くなるよう作られているはずだ。符を破られたわけでもないし、問題はないだろう」
「そ、っか」

 一気に脱力して、雪瀬はへちょりと算盤などの置かれた台に突っ伏した。

 裏門から投げ出された暁の身体を背負い、瀬々木邸の門戸を叩いたのが半刻ほど前。もしものことがあったら、と気が気じゃなかったが、本当によかった。よかった、ともう一度口の中で呟き、雪瀬は細く息をつく。

「しっかしこの傷、確実に息の根を止めようとしてきているかんじだぞ。――何があった?」
「うん。いや……」

 葛ヶ原の住人でない瀬々木にどこまで説明をしてよいのか躊躇い、雪瀬は言葉を濁す。それですばやくこちらの事情を察したらしい、瀬々木は笑って「訳ありか」と言った。

「……そうだね。訳ありかな」
「お前はいつもそればっかりだなぁ」
「いつもお世話になってます」
「なぁに、金さえくれりゃあ何でも診る」

 そんな風に偽悪者ぶったことを言いながらもこの医者が都の侍医などに比べれば、格安の値でひとを診てやっていることを雪瀬は知っている。要はこちらに必要以上に引け目を感じさせないための言葉の綾だ。この老翁のそういうさりげない心遣いが雪瀬は好きだった。

「もうすぐ薬で眠るだろうからその前に声だけかけてやれ。俺はこれ、外に捨ててくる」

 瀬々木は手を洗ったたらい桶を持ち上げ、腰高障子を開けた。
 外が白み始めているのがわかる。もう夜明けが近い。
 
「瀬々木、ありがと」
「なんの。仕事だ」

 首をすくめて微笑すると、瀬々木は障子戸を閉めた。
 雪瀬は暁が寝かされている部屋のほうへ向かう。そっと音を立てないように注意を払って障子戸を引いた。畳にはぽつんとひとつ布団が敷かれており、そこに青白い顔をした青年が寝かせられている。

「暁。寝てる?」
「……雪瀬さま」

 傷の障りにならないようにひっそり声をかけると、青年がかすか顔を上げる気配がした。褥の側近くに膝をついて、雪瀬は暁の青白い頬へと手をあてがう。まるで死人のように冷たかった。体温を確かめるようにぺたぺたと触ってから、「大丈夫?」と問う。

「ええ。先ほど痛み止めをいただきましたし」
「そう。……よかった」

 雪瀬は青年の瞼へ手を置きながらうなずいた。

「雪瀬さま」

 眠りへといざなう手のひらに少し抗うように暁が身じろぎする。雪瀬は眸を瞬かせ、青年の真摯な眸を見つめた。

「なに?」
「私、真砂さまに訊いたのです。何故こんなところにおられるのかと」
「うん」
「葛ヶ原は見捨てたと仰っておりました。もう戻ることはないと」
「……そう」
「雪瀬さま、真砂さまは――」
「うん、わかってる。もういいよ」

 雪瀬は暁の言を遮り、微苦笑を落とす。

「しょうがないから、もういいよ」

 そうなのだろう。もはや真砂は葛ヶ原に戻ることはないのだろう。雪瀬たちも宗家の衛兵を刺した男を葛ヶ原に入れてやることはできない。仕方ないのだ。かの従兄とは道をたがえたと見るしかあるまい。
 いろんなものを吐き出すように雪瀬は深く深く息を吐く。
 障子戸から朝日が差し込み始めていた。