三章、泡沫



 一、


 金砂一袋と引き換えに人形屋の男から手に入れたそれはまことに美しき人形であった。
 背に届くほどの長い黒髪は絹糸のように手触りがよく、手を差し入れればさらさらと柔らかに滑って落ちる。透け入るような肌はまだ降り初めの真白な雪のよう。清らかであるがゆえに踏み荒らしたくなる白さである。
 それから、眸。
 色素というものがおよそ乏しい少女の中でただ一点特徴ともいえる緋の眸は極上と名のつくどんな紅玉よりも美しい色をしていた。
 さりとて美しいだけの女ならば掃いて捨てるほどいる。さらにまだ幼さの残る華奢な身体は成熟した女のまろやかさなど皆無であり、抱き心地は正直あまりよろしくない。だが、男は少女を愛した。――艶(イロ)である。少女が時折匂わせるぞっとするほどの艶に男は溺れた。大輪の華というよりは咲き初めの蕾がごとき清らかな艶である。
 男は後宮の深くにしつらえた座敷牢に少女を閉じ込めるようになった。光の届かぬ場所に置き、己以外の何人にも触れさせようとしない。綺麗な衣に何重にもくるまれて座敷牢にちょこんと座る少女の姿はまるで雛人形か何かのようである。
 ――少女はその実、まことの人形のようであった。
 表情というものがまるでない。ただ綺麗な眸でひとを見つめ返すだけ。その眸もさながら硬質な紅玉であった。言葉もなく、知恵もなく、よって意志というものもない。少女の精神は未だ生れ落ちた赤子のままであった。

 十年という歳月が過ぎた。
 その年は雪が長かった。初春まで大きな牡丹雪が降り続けた。
 であるから春、都の桜が花を綻ばせるようになるとひとびとはひときわ喜び、口々に春の訪れを祝いあった。宮中では内裏の南殿の左を司る桜が花を綻ばせ、右の橘の常盤色とあいまってああげに美しきことと道行く者を微笑ませる。
 そんな季節だった。少女の前にひとりの青年が現れたのは。


「はじめまして。お姫さま」

 名を縫(ぬい)という。黒衣の占術師が近頃そばに置き始めた戦人形である。
 戦場を厭うて馬糞を片付ける仕事を選んだ変わり者で、それが月詠の目に留まり、帝の恩寵深き人形の世話をすることになったのだった。
 青年はよいしょと少女に視線をあわせるようにして長身をかがめる。柔らかな微笑をたたえ、牢の格子の間からこちらへと右手を差し伸べてきた。
 その挙措が何を求めているのかわからず、少女はきょとんと例の澄んだ眸で差し出された手のひらを見つめ返す。けれど彼からすればそんな少女の反応のほうが思いもよらぬものであるらしかった。

「よろしくね」

 握手も知らないのか、と青年は少女を嘲笑ったりはしなかった。ただ慈しみをこめた目で少女を見つめると、その手をそっと取る。
 軽く握って、それから離す。少女はほんの少し驚いたような顔をして空に浮いた手をまじまじと眺め、手のひらに残ったぬくもりを確かめるように五指をにぎにぎした。

「まずは名前を決めようか」

 青年はそう言って、ほんの少し考えるようなそぶりをした。じっと少女のほうへ顔を近づけ、うーんと右へ首を傾ける。緋色の眸をぱちぱちと瞬かせ、少女も左へ首を傾げた。どうやら彼の真似をしているらしい。試しに左に傾けてみると、今度はほてっと右に首を傾げる。そのあどけない挙措にふと胸に沸きがって来る感情があって青年は顔を綻ばせた。

「じゃあ――“さくら”。桜はどうかな?」

 少女は相変わらず右に首を傾げている。
 青年は苦笑し、ぶらんと所在なく垂れていた少女の手を取った。

「ほら、こんな字」

 少女の手のひらにゆっくり“桜”と指で書いてみせ、青年は少女の反応を待った。だが期待はむなしく、彼女は右に傾げていた首を直して、ちらりと緋色の眸を手のほうへ落としただけだった。そこに感情の色は見て取れない。嫌がっているという風でも、また興味があるといった風でもなかった。
 青年は軽く落胆し、それから憐れだなと何とはなしに思う。この娘は名がないだけではなくまだ心すらもないのだ。

「いい、忘れないで。これがきみの名だ」

 縫は少女の手に自分の手を添えると、そっと文字ごと握りこませた。
 しばらく少女は動かなかったが、やがてゆっくり握ったこぶしへ目を移し、さくら、と呟く。澄んだ、小鳥の囀りのような声だった。そこに本当に文字が入っているとでも思っているのかもしれない、大儀そうに手を持ち上げ、さくら、と少女はもう一度呟く。

「うん。よろしくね、“桜”」

 青年はにっこり笑うと、少女の黒髪を優しく撫ぜた。



 ――わたしが生まれたのはこの瞬間なんだと桜は今も思っている。






 縫と名乗る青年はそれから日に数度、桜のもとへ訪れるようになった。
 朝に、夕に、今までの犬の餌に等しい粗末な食事ではなく、温かい湯気立ち昇るたくさんの料理を両手にいっぱいに抱えて彼はいつも現れた。
 女官たちの炊事場をこっそり借りて、余った食材で縫が自ら作ったのだという。言われてみれば確かに具はまちまち、帝に献上される品々のように贅をこらした意匠や飾りつけなどもない。けれど、食の細い少女のためにと柔らかく煮込んで作ってくれた粥の味は素朴でとても優しく、桜ははじめて身体のうちが満たされてゆくような感覚を覚えた。これがお腹がいっぱいになるということなのだ、と思った。

「どう、おいしい?」
「……あ、ま、」
「甘い?」
「アマイ」

 桜はうなずき、煮豆を口に入れる。
 日ごとに変わる料理を出されるがままに食しながら、桜は次第に甘いと辛いと苦い、そして酸っぱい、の違いが食べ物にはあるということを学んでいった。
 自分は苦い、が嫌いで、甘い、が好きであるらしいことも知った。同時にその他として、“まずい”があるのも覚えたが、これは作り手の青年からすれば不本意なことであるらしい。

「マズイ」

 焦げた魚に箸をつけ、ぽつりと呟くとすかさず頭をはたかれた。
 マズイ、は思っても言ってはいけないらしい。桜はうーんと考えた。

 夕餉をかねた遅い昼餉が終わると、青年は決まって「おいで」と桜を呼んでくれる。桜は重ねた衣をずるずる引きずって歩いていき、格子越しに彼のそばへかがみこむ。すると彼は桜の髪を優しく梳きながら、話を聞かせてくれるのだった。
 空のこと、海のこと、花のこと、星のこと。
 たぬきが茶釜に入って抜けなくなる話や、ねずみが嫁を探して旅をする話などもあった。
 青年の話は多岐に渡り、桜を飽きさせない。ひとつひとつ、丁寧に語り聞かせてくれる青年のその表情や仕草を、桜は大きな眸でじっと見つめる。真摯そのものといった風だった。桜は飽きることなく青年の話に耳を傾け、彼が苦笑混じりに目を手で覆うまで彼の顔を見続けた。




 だんだんと大きくなってくる足音を聞きつけると、桜は横たえていた身体をぴょこんと起こす。外では雨の音がしとしとと続いていた。湿気が強い。どこか気だるさを感じさせる雨の季節であった。
 まもなく現れた青年はおはようと言って格子越しに少女の湿気で少ししっとりしてしまった髪を撫ぜた。

「ごめんね。今日はいつもより遅くなっちゃったね」

 そう詫びて、縫は膳を床に置いた。その手元を桜はじっと眺めている。相変わらず彼女の花色の唇は固く引き結ばれたままであり、言葉というものが発せられることはろくになかったが――。膳を渡そうと縫が何気なく目を合わせた瞬間である。不意にそれまで無表情だった少女がふわりと、花が咲き綻ぶように微笑った。

「――……」

 突然の笑顔に、縫はしばしお椀を持ったまま固まってしまう。

「わらっ…、」

 普段、温厚そのものの青年の顔にさまざまな感情が広がっていくのを桜は見た。おもむろに縫は格子越しにぎゅうっと桜を抱き寄せる。特に抗うわけでもなかったので、桜の小さな身体はすっぽりと青年の腕の中に収まってしまう。その頭を撫ぜながら、笑ったねぇ笑ったねぇとしきりに縫は呟いた。いったい何を喜ばれているのかがわからず、桜はただただ不思議そうな顔をする。
 桜、と呼ぶ声が温かい。腕が温かい。青年の気持ちがじんわり伝わってきたような気がして、桜は緋色の眸を優しく細めた。――そのどこか儚い微笑い方は、青年のそれとひどく似ていた。おそらくは長いこと一緒にいるうちに覚えてしまったのだろう。
 であるからこのときは単純に真似てみただけだったのかもしれない。心など深くは伴っていない、ただの“ものまね”だったのかもしれない。けれどそれでも青年は喜んだ。少女が自分の訴えかけに何がしかを返そうとしてくれたことをいとおしみ、喜んでくれた。
 桜は青年の胸にそっと顔をうずめた。