二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十七、


 濡れた手を滑って、白磁の茶碗が落下する。
 とっさに手を伸ばして受け止めようとするも間に合わず、それはあえなく地面に激突し、かちゃんと嫌な音を立てた。

「げ」

 洗い物の手を止め、雪瀬は袴で両手を拭くと、茶碗を拾い上げる。

「……割れた」

 ぱっくりふたつになった、見るも無残なそれを目の前に掲げて、雪瀬はこそりと嘆息する。何やらここ数日は割れ物づいているように思うのは気のせいだろうか。井戸端に腰をかけ、二つの破片をそれでもどうにかくっつかないものかと無駄な試みをしてみていると、

「おい。終わったか」

 枝折戸を引いて、瀬々木医師が顔を出した。夜闇だからか、はたまた老齢ゆえか、瀬々木はこちらの姿が見にくそうに目を細める。雪瀬がぱっと後ろ手に茶碗を隠せば、「何だ?」といぶかしげな顔をした。

「いやいや、別に! 何でもございませんよっ?」

 心なし変な口調になりつつ何とかその場を取り繕うと、雪瀬は井戸端から腰を上げ、茶碗を隠しながら、明らかに不自然そうな感じで洗い桶まで移動する。あちらが首をかしげ、身体を引っ込めたその隙に雪瀬は白磁の茶碗を脇に置いた。たらいに張られた水を地面に流す。
 水を切った他の陶磁器を桶の上に乗せ、瀬々木にならって枝折戸のうちに入った。母屋に上がり、居間のほうへひょいと顔を出す。

「じゃ、帰るや。夕飯ごちそうさま」
「ああ。――泊まっていくか」

 門の時間を気にしてくれたのだろう、瀬々木が尋ねた。
 障子戸に映る月の高さを測りながら、いや、と雪瀬は首を振った。

「たぶん間に合う」
「さよか」

 そっけない返事を返し、瀬々木はすぐに手元の医学書に目を落としてしまう。苦笑し、雪瀬は男の邪魔にならぬよう静かに襖を閉めた。

 一度葛ヶ原に帰ろうと柚葉の家をあとにした雪瀬だったのだが、やはり暁のことが気にかかったし、また藤月邸のこともどうしても気になって結局宵時まで毬街をぶらぶらとしていた。藤月邸にも何度か足を運んだのだが、門番が以前の数倍に増やされており、入りこむことは実質不可能だった。
 雪瀬は藤月邸をあとにし、暁の容態だけでも見て帰ろうと瀬々木診療所に寄った。しかしながらそこに暁の姿はなく。瀬々木曰く、昼の回診から戻ってきたときにはすでに暁はいなくなっていたらしい。布団も綺麗に畳んであったし、丁寧にお礼の手紙も添えてあったので、自発的なものであることは確からしいのだが。

 暁は本当に律儀だからなぁと瀬々木と雪瀬は笑い合った。かの青年は昔から体調が少しでも回復するとすぐに仕事に戻ってしまうのである。葛ヶ原に戻ったら無理やりにでも寝かせてやらないと、と心に決めつつ、雪瀬は土間にたらい桶を立てかけておくと、洗い終えた皿や碗の隣に欠片を合わせただけの茶碗を並べておいた。……よし、これでしばらくは気づかれまい。
 うん、とひとつうなずくと、雪瀬はまくった袖を下ろし、立てかけておいた刀を取って、診療所を出た。






 林から鴉がいっせいに飛び立つ。
 月夜を啼きかう鴉の群れはわずらしいことこの上なく、暁はきつく眉根を寄せて空を睨み据えた。硝煙のすえたような臭いは徐々に薄らぎ、残響もやがてつきる。あたりはまたもとの穏やかな夜の海に戻った。

 暁は細く息をつき、切り立った崖下へ目を凝らす。
 足元に広がっているはずの海は打ち寄せる波が微かな水音をさざめかすだけで夜目には何も見ることができない。だがこの高さから落下して生きられる人間もいまい。
 そう結論付け、きびすを返そうとする。が、身体をひねったはずみにふと右肩に鋭い痛みを感じた。見れば、肩口あたりがざっくりと切り裂かれている。

「本当に、風を出されたのですか……」

 刀傷よりなお鋭く、深く、抉られた肩口を手で押さえ、暁は苦笑した。

「……なんとしぶとい連中」

 侮蔑を滲ませて放ったその言葉は、けれどあの青年に対してはむしろ最大級の賛辞となってしまったかもしれない。そのことに自嘲し、暁は足元に置いてあった箱に銃を収めた。厳重に封をほどこし、風呂敷に包む。
 凍てついた風の名残のようなものが頬を舐めた。乱される髪を暁は厭わしげにかきやる。刹那、視界端で、かさり、踏みしだかれる朽ち葉の音を聞いた。
 あ、と思った、そのときにはすでに額にひやりとした鉄の感触が突きつけられている。背筋を冷えた汗が這う。暁は腰を落としたまま、ぎこちない所作で顔だけを上げた。
 蒼い月光に、透けゆくような仄白い肌と華奢な身体の線が浮かび上がる。それからぞっとするほどに硬質な光を帯びた緋色の双眸。目の前にいたのは、思いもよらぬ少女だった。
 
 あ、と。
 今度は確かに、怯えるような声が己の喉から漏れる。
 額につけられた銃口のその引き金には少女の指がしっかりとかけられていたのだ。彼女は憔悴する暁をひどく無感情に眺める。ころされる、と思った。
 後ずさろうとしたこちらの挙措を遮るように、細くたおやかなる指をためらいもなく折り、桜は引き金を引いた。

 思わず、ひっと息をつめる。
 しかしかちり、と乾いた音が鳴っただけで銃は沈黙を守っている。それで暁はことのからくりを思い出した。

「……無駄、ですよ」

 乾ききった口内で何とかかすれがちの声を紡ぎ上げると、暁は引きつった笑みを口元に湛える。

「弾は抜いておきましたからね、私が。月詠さまに命じられて」

 桜はおずおずと手元へと視線を落とした。それから不思議そうに首を傾ける。

「真砂、どこ……?」

 今にも潰れ消えそうな、か細い声が尋ねる。どこへ行ってしまったの、と。
 頼りなく、それでも必死に何かにすがるように視線を彷徨わせる少女の姿が無性に癇に障った。その情景があまりにも“あのとき”と似通っていたからだ。



『八代さま。八代さまはどこにおられるのですか?』
 
 よろめきながら、前を歩く青年に暁はしつこく問いを重ねる。
 無礼を承知でその腕をつかんだところで、彼はようやく足を止め、こちらを振り返った。嘆息まじりに軽く肩をすくめる。

『死んだよ』

 橘颯音はこともなげにそう言い放つと、こちらの表情をつと見て取り、冷ややかな色をした眸を眇める。その眸が一瞬だけ、揺らぐ。ほんのしばし考えるような間をおいてから、颯音はすがりついた暁の手をすっとほどいた。謝罪も言い訳もない。何もない。何もくれずに、橘颯音はきびすを返す。
 傷を負った身体は均衡を失い、暁はほとんど倒れこむように床に膝をついた。

『――……っ、』

 言えなかった。
 あなたがあの方を殺めたんでしょうと。
 闇討ちなどというもっとも卑劣な手段で、むごたらしくも、あの方の首を斬り落としたのでしょうと。
 握り締めたこぶしを床板につけ、暁は遠ざかる青年の背中を仰ぐ。噛んだ唇から血が滴り落ちた。そのとき己の胸を覆い、塞ぎ、刺し殺し、焼き潰し、ぐちゃぐちゃに引き裂いたものはそう――。



 暁はひそやかに微笑う。
 少女の細い手首を難なくつかみとって銃口を己の額から外した。

「真砂さまのこと、教えて差し上げましょうか」

 ふ、と少女が無垢な視線を上げる。暁は少女の青白い頬にかかった髪をかきやるとその耳元に唇を寄せ、甘く毒を食ませるように囁いてやった。

「死にましたよ」

 緋色の眸がひとつ驚いたように瞬く。みるみる、透明な色に澄みきってゆく。ほどなく力を失った少女の身体が傾ぎ、すとんと地面に跪いた。
 ――そう、『絶望』とはこんな色をしている。



「こっち! こっちのほうで、変な音した!」

 と、不意に側近くで少女の声が上がった。
 がさり、と茂みが大きく揺れる。その音に反応したのか、桜は顔を上げた。その隙に暁は彼女から離れ、銃を風呂敷に包み直して他の荷物に紛らわせると、小脇に抱えこむ。
 暁が振り返るのと、門衛を連れた薫衣たちが茂みから出てくるのは同時だった。