二章、撃ち落されるその鳥の名は、
二十六、
「――よぅ、そこのキツツキ」
不意に背後からかけられた声に、暁はぴくんと背筋を強張らせた。瞬時に銃口をそちらへ向ければ、印を組んだ青年と視線がかち合う。藍のかけた暗示がまだ効いているはずだから、風術は使えないと思うのだが、しかし用心するに越したことはない。暁は銃の撃鉄を起こし、「観念して出てきたというわけですか」と苦笑した。
「まーさかまさか。観念するのは、お前のほうですぜ?」
軽口を叩きながらも、言葉の端には時折喘ぐような吐息が混ざる。青年の上着から袴を染める赤黒い血痕を暁は冷めた眸で眺めた。
「しっかしまさか、子守役のお前が内通者だったとはなぁ? うひゃひゃひゃ、偽善者面とはまさにこのことだぜ。じゃ、アレ? 空蝉んとこへ月詠を手引きしたのもお前か」
本来ならば立っていることも辛かろうに彼は言葉を止めない。それが彼自身の命を縮めていることに気付いていないのか、あるいは頓着していないようだった。
暁はほとほと呆れて肩をすくめる。
逃がしたのもですよ、とさりげなく付け足した。
「あいつらを育ててきた奴がよくやる」
「どうとでも仰ってください。どうせあなたがたにはわかるまい」
「興味もねーしな」
すかさず返された応酬はまさに吐いて捨てるといった言い方である。
暁は眉根を寄せ、正面に立った青年を見据えた。
『あなたさまこそこんな場所で何をしておられます?』
藤月邸で、暁は印を向けた真砂へそう尋ねた。
『何をして、ねぇ。教える必要、ある?』
『私には聞く義務がございます。――何故なら、』
わたしもあなたさまと同類でございますからね。
声をひそめ、暁はそっと真砂の耳元へと唇を寄せる。聡い青年はすぐに理解しただろう、この自分こそが真の内通者であったことを。
「しっかしまさか俺さまのこの迫真の演技が見破られるとは思わなんだ。あんなさ、御簾越しに人形を置いておくなんて手の込んだこと」
真砂は衿元を緩めながら話を振った。
「ふふ、桜さまに文をお渡しになったでしょう。雪瀬さまへ“毬街へは近づくな”、と。藍さまが毬街近辺でよく動いていることをあなたさまは知ってらしたから。心配、したのですか?」
「さぁ。知らね」
「不思議に思いました。何故そんな文面を送ったのか。雪瀬さまと顔を合わせていながら危害ひとつ加えなかったというのもわからなかった。ゆえ、こう仮説を立てたのです。あなたさまはもしや内通の内通をしている――、ただ内通者のふりをしているだけなのではないかと。だから、藤月邸でかまをかけた。まんまと引っかかってくださいましたねぇ、真砂さま。あなたは私へ刀を向けた。内通者を消すため、――あなたは憎らしいまでに“橘”だった!」
「へっへ、嘘吐きで、卑怯で?」
「そして最後に必ず私を裏切る」
暁は薄く笑い、真砂を見つめた。
あたりに道という道はない。静まり返る林と切り立った崖と。月夜に響く潮騒だけが絶ゆることなく、ふたりの間に流れていた。
「ああでもね。私もそして藍さまも途中まではあなたさまが私たちと同類なのではないかと思っていたのですよ。疑いもなく。だってねぇ、真砂さま。あなたさまは考えなかったのですか」
乾いた唇を舐め、暁は口を開く。
「復讐を」
真砂は冷えた眸をすっと眇めた。
「そして抱かなかったのですか。弟君の名を抹消した橘一門に対する憎しみを」
「――お前はそれを抱いたと? 八代の馬鹿を殺めた橘颯音へ」
はっとして暁は口をつぐむ。青年から真意を聞きだすつもりが、己の胸のうちを見透かされてしまい、若干調子が狂った。
「くっだらないねぇ。実にくだらない。愚問以外の何者でもない」
真砂は金銀の房飾りをぶちりと引きちぎると、それを地面に投げ捨てた。月光に金糸と銀糸がきらきらと綺羅星のごとくきらめく。
「いかなるときも今が一番、今が最上、今が極楽! これ俺の信条なり。死んだ奴のことなんか知らねー。過ぎ去ったことをうじうじ言うなんてまっぴらごめんだ。俺は、先を行く」
そうためらいもなく、迷いもなく、曇りのない眸で言い切るから。暁は失望をするしかなかった。これは生き方の違いだ。あるいは、存在のあり方そのものの。この男と共に進む道など端からありはしなかったのだ。
絡み合う視線を断ち切る。暁は引き金に指をかけた。
「それでは真砂さま。今度こそお別れです」
「風は、吹く。誰にも支配できねーよ」
にやりと口端を上げ、橘真砂は嫌味なくらいの不敵さで笑う。
それから組んだ印を切った。
*
さわ、と頬を撫ぜる確かな風の気配を感じて、桜は眸を開いた。
「真砂……?」
かたわらにいるはずの青年がいない。
真砂、真砂、と小鳥が囀るみたいに何度も名を呼んで、桜はおろおろと視線を彷徨わせた。
「あ、」
あたりを見回してから、少し遠いところに立つ人影を見つけてほっと安堵する。
しかしそれはほんのつかの間。
刹那、吐き出された銃弾が青年を射抜く。
鮮血が散った。どこか霞がかった視界の中、真砂の身体が均衡を失くしたように傾ぐ。だが、そこに彼を受け止める地面はない。ただどこまでも深い闇が広がっているだけだった。
「まさ……」
声が途切れる。
桜の目の前で青年は崖下へ落ちた。
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