二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十四、


 堕ち逝く斜陽を血の色のようだ、と最初にたとえたのは誰であったのだろう。
 その通り、確かに死に逝く前の断末魔がごとき壮絶さがあの空にはある。

「木にツ、女と書いてぇー“桜”。木に春と書いてぇー“椿”」

 鼻歌を歌いながら真砂は足元に木の棒でじゃりじゃりと花の名前を描いていく。それが十、二十、三十、――六十七を数えた頃、ようやく黒衣の占術師が到着したとの家人の報せが入った。

「ようやくですなー」

 橘真砂はにやりと笑うと、棒をぽいと地面に放り出した。




 通されたのは、いったい何十畳あるのかというだだっ広い奥座敷であった。
 行灯のたぐいはなく、ただ火の灯されていない灯台がひとつ置かれている。暗闇の中、前を歩く藍の手元に掲げられた蜜蝋の光がうっすら足元を照らし出した。

「連れて参りました」

 藍は真砂を部屋に招いて襖を閉めると、手燭の明かりを灯台に移す。火皿の上の灯心に炎がともり、部屋がにわかに明るくなった。
 懐刀をかたわらに置いて、藍は畳の上に座した。少女にならい、その隣へ少し距離をとって座りながら、真砂はさりげなくあたりへ視線をめぐらせる。
 大きな座敷には真砂と藍の他に人影が見当たらない。どうやら藤月邸の家人は近づかないようひと払いがされているらしかった。
 正面には部屋を仕切るようにかけられた御簾があり、朱糸に編まれた細竹を透かして黒い人影が見て取れる。御簾内からはこちらが見えるのであろうが、こちらからは中がよく見えない。そういう構造に御簾というものはなっている。御簾内の“貴人”の顔を拝することが御簾外の“下賎の者”にはできないのだ。
 貴族気取りが、と真砂は評してけっと胸中で悪態をついた。

「――聞いているの?」

 そんなこちらの不謹慎な態度が伝わってしまったらしい。月詠に向けて説明をしていた藍がふと言葉を切り、睨みつけるような視線を送ってきた。

「あー悪い悪い。ええ、ちゃんと聞いておりますとも」

 真砂は愛想のよい返事を返し、居住まいを正す。
 御簾内へと改めて向き直ると、妙な感慨が胸に沸いた。抑えていた笑いがくつくつと喉から漏れる。こちらの忍び笑いに気付いて藍が咎めるような顔をしたが、知るかと真砂はさらに笑みを深めて口を開いた。

「よかったよかった、実はさぁ俺そろそろ待ちくたびれかけていたんよ」

 哄笑の名残を口端に引っ掛け、真砂は屹然と顔を上げる。

「月詠。――否、白雨黎」

 真砂は動いた。
 不穏な空気を悟ったか、藍がぱっと懐刀を引き寄せる。だが、遅い。真砂は一足飛びで前へと踏み出し、すっとあらかじめ組んでいた印を切った。

 火がふつりと落ちた。
 闇夜に轟音がとどろき、ばらばらと何か細かい木片のようなものが足元へ弾け飛ぶ。御簾が風にあおられて破られたのだ。
 この有様だ、御簾内の人間は到底無事ではなかろう。
 崩れた壁と畳の上に散らばる竹をすがめ見、真砂は眉をひそめた。

「……これはどうゆうことでしょ」

 そこにあったものを認め、真砂は少女を振り返る。眉間に険しい色が載った。

「謀りやがったな? 氷鏡藍」

 やられた、と真砂ははばかりもなく舌打ちする。
 何故なら畳に倒れていたのは藁人形に黒羽織をかけられただけの文字通り“傀儡”。御簾内が外からは見えない、つまり月詠など最初からいやしなかったのだ。

「先に謀ったのはどっちよ。――裏切り者」

 朱色の唇からほとりと、侮蔑もあらわにそんな言葉が落とされる。冷たい響きの奥に滲む何がしかを見たのはおよそ逡巡とでもいうべきものであったか。一時濃厚にくゆった感情の色は跡形もなく消え去り、あとにはいつもの能面のような無表情が残った。

「人のことこれっぽっちも信じてなかったくせに今さら悲しむたぁね」

 真砂は首をすくめて、少女を揶揄する。

「先に私たちを裏切ったのはあなただわ。橘からこちらに寝返ったなんてぜんぶ嘘。最初から月詠さまを狙ってたんだ」
「敵の懐にもぐりこむのも戦略のうちだぜ。味方を欺くのもな!」

 藍は儚く眸を細め、そんな己を紛らわせるように視線を足元へと落とした。こちらを射抜くような視線がなくなるととたんに脆さが際立つ女だなと思った。

「……ひとつだけ教えて。何が目的だったの」
「目的、とね」
「月詠さまを討って? 凪ちゃんのあだ討ちでもするつもりだった?」
「まさか。だって弟がいたってことも今の今まで忘れてたもん俺」
「嘘」

 ずいぶんと自信ありげに断言してくださるものである。
 
「それは嘘。あの家で毎日暮らしていて凪ちゃんを思い出さないわけがない」
「――だとしても。あだ討ちなんてくだらねぇこと俺はやんねーよ」
「じゃあ、」
「キライだったから」
「きらい……?」

 意表を突かれた様子で藍が目を瞬かせる。

「ふたつにひとつ。スキキライ。これ俺の判断基準。単純でしょ」

 しししと笑い、真砂はこちらへのっぺりした顔を向けて倒れている人形を腹いせ混じりに踏みつけてやる。畳に散らばった竹を踏みしだきながら少女の前に立った。

「はい俺教えたから藍ちゃんも教えましょうよ。どうやったら黎に会えるん?」
「……あの方に会いたいの?」
「会いたいねぇ、会いたい会いたい。五年越しの恋ですからー?」

 冗談めかしてうなずくと、藍は逃げるように眸を閉じいった。泣いているのか、と真砂が顔を覗き込めば、少女の口元にゆるりと薄い笑みが滲む。歪んだ微笑は次第に深まり、藍は額に手をあてがうと、哄笑を始めた。

「そうだね。あなたはそういう男よ。信じてみたいと思った私が愚かだった。愚かだったよ」

 泣き笑うような表情で言い捨てると、藍は真砂に相対す。
 黒袖を振って突き出された白い手からぶらりと黒金の鎖が垂れた。その先端には手のひらに収まる程度の大きさの柘榴石がついている。てらてらと灯明の火影に照らされ、石は血色に鈍く光った。
 石を映す少女の眼窩は闇そのもののようであった。それを見てああこいつは俺を殺す気だ、と真砂は本能的に嗅ぎ取った。だから印を組む。殺されてやる気は無論ない。
 どちらもすぐには動かず、一時、睨み合いがあった。

「聞いて、橘真砂」

 おもむろに眼前へと石が差し出された。
 間をため、藍は朱色の唇をうっすら開く。

「“汝はすでに風術を使うことが叶わぬ”」
「――へ?」

 はてな、と真砂は毒気を抜かれたような顔をする。いったい何を言い出すのだこの女、と思いかけてからふと己に違和を覚えた。不安定に揺れる柘榴石の、何故かその朱から目を離せない。

「“風を出すことができない。一陣たりとも出すことができない。あなたは風術を失う。風の恩寵を奪われる。奪われた風は二度とあなたの手の中へ返らない。還らない、永劫に”」

 眸を固く閉じ入り、女は呪詛のごとく言の葉を連ねる。その声はすでに彼女のものではない。空に融け込むように、脳に染み入るように、どこまでも透明な声は水面を広がる波紋のようにゆったりと響き渡る。それは声であり、声でなかった。
 ――この女、術師のひとりであったらしい。
 考え、ならばと真砂はおもむろに少女の口を手で塞いだ。

「ふ、」
「ふっふーん、これで術は使えねぇな?」

 驚愕に眸を見開く藍へ真砂は笑って返す。だが、笑っているうちにおかしいなと気付く。風音が聞こえない。常に身にまとうているはずの風がない。

「どうやらもう手遅れだったみたいね」

 藍は愕然と表情を消すこちらの手をどけて、薄く笑んだ。

「う、そだろーが……」

 試しに印を切ってみたが、効果はない。
 空ぶった手のひらを見下ろし、真砂は呆然と呟いた。風術師が言葉ひとつで風が使えなくなるなど。そんなことがあってたまるか。
 歯軋りでもしそうな真砂の表情を満足げに眺め、藍は拾い上げた懐刀を抜いた。刃が白く光る。

「あなたはこちらの内情を知りすぎた。“さよなら”よ、真砂くん」
「そんなそんな。穏便に行こうぜぇ、穏便に」

 軽口を叩きつつ、真砂は一歩二歩とあとずさる。
 油断していた。風術師である真砂は普段刀などは携帯しない。そもそも雪瀬や颯音と違って刀自体ほとんど扱えない。つまり風術さえ封じられてしまえば、まるで丸腰なのだ。
 ――でも、まだ。
 まだだ、と何がしかに向けて呟き、真砂は金糸銀糸の房飾りのついた筆を取り出した。懐刀と相対すにはあまりに頼りない筆先を突き出し、冴えゆく刀身へとあてがう。

「ずいぶんと頼りない武器ねぇ」
「結構。長年の相棒でございますから」

 膠着状態のまま、筆をゆっくり横へずらし、刹那、くるりと手の中で返した筆を宙へと放り上げる。少女の注意が一瞬そちらへそれる。その隙に真砂はそのかたわらをすり抜け、一目散に外へと通じる障子戸へ走った。戸を足で引き開けながら振り返り、放物線を描いて落ちてきた筆をつかみとる。

「じゃ、“サヨナラ”、藍サン?」

 嫌味たらしくそう言ってやると、真砂はひらひら手を振った。その挙作を遮るように、ひゅんと風切音が耳元を裂く。機先を制するように飛んできた刀を「げげ」と身体をそらしてよけ、真砂は羽織を翻す。
 部屋を飛び出ると、障子戸をぱんと閉めて筆を構えた。

「“通行止め、女と黒羽織はお断り”っ!」

 ぱぱぱぱとすばやく文字群を書き散らす。それらが群青色の光を帯びたのを見届けると、真砂は庭へ飛び降り、暮れゆく夜闇を疾走した。




「これ……」

 障子戸を引き開けようとしてから、そこに結界が張られていることに気づいて藍は手を下ろした。どのような結界か分からぬ以上、迂闊に障子戸を開けることはできない。

「さすが。あの男、はったりと逃げ足だけは目を見張るものがあるね」

 呆れともつかぬ息をつくと、藍は懐刀を鞘におさめ、同調を求めるように背後を振り返った。そこには椿の描かれた襖障子がある。障子はしばらく沈黙を守っていたが、そのうち、かたとひとの身じろぎする気配がした。

「結界をお解きしましょうか」

 襖越しにくぐもった声が尋ねる。
 藍は首を振った。

「いい。私は疲れた。あの男はあなたが始末をして」

 首をわずか傾ければ、さらさらと黒髪が肩を滑り落ちる。その毛先を弄びながら相手の返事を待っていると、寸秒惑うような間をおいてから「……仰せのままに」と声が返った。足音はなく、男の気配が完全に消えていることに気付いたのはしばらくたってからだった。
 座敷にひとり残された藍は散らばった竹の残骸をよけて、畳へ腰を下ろす。疲れた、ともう一度先ほどよりは情感のこもった声で呟き、藍は抱えた膝に顔をうずめた。障子戸に残る乱雑な筆跡を目を細めて眺め、小さく苦笑のようなものをこぼす。

「……さよなら」

 そう誰ともなしに呟くと、藍は部屋を出た。