二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十五、


 とおりゃんせ、とおりゃんせ。
 ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
 ちょっと通してくだしゃんせ ご用のないもの通しゃせぬ――……


 昼に子供たちが遊んでいた通りは今は闇の暗がりの中にある。
 無論、ひとはいない。影もない。
 道端に打ち捨てられた魚の死骸に鼻先をくっつけていた黒猫もやがて夜の闇へと溶け消えた。






 十六夜の月は気まぐれだ。
 時折群雲に隠れては彼の足元を覚束なくする。真砂はちっと忌々しげに舌打ちした。提灯を持っていない彼は月光が絶えるだけで視界を失ってしまう。
 毬街の臙井地区は木戸番が門を閉めるぎりぎりの時刻に飛び出た。というか真砂がたどりついたときにはほぼ閉められていたのだが、そこは橘一族。お得意の嘘と強引さで突っ切った。それからかれこれ一刻ほど走り通している。
 ――あと、もうちょい。
 葛ヶ原の関所に入ってしまえば、奴らも追ってこれやしまい。
 遠くにはぽつりぽつりと鬼火のように浮かんだ明かりを見つけて真砂は速度を少し緩めた。葛ヶ原の門衛が夜通し焚いている篝火である。葛ヶ原が近い。

 上がってきた息を整え、彼はまた走り出した。足音は絶えず打ち寄せる波の音が消してくれる。追われている身としては都合がよかった。同時に相手の足音も聞こえぬという難もあるにはあるのだが。

 波は遠のき、また近づきを繰り返す。
 夜目には見通すことができないが潮の匂いが濃い。
 海か、と崖沿いの道を駆けながら真砂は考えた。
 もうずいぶんも前のことだが、橘の妹を連れて異国船の見物に行ったことがあった。澄み渡った青天の下、青い海がどこまでも広がっており、そこに見たこともないような大きな船が停泊している。それまで毬街に来る船は都とを往復する廻船で占められていたので、大きさなどたかがしれていた。だがこの船は。遥か地平線の彼方から海原を越え、この国へやってきたのである。
 真砂は感動した。
 ――そうだ、感動。閃光が走り、胸を射抜いたかのような衝撃だった。
 そのときまで真砂は世界の果ては海であると思っていた。青く広がる水の塊こそが世界の終着なのかと思っていた。しかし違ったのだ。海の果てにはまだ百も千もの国があるのだという。真砂とは違う言語を話し、違う服を着、違うものを食べる人間が住んでいるのだという。
 行ってみたい、と真砂は思った。そこへ行ってみたい。俺は海の果ての果てまで旅をするんだ。

「旅、ねぇ……」

 うんいいかも、と真砂は口元に笑みを載せる。
 葛ヶ原に帰っても“裏切り者”の汚名が着せられた自分が元の生活に戻れる保障はなかった。最悪、関所にたどりついたとたん縄をかけられ、牢にぶち込まれる可能性すらある。
 だからもしも葛ヶ原を追い出されることになったら。
 ひとまず海へ船を出そう、と真砂は思った。行き先はどこでもよい。海を廻って、気が向いたら次こそは黒衣の占術師の首を上げてやるというのもいい。あたりは暗闇に閉ざされていたが、真砂の眼前にはどこまでも広がる大海原があった。

 かさり、と波音のあいまに落ち葉を踏みしだく音が聞こえたのはそのときだ。
 耳を澄ますと、微かな足音と息づかいが闇にまぎれこむようにしてあることに気づく。
 ――追いつかれたか?
 真砂はさりげなく筆を取り出し、足を止めた。
 あちらもこちらの動きに気付いたらしい、足音が途絶える。ねっとりと肌にまとわりつくような視線を背後から感じた。いつ動くか、時機をうかがっている。真砂はにやりと笑うと、相手の虚を突くべく一息に背後を振り返った。

「動くな」

 びくりと肩を震わせた人影へ筆先を突きつける。

「――……真砂さま?」

 月光が射し込み、目の前に立つ無防備な男の姿を明らかにした。
 どうやら肩を叩こうかどうしようか迷っていたところらしい、手を中途半端に宙に差し伸ばしかけたまま、青年は戸惑ったように瞬きを繰り返す。それが見知った人物であるとわかると、真砂は濃茶の眸に冷え冷えとした光を載せた。

「おやぁ暁。お怪我は治ったのー?」
「ええ、まぁ……」

 奇妙な沈黙が降りる。

「真砂さまは何故こちらへお戻りに?」
「何故、ね。帰ってきて欲しくなかった?」
「そんなことは、」
「小賢しい」

 真砂はぴしゃりと暁の言葉をはねのけた。

「白々しい演技はやめようぜー? もうぜんぶ、わかってんだからさぁ」
「真砂さま……」

 棘を隠そうともせぬ一方的な物言いに暁は困り果てたという様子でうなだれ、――そして。
 嗤った。

「そうでございますね。ええ、そうしましょう」

 ひどく乾いた声音でうなずくと、

「ああそういえば、真砂さま」

 暁はおもむろに切り出した。

「“とおりゃんせ”の門鬼が帰りだけ通してくれない理由、気にしておりましたよね。教えてさしあげましょうか」
「……は?」

 これはさすがに寝耳に水の言葉であった。
 真砂はきょとんとひとつ、眸を瞬かせる。
 珍しく反応を遅らせた彼を待たず、「それはですね――」と暁は相変わらず、この局面ではいっそ空恐ろしいくらいの穏やかにすぎる声音で続けた。

「夜の帳がおりると、鬼がその本性を現すからなのですよ」

 月光に照らされ、陰影を帯びた青年の顔が半分くっきりと浮かび上がる。
 晴れやかに、極上の笑みをもって暁は告げた。

「それでは真砂さま」

 黒い銃口がぬっと突き出される。
 遅れて銃声が夜のしじまを引き裂いた。






 風音が聞こえる。
 嵐を連れてくる風の音。
 不穏な様相を見せる空模様をよそに、桜はというとちょこんと草むらにしゃがみこんで茂みから顔を出した黒猫へ猫じゃらしを振っていた。はじめ警戒じみた目をこちらへ向けるだけであった猫は次第、猫じゃらしの穂に反応を示し始める。じゃれついてくる猫と戯れながら、桜はほのか表情を緩めた。
 ――と。そのとき。
 ずぅんと地を震わせるような銃声があたりにとどろいた。
 音に驚いた猫が茂みへ逃げ込む。
 桜は猫じゃらしを持ったまま、ひとつふたつ瞬きをしてあたりを見回した。
 ほどなく闇夜は静けさを取り戻したが、残響は未だ消えずに鼓膜を震わせている。聞き間違いではない。やっぱり『銃声』だ。
 ――でも、誰が? と桜は眉をひそめる。
 銃を扱っている者など自分以外には見たことがない。毬街でだって葛ヶ原でだって。それほどに希少なものであるはずなのにどうしてこんなところで?
 だがすぐに思考が行き詰まってしまい、桜はぶん、と頭を振って銃を帯締めから引き抜いた。今はたぶん、あれこれ思い悩んでいるときじゃないのだ。危険が近づいていることを桜は本能的に感じていた。ならば“どうして?”ではなくて“どうするか”を先に考えなくちゃいけない。弾は入っていないけれど、万が一のときは銃も弾除けくらいにはなるだろう。

 桜は胸元あたりで銃を構え、あたりに目を凝らす。
 何がしかひとの気配はないかと桜なりに探っていたのだが、けれど一通り視線をめぐらす前に背後から伸びた手が銃をつかみ上げ、桜の口をふさいだ。そのままぐいと茂みの奥へ引きずり込まれる。

「ん、」

 何が起こったのか瞬時にはわからず、じたばたともがきながら、桜はその手を取り払おうとする。しかし力の差は歴然、到底敵わない。
 桜はぎゅっとこぶしを握りこむと、腕の主が腰を落ち着かせた隙にその脇に一発肘鉄を食らわせてやった。

「だ! 痛って」

 頭上から思わずといった感じで呻き声が上がる。短かったが、その声には確かに聞き覚えがあった。

「……真砂?」
「――騒ぐなよ?」

 耳打ちし、真砂は桜の口から手を外した。
 なんだ、てっきり“コワイヒト”かと思ったら真砂だったとは。脱力してしまった桜をちらと眺めやり、

「あぁ何? また長い自己紹介が必要でしょーかね、桜サン」

 と真砂は例によって例のごとくの意地悪さで尋ねてくる。けれどその声にはいつもの覇気がない。くそーと荒く息をついて樹の幹に背をもたせかけた青年を桜はいぶかしがって見つめた。
 鼻についたのは、鉄錆にも似た臭い。血の臭いだ。
 首筋にひやりと氷をあてられたかのようだった。桜は真砂のかたわらにかがみこんで、その袖をついと引く。

「怪我、してる?」

 心なしか強張ってしまった声でたどだどしく問うと、真砂は低く笑った。

「なぁにー? 桜サン手当てしてくれんの?」
「真砂、」

 こちらをからかうような口調に思わずむっとしてしまってから、あ、と思った。手当て、ということは本当に怪我をしているんだ。
 脇腹にそれとなく添えられた青年の手は赤く濡れている。桜はおずおずとその上に自分の手を重ねた。ぬるりとした血はすでに乾き、冷え始めていた。それが桜の胸中に焦燥をもたらす。
 どうしよう。
 手当て、なんて桜はできない。
 こんなに血が流れてしまっているのに。
 何もできない。
 桜は蒼白な顔で真砂の手をぎゅっと握り締めた。

「おやおや、桜サンったらしおらしー」

 けれどあちらはそれを責めるわけでもなく、のんびりと悪態をついている。だめだ、何かしなくちゃ。何か。でないと、真砂は死んでしまうかもしれない。そんなの嫌。嫌だ。

「雪……、」

 ここにはいない少年に助けを求めそうになってから、だめ違う、と桜は首を振る。

「わたし、ひと。ひと、呼んでくるっ……」

 誰でもいい。雪瀬でなくてもいい。普段話しかけられない門衛でも、知らないひとだっていい。連れてこなくちゃ。わたしが連れてこなくちゃ。
 己の声に突き動かされるがまま桜はぱっと立ち上がった。

「すぐ、戻るから、」

 言い置いて茂みから飛び出ようとする。けれどそれを遮るように腕をつかみとられた。

「だぁめ。無理無理」
「どうしてっ、」

 半ば泣きそうな声になってその胸にすがりつくと、真砂は面倒そうに視線を逃した。何かあるのだろうと直感する。桜はかがみこみ、そっと繋ぎおくように青年の手を握って、「何、あったの?」と声をひそめて尋ねた。真砂は相変わらずよそを向いているが、桜はじっと根気強く彼の言葉を待つ。やがてやれやれといった様子で首に手を置き、真砂は息をついた。

「――実はなー、俺今銃持った恐ろしい鬼に追っかけられてるんよ」
「うん」
「捕まったら最後、殺されちまう」
「うん」
「なぁ、俺、」
 
 真砂はぐいと桜の腕を引き寄せた。吐息がかかるほど顔が近くなる。

「死ぬ?」

 その声は静かに桜の胸を貫いた。
 桜はふるふると首を振る。もう一度首を振った。何故だろう、急にこのひとを抱きしめたくなった。思いっきり、力いっぱい抱きしめたくなった。

「死なない」

 断じて、桜は地面に転がっていた銃をおもむろにつかみ寄せる。

「私がまもる」
「――……守?」

 真砂は意外そうにぱちぱちと眸を瞬かせる。何だそりゃとでも言いたげに肩をすくめ、それから静かに目を伏せた。微笑ったようだった。

「ねぇねぇ。もしやお前、俺に惚れちゃったん?」
「掘れ?」
「ああいい、いい。突っ込むの面倒くさい。くそう、今とっても期待したのに!」

 真砂はからりと笑って話を切り、重ねられていた桜の手を一度握って下ろした。樹の幹から背を離し、かたわらに座り込んだままのこちらを横目で見やる。自分が体勢をずらすのは面倒だったらしく、桜の腕をつかんで引き寄せ、筆先をこちらの額へつけた。

「目ぇ瞑って」
「ふぇ?」
「瞑る」

 言われたとおりに眸を閉じれば、ひんやりと濡れた筆先の感触が伝わる。少しくすぐったい。よくわからないが、何かの文字のようなものを書かかれているらしかった。

「ん、終わり」

 真砂は額から毛先を離す。薄く眸を開けば、筆先から滴った墨汁が草の上に落ち、藍色の光を脈動させるのが見えた。

「よいかね、桜サン」

 真砂の大きな手が伸びて目隠しをする。

「俺がよいと言うまでこのまま目を瞑っていましょう。その限り、鬼はあなたが見えない。橘一門お得意のズルというヤツ」
「おに?」
「そう。あれに捕まると、家に帰れなくなっちゃうんよ」

 「了」と紡ぐ深い声が結界を結ぶ。
 微かな衣擦れの音を聞きつけ、桜はどこか行くの、と尋ねた。思わず差し伸ばした手はしかし空をかき、真砂はおろかその袖端ひとつつかむことができない。心細くなって桜はかぶりを振った。
 嫌。どこかへ行っちゃ嫌。
 だって鬼が子供を捕まえにやって来るんでしょう?
 見つかったら家に帰れなくなってしまうんでしょう?
 なら、ここにいないとだめ。どこか行っちゃ、嫌だ。

「ダイジョーブダイジョーブ」

 だが、桜の不安をよそに返ってきた声は底抜けに明るい。

「ここにいますってば。どこにも行かねぇよー? どこにも行かない、桜」

 耳元をふわりと吐息が掠めた。語りかける声はあまりにも優しすぎて。真砂じゃないみたいだった。


 けれどそのとき、桜は忘れていたのだ。
 この青年がとても嘘吐きだということ。