二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十三、


「何故、あんなことをしたの」

 朝、顔を合わせ頭に彼女はこちらの胸倉をつかんで詰問してきた。その表情は声色同様険しい。
 真砂は歯磨き用の房楊枝を口端に引っ掛け、「なひぇって?」と聞き返す。

「ちゃんと喋りなさい」
「ふぁーい」

 真砂は機嫌よく返事を返してやったのだが、しかしそんな自分の一挙一動がいちいち少女の神経を逆撫でするらしい。藍は綺麗な形の眉をすっと寄せ、到底お優しいとは言えない所作で房楊枝を引き抜いた。

「ちゃんと喋りなさいって言ったでしょ」
「やぁーだなぁ、藍ちゃん。そんなに眉間に皺寄せてると痕残っちゃうぜー?」

 揶揄の言葉を浴びせかけながら少女の眉間にぐりぐり指を押し付けると、「やめて」と藍はすかさず身をよじって真砂の手を叩き落とした。まるで毛を逆立てた猫みたいだ。ひりひり痛む手のひらをさすって真砂は肩をすくめる。

「相変わらず容赦のないことで」
「あなたが馴れ馴れしいのがよくないのよ」
「えー、そうかなぁ。仲良くしましょうぜー」
「うるさい。さっきの質問がまだ終わってないでしょう。昨晩、何故あんなことをしたの」
「あんなことって?」

 とぼけた顔で聞き返すと、藍は花色の唇に短い名前を載せた。

「――暁」
「おやぁー? 藍サンもやっぱりあいつのこと知ってたわけだ」
「……そりゃあ私も昔葛ヶ原にいたもの」
「ふぅん、そういえばそうか。――ね、あの男とは寝た?」
「は?」

 さすがにこれは思いも寄らない質問だったらしく藍は黒眸をひとつ瞬かせる。その表情が存外あどけなくて、真砂は相好を崩した。この少女は普段突っ張っているわりにたまに妙なところで抜けており、それが悪戯心をくすぐる。

「ね、寝るわけないでしょう」

 ほらほら、動揺する。

「ふぅん。あっそ?」

 真砂は意味深にうなずき、井戸端に腰掛けた。藍のほうはというと、普段は能面さながらの取り澄ました表情をみるみる強張らせていっている。ふざけないで、と一喝が飛ばなかったのは少女の自制ゆえだろう。
 少女の苛立ちが納まるのを待ちがてら真砂は足元に生えていた露草を摘み取り、雫を宿した紺色の花弁にふぅと息を吹きかけた。花弁が儚く震える。真砂は楽しげに露草をいじる。

「――俺ねぇ、とーっても腹が立ってたんデスあのとき」
「……どういう意味?」
「自分の胸に聞いてみなさい。二匹も狗を飼ってそんなに楽しい?」
「意味が、わからない」
「へーぇ? なら結構」

 真砂は露草を井戸の中へ放り込むと、腰を上げた。
 藍の持っていた房楊枝を引き抜いてそれを口に入れる。のんびりと歯を磨き始めると、かたわらで藍が嘆息する気配がした。

「……今晩、月詠さまがお忍びでこちらにいらっしゃるわ」
「ほーお?」
 
 すれ違いざまに切り出した少女を真砂は肩越しに振り返る。

「ついに大物登場ですなぁ!」
「月詠さまにあなたを引き合わせる」
「そりゃあ恐悦至極でございます。頑張って歯磨きしとかないとっ」

 思いつめたような表情をする少女へ笑って返し、真砂は房楊枝をまた口に入れた。






 その日、暁はついぞ帰ってくることがなかった。
 あとから聞いた話では足を運んだ先で怪我をして今は瀬々木診療所で療養をしているのだという。何があったのだろう、と桜は心配でたまらない気分になったのだが、柚葉と雪瀬は外で短いやり取りを交わして話を終えてしまったので詳細は知れなかった。

「暁、どうしたの?」

 話を終えてきびすを返そうとした雪瀬のもとへ駆け寄り、桜は思い切って尋ねてみた。
 扉に手をかけたまま、雪瀬は少しの間何かを考え込むように目を伏せる。彼を躊躇わせているものがわからず、桜はいっそう不安を募らせた。

「……大丈夫だから」

 だが思案の末に返されたのは年端も行かない幼子に言い聞かせるような言葉だった。それが桜は気に入らない。むっとした気持ちをつい表情に出してしまうと、雪瀬は微苦笑を口元に載せてあやすように桜の頭を軽く叩いた。子ども扱いをされるのが嫌で桜は身をよじる。すると雪瀬は存外あっさり手を離した。置かれていた手の重みがなくなると今度は心もとなさが胸を突き、桜は寂しそうな顔をする。

「そういうところが子供」

 ずばり、頭を冷やすような指摘がされた。
 面食らった桜がぱちぱちと目を瞬かせた隙に雪瀬は足を返してしまう。

「雪瀬っ」

 呼んでみたが、そこで振り返って戻ってきてくれるようなひとではない。桜は目を伏せ、障子戸にこつんと額を当てた。
 胸の内に立ち込めた靄は晴れない。一昨日は三人揃って不思議な占い屋をしていたし、いったいなんなのだろう。
 ……なんだか桜ばかりがいつも蚊帳の外に追い払われているようで少し悲しくなった。自分がどれだけ頼りないかはきちんと自覚しているつもりだけども。それでも私も何かしたい、力になりたい、と思うのは傲慢なことなのだろうか。雪瀬から見れば桜はまだ“子供”でしかないのだろうか。
 もっと勉強して頭よくなったらいいのかなぁと桜は雪瀬の背中を見送りながら考えた。


 柚葉は朝から部屋の掃除をしている。
 家具などを一度外に出すと、次に箪笥に収められていた着物を出し、それを重ねて風呂敷に包んでいった。ぜんぶ包んじゃっていいの、と訊くと、すべて葛ヶ原へ持って帰りますからね、と言っていたのでどうやら本当にこの部屋は売り払ってしまうつもりらしい。

 一緒に着物を畳んだあと、桜は夜具他、日常品などを近くに住んでいる長屋の住人に引き渡す手伝いをする。火鉢、水桶、衝立、化粧道具、わずか四畳半の部屋でもこうしてみるとたくさんのものがあるのだなぁと引き渡されていく品々を見ながら妙に感心してしまった。桜というのは基本、物に執着しないところがあるというか、そも、物を持つという意識があまりないので、ぽつんとひとつ夜具が置いてあるだけの自分の部屋と比べてはこの部屋の物の詰め込みように驚かされた。

「さて、これでひと段落いたしましたか」

 柚葉は家財道具をしまい終えた行李に蓋をし、紐を結んだ。
 朝から始めたのにもかかわらず、日はすっかり傾き始めていた。

「私は今晩ここに泊まったあと、明日葛ヶ原のほうへ戻りますが、桜さまはどうなさいます?」

 一休みにと熱いお茶を入れてくれながら柚葉が尋ねた。
 桜は少し考え込み、ふるりと首を振る。

「お帰りになりますか」
「うん」

 湯飲みに手を添え、丁寧に息を吹きかけて冷ましてから口をつける。宗家でよく出されるお茶とは違い、ほんのりと甘味があっておいしい。
 時間をかけてお茶を飲み干すと、桜はついゆっくりしたくなってしまう気持ちを引きずりつつのろのろと腰を上げた。

「お気をつけて。――それから……」
「うん?」
「暁によろしく、です」

 桜の心中を汲んで柚葉が優しく微笑む。うん、と桜はぎこちなく笑んで返すと、金魚と鈴のついた巾着を持って長屋を出た。



 夕陽が連なる瓦屋根を赤く染めている。
 柚葉に見抜かれてしまったが、帰りがけに瀬々木のところへ寄って行こう、ということは家を出る前から決めていた。あそこは確か長屋から葛ヶ原への道すがらにあるのだ。
 暁の容態が気になる。大丈夫、なのだろうか。柚葉も雪瀬も落ち着いていたので大事はなかったのだろうけれど、できればその顔を見て安心したいし、何か桜にできることがあったらしてあげたい。
 ――そういえば。
 暁の顔を思い描いていて、桜はふと結局雪瀬に渡せずじまいになってしまった紙のことを思いだした。そういえばあれは暁が焼き払ってしまったんだった。雪瀬の耳に入れるまでもないから、と暁は言っていたけれど、日を置いた今もやっぱりそれはおかしいと桜は思う。帰ったら紙の存在だけでも雪瀬に伝えておかないと。
 本当に、真砂はあそこに何を書いたんだろう。
 そんな疑問が脳裏によぎった。
 こうなるってわかっていたのなら目を通していたのになぁ。

 およそ半刻ほど歩いただろうか。
 大通りからそれた小道の一角に見慣れた腰高障子を見つけ、桜は足を止めた。こんこんと障子を叩く。

「瀬々木」

 しかし中から返事は返ってこない。もしかして留守なのだろうか。
 桜は小首を傾げて、障子戸を引いた。

「瀬々木、いる……?」

 中を見回したが、やはりひとがいる気配はない。この時間だと、いつもの回診に行っているのかもしれない。瀬々木がよく昼頃から夕暮れにかけて出かけていたことを思い出し、桜はひとりうなずく。
 となれば、暁は褥の上でさぞ心細い思いをしているに違いない。勝手に自分の心境に置き換えて考え、桜はうんうんとさらにうなずく。早く見つけてあげなきゃ、と迷い猫でも探すような心持ちになって、桜は「暁」と青年の名を呼んだ。

「暁、どこ?」

 だが呼びかけに応える声はなく、館はしんと静まり返っている。
 もしかしたら眠っているのかなぁ、と考えつつ、桜はひとつひとつ障子戸を引き開けて中を見ていく。眠っているのなら放っておいてあげたほうがいいのかもしれないと気付く頃には、あまり広くはない瀬々木の家だ、廊下の端までたどりついていた。つまりこれですべての部屋を見て回ったことになる。にもかかわらず、暁は影も形も見当たらない。

「暁、どこ……?」

 途方に暮れて桜は残照に染まった部屋にひとりたたずむ。
 結局見つけたのは綺麗に畳まれた夜具一式だけであった。