二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十八、


 臙井地区の木戸についたのは、門限の夜四ツを四半刻ほどすぎたあとだった。本来ならば門限を過ぎれば外に出ることはできなくなってしまうのだが、今夜の木戸番が馴染みの者であったので、今日だけ、と融通を利かして出してもらったのだ。
 瀬々木に貸してもらった提灯を掲げながら、雪瀬は暗闇に染まり始めた畦道をひとり歩く。

 ぱん、と何か破裂音のようなものが聞こえたのは道程の半分ほどを行ってからだった。

「何……?」

 雪瀬は眉をひそめるが、あたりはすぐに何事もなかったかのようにもとの静けさに戻ってしまう。はて空耳だったろうか、と首を傾げつつ、雪瀬はまた歩き出した。
 葛ヶ原の関所が近づくにつれ、次第足取りは重くなっていく。帰ったら、まずは扇を遣わして真砂のことを颯音に報告しなくてはならない。薫衣や透一に伝えることも含め、気分はどうにも萎えた。

 ぱん、と、先よりも大きく空が打ち鳴った。
 雪瀬は視線を跳ね上げる。今度こそ空耳などではない。どころか、聞き覚えがあるこの音は――銃声ではないか。
 まっさきに脳裏によぎったのは桜のことだった。必然あまりよくはない予感に駆られ、雪瀬は音の鳴った方角へ足を向ける。
 一本道をそれ、海のほうへと歩くこと少し。
 遠目に関所の篝火が見える頃になって、夜闇に人の話し声のようなものが混じり始めた。提灯を掲げれば、地面に生い茂った雑草が踏み倒されているのが見て取れる。少なくない数の人間がここを通ったらしい。
 もっさりと実をつけた常緑樹の垂らした枝を押しのけると、微かな波音とともに視界が開ける。海沿いの崖道には何があったのか、ちょっとした人だかりができていた。

「あ。雪瀬!」

 端のほうで所在なさげにしていた透一がこちらに気づいて声を上げる。
 少年の向こうには十数人の門衛と、それから薫衣。さらに彼らに取り囲まれるようにして暁と桜がおり、薫衣が何やら詰問じみた口調で彼らを問いただしているのが見えた。

「……どういう状況?」

 手近な透一にひとまず問いを差し向ければ、あちらもいまいちわからないといった様子で首を振った。

「屯所にいたらね、二発銃声が聞こえてさ。慌てて駆けつけてみたら、桜ちゃんと暁さんがいて……ね、」
「ふぅん……?」
 
 どうにも要領を得ない。雪瀬は腑に落ちない顔をして薫衣と相対する暁、それから桜へと視線を戻した。



「――じゃあ、賊の姿は見ていないんだな? 暁」
「ええ。銃声に驚きまして、すぐさまこちらに駆けつけたのですが……、銃を発したらしき者はなく、ただ桜さまがおられただけで」
「そう。で、桜は? 何か見たの?」

 薫衣は顎を引き、今度は桜のほうへと切り返す。
 奇妙な沈黙が落ちた。
 桜はぺたんと地面に座り込み、銃を握り締めたまま、焦点のあわない眸を海の方へと向けている。薫衣の言葉が聞こえてないみたいだった。

「桜」

 薫衣が今一度名を呼ぶが、反応はない。もとから会話能力というものが乏しい彼女ではあったが、今はそもそも会話をする気があるのかすら疑わしかった。

「説明して、桜。どういうこと?」

 薫衣は苛立ちをあらわに荒く息を吐き、少女の両肩をつかんで無理やり視線を合わせる。

「何か、見たの? ――それともあの銃声は、お前のものだったの?」

 何か心の琴線に触れるものがあったのか、ふと、緋色の眸が揺らぎを帯びる。
 桜は口を開きかけ、それから何故か暁の手元、彼が大事に腕に抱いている風呂敷をうかがい見た。何かが呟かれたのがわかるが、それは声にはならず、ただ空気を少し震わせただけだった。桜は喉に手をやり、苦しそうに眉根を寄せる。眸を伏せ、首だけを振った。

「喋んないとわかんないだろうが……」

 かすれがちの声に滲んだのは、桜に対するというよりは、うまく聞きだすことのできない薫衣自身に対する苛立ちのようでもある。諦めて、薫衣が少女の肩に置いていた手を離してしまうと、桜はまた視線を海のほうへと戻した。
 まるで夜の海に魅入られたかのように緋色の眸をすぅっと細めると、おもむろに立ち上がり、ふらふらと危なっかしい足取りでそちらのほうへ歩き出してしまう。

 少女の突飛な行動に一同がぎょっとして息を呑む。
 彼女の足には少しばかり大ぶりに見える下駄は足場の悪い、ごろごろとした岩に今にも引っかからんばかり、ふらふらとした足取りといい、ともしたら足を滑らせてしまいそうだ。ひゃ、と叫びかけた透一に提灯を持たせてしまうと、雪瀬は一同の間をすり抜け、少女の足が崖を踏み出す前に、ぐいとその細い腕を引いた。
 緋色の眸と目が合う。
 ゆっくりと瞬いた眸に、「そこ、海」と雪瀬は短く返した。
 
「うみ?」
「そう、海。わかるな、う、み」

 噛んで含めるように言い聞かせると、雪瀬は桜の手を引いて薫衣たちのほうへ戻った。とたとたと相変わらずのおぼつかない足取りではあったが、しかし桜は特に抗う様子もなく雪瀬に従っている。またどこかへ行ってしまわぬようにその手を握り締めて、雪瀬はすばやくあたりをうかがった。
 張り詰めていた緊張が解けたためか、あたりはにわかに騒然とし始めていた。こちらへちらちらとぶしつけな視線を送りながら、門衛たちは隣と言葉を交わしあう。やはりあの娘の銃ではなかろうか、とか、やはり気狂いを起こしたんではなかろうか、とかそんな言葉が端々に聞こえた。――“やはり”。何が、“やはり”だ。雪瀬は舌打ちをしたい気分に駆られる。

「静まれ」

 それまで成り行きを静観していた薫衣はおもむろにくっと顔を上げると、喧騒の中でも凛と通る声で言った。

「ここは井戸端会議の場所じゃない。しかも時間はすでに夜と来た。まず、この場は解散とする」

 とたん門衛たちが抗議の声を上げる。

「うるさい。そんなに暇ならお前らは賊がいないか、あたりをくまなく探してろ」

 その場をひと睨みで黙らせると、薫衣は次にこちらに向き直る。

「暁は……帰ってよし。桜は、――何か話すまで牢にでもぶっこんでおくか?」
「そっ、そんなの!」

 すかさず声を上げたのは透一だ。
 
「牢なんて…っ、まるで桜ちゃんが悪いことしたみたいじゃない!」
「かもしれないだろうが。今の状況からすれば」

 珍しく非難めいた物言いをする少年へ冷ややかな言葉を返し、薫衣は桜の手に握られた銃に一瞥をやる。

「だってこの葛ヶ原で銃を持ってるのは桜だけなんだから」

 う、と透一は言葉を詰まらせた。しぶしぶと口をつぐみ、ただ睨めつけるような視線だけを薫衣に向ける。
 薫衣の言い分はもっともではある。何せ銃声が二回して、いざその場所にたどりついたら銃を持った奴がひとりでたたずんでいたのだ。疑わしいことこの上ない。これで誰かの死体が上がりでもしたら事態はさらに厄介になる。葛ヶ原で殺傷を犯した者は場合によっては最悪死罪。見せしめに磔にされる。
 そういう危うい状況に今の桜は立たされていた。

「――……銃、貸して」

 雪瀬は小さく嘆息すると、ぼんやりこちらを眺め返してくるだけの彼女の手から銃を抜き取った。そのまま適当に構えて銃口を空に向ける。
 引き金を引く。
 かちりと乾いた金属音が鳴った。だが、弾はひとつとして吐き出されることがない。薫衣やその他周りにいた者が一様に眉をひそめる。

「これね、からっぽ」

 一同を振り返って、雪瀬は銃口を下げる。

「だってこいつ、弾切らしてそれを毬街に買いに行ってたんだもん」
「……そう、なのか?」

 薫衣はおそらく桜に答えを求めたのだろうが、彼女のほうは相変わらず反応というものを返さないので、代わりに雪瀬が「そう」とうなずいてしまう。

「ゆきも見てる。――だよな?」
「えっ、あ、うん。うん!」

 不意打ちで指名を受け、透一は驚いたように目を開いてから、慌ててこくこくとせわしなく首を縦に振った。

「見たっ。桜ちゃん、この前銃弾がないって言ってたっ」
「と、いうことはだ」

 雪瀬は機先を制するがごとく、話を畳み掛けにかかる。

「銃はふたつあるんだ。ひとつは弾が出ない銃、もうひとつは弾の出る銃。前者は今俺の手の中にあり、後者は今もどこかの誰かが隠し持っている」
「――っ至急、関所を封鎖しろ! 厳重に!」

 薫衣は背後にそびえ立つ門を仰ぎ、集っていた男たちに命じた。門衛たちは皆冷や水を浴びせかけられたような顔をして関所へ戻っていく。彼らに混じり、暁もその場から引き上げようとした。

「待った、暁」

 その腕をつかみとって止めると、雪瀬は青年の衣についた赤い血痕を眇め見る。少量ではあるが、確かに血だ。

「それ、どうしたの?」

 暁は言われて初めて気付いたといった様子で己を顧みた。

「これ、は……」

 衣を握り締め、蒼白そうな顔で俯く。

「……ど、どうやら傷が開いたらしく……」
「傷? 暁、怪我したのか?」
「うん、まぁちょっとね」

 横から顔を出した薫衣に、雪瀬は暁に代わってうなずく。

「じゃあ関所なんていいから、暁さん宗家で休んでたほうがいいですよー! ここは僕たちに任せて。ねっ」

 透一は微笑み、暁の肩に己の羽織をかけた。暁は弱々しい微笑を向けたあと、ありがとうございます、と頭を下げて足を返す。その胸に抱かれた風呂敷を見咎め、暁あんなの持っていたっけ、と雪瀬は不思議に思ったが、結局声はかけずじまいになってしまった。



「……さすが第二子さまは言葉がうまいよね」

 暁が去り、衛兵たちもおおかた関所に戻ってしまうと、薫衣はぽつりと呟いた。

「薫ちゃん?」

 透一は意味がわからないといった様子で首を傾げ、他方雪瀬は冷たく眸を眇める。

「だけどお前得意の言葉回しは私には効かんよ。――弾が切れてた? それを見た? 透一、お前実際に引き金を引いて確認したの?」
「それは……」
「してないんだろう。弾が切れた、というのは桜が言ったに過ぎない。騙りだって可能性もある」

 思った通り、薫衣の指摘は寸分たがわず痛いところをついてきていた。そう、雪瀬はあのとき桜の銃を検分したわけじゃない。先ほど鳴った銃声が最後の弾だったという可能性だってあるのだ。とはいえ桜が嘘をつけるほど器用じゃないことくらい雪瀬は知っている。だって本当に、雛鳥のときから面倒を見ていたようなものだ。桜は嘘どころか、自分を守る言葉だって未だうまく操れないというのに。

「……桜にそれはないよ」
「おやおや、ずいぶんと理論にかけた主張をなさる」
「薫ちゃん、そんなにあいつを牢にぶちこみたいわけ?」
「そりゃあ必要とあらば。だって私のあるじは橘雪瀬じゃなく、橘颯音だもの」

 薫衣は迷いのない声できっぱりと言い切る。
 けれど、そこで何やら物言いたげにぎゅうと袖を握ってきた透一へ目を落とし、やれやれとため息まじりに首の後ろに手を当てた。

「まぁそれでも、二対一だからな。お前らの勝ちだよ。…ということにしてやる。橘一族と言い合いするの面倒だし。私、もう眠いし」

 薫衣がにやりと笑うと、透一は泣きそうだった顔にぱっと笑みを綻ばせた。

「薫ちゃんー!」
「う、わ、ちょ。抱きつくなっ」
「えへへーよかったねー! 雪瀬っ。よかったね、桜ちゃんっ」

 透一が笑いかけるが、桜のほうは相変わらず俯いたままうんともすんとも言わない。微苦笑混じりに彼女へ視線を下ろし、雪瀬はその手首をついと引きやった。

「じゃあ俺、一度屋敷に帰るね。桜置いたら戻ってくるから、屯所かどっかにいて」
「屯所に?」
「ん。ちょっと話したいことある。内通者の件で」

 ふたりに向けてそう言い置くと、雪瀬は桜の手を引いてきびすを返した。




 今夜はいつになく空気がざわめいているような、そんな気がした。
 雪瀬は桜を連れて関所の門をくぐる。歩いている間、彼女はそれこそ声を失くしてしまったみたいにずっと言葉を発しなかった。
 銃声騒ぎでどことなく騒がしくなっている関所を宗家の第二子さまの権限ですたすたと通り抜け、月に仄かに照らし出された道を歩く。

 見知ってる場所に来たのだからもう手を離してもよい気がしたのだが、今の彼女はほとんどまともに歩けてなくて、手を離したらそのまま倒れてしまうんじゃないかと危惧してしまうほどに頼りない。結局そのまま一方的に引っ張るような格好で歩いていると、屯所の脇の小さな庭の前でふと桜が足を止めた。
 蔓の巻いた柵を見上げ、それからおもむろに地面にかがみこむ。少女の行動を一瞬いぶかしんでみてから、行きがかり上仕方なく雪瀬も隣に座った。足元には枯れ落ちた花が点々と残されており、弾けた黒い種子があたりにばらまかれていた。まるでそこに何がしかの面影を重ねるように、桜は真摯な視線を枯れ花へ注ぐ。
 その横顔をしばし眺めやってから、雪瀬は花に今一度目を向ける。ああ、と思った。

「爪紅草か」
「つまべに、そう」
「鳳仙花ともいうかな。――ほら、実を切り開くように散るでしょ。裏切り者の濡れ衣をきせられた神さまが『私は無実です』、『疑うのなら、どうかこの身体を開いてお調べくださいませ』と言って花に変わってしまったんだって。……悲しい、花なんだよ」

 別に聞こえていてもいなくてもよいと思っていたのだけど、言葉自体は届いていたらしい。微か顎を引くと、桜は枯れ落ちた爪紅草の花弁をそっと撫ぜた。長い睫毛が伏せられる。凍て付いた夜気に小さく震える少女はまるで嵐に耐える小さな花そのもののようだった。
 雪瀬はそぅとその頬に指先を差し伸ばす。冷たい肌に指の背をあてがうと、少女の喉が微かに震えた。
 閉じられた眸から静かに涙が伝って落ちる。
 声を殺し、嗚咽に喘ぐわけでもなく、ただ、静かに、静謐と泣く。

「何があったの」

 その身体を抱き寄せてやりたい衝動に駆られながら雪瀬はあえて冷然と尋ねた。
 眸を大きく開き、それから桜はぶんぶんと細い首が折れそうなくらいに何度もかぶりを振る。その顔色は蒼白を通り越してほとんど血の気がなく、きゅうと丸まった身体は痛ましいくらいに震えていた。

「……っ、ん、…、」

 苦悶の表情を宿し、桜は何度も引っかかりがちの息を吐く。けれどうまく息ができないらしい。呼気を乱れさせ、きつく胸を押さえながら桜は肩を激しく上下させた。少女の身体がぐらりと傾ぐ。突然の異変に驚き、雪瀬は桜の背に手を回した。腕にすっぽり収まるような小さな身体は小刻みに震え続けている。

「さくら」

 大丈夫、大丈夫、というようにその背を何度も撫ぜる。それでもどんどんと彼女の息が弱くなっていく。抱き寄せた身体はびっくりするほど冷たい。この少女はこのまま死んでしまうのではないかと雪瀬は思った。

「……せ、…たす…、」

 息も絶え絶えに桜は雪瀬の腕にすがりつく。何度もかぶりを振り、何かに怯えるようなか細い悲鳴を上げたかと思うと、ふっと身体の力が抜けた。泣き濡れた眸が閉じられる。
 それきり、桜は。
 三日三晩、目を覚ますことがなかった。