三章、泡沫



 二、


「――震えているのか」

 身体に覆いかぶさるようにしていた男はふと桜へ視線を落とし、尋ねた。
 眸を瞬かせ、桜はふるりと首を振る。襦袢は半ば剥がされていたが、別にさほど寒いわけでもない。まだ秋初めの夜である。
 寒くない、ということを身振り手振りで伝えようとすると、男はくつくつと笑い出した。

「赤子だなぁお前は。まだ這い出したばかりの赤子だ」

 そう言って男は桜の前髪を梳く。
 いったい何を笑われているのか、桜にはよくわからない。ただ機嫌よさそうに笑う男の横顔をうかがいながら、今日はどうしてこんなにたくさんの言葉をかけてくれるのかなとそちらを不思議に思った。いつもは男が閨に入るや否や組み敷かれて、言葉を交わす暇もなく事が終わる。だが今日に限って男は気まぐれを起こしたらしい。褥に散らばった桜の髪をのんびりいじりながら、

「縫はどうだ」

 とまた言葉を向けてきた。
 求められている答えを図りかね、桜は少し首を傾ける。

「あの男は優しいだろう」
「やさ、シイ」

 そうだ。縫はこのひとと違って無理やり褥に組み敷いたりしない。髪を撫ぜる所作は優しく、その手のひらは温かい。桜はそんな風にひとに扱われたことがなかった。

「……縫、あたたかい。スキ」
 
 心のままに思ったことを口にすると、男はそうかと小さく笑った。

「そうか、好きか」
「……」
「それは面白いな」

 面白い?
 何故桜が縫を好きだとこのひとが面白くなるんだろう。桜はまた不思議に思って、男の表情を探ろうとした。だがその前に髪を梳いていた手がぐっと肩を褥に押し付け、唇を合わせられる。次第深さを帯びるそれを桜はただ人形のように受け入れた。
 目を瞑る。人形のように、と桜は自分に念じた。人形のようにしていれば、肌を弄る手もなぶられるようにして繋がれることも怖くない。大丈夫、人形のようにしているだけだ。繰り返す、繰り返す。胸を締め付ける痛みから目をそらし、繰り返す。
 その晩は常よりも長く長く、緩慢に過ぎていった。






 ひやりと氷水に浸された布を額に置かれる。
 桜はうっすら眸を開いてそのひとの手元を見た。縫は小さく微笑み、桜の瞼の上に手を乗せる。その手に促されるようにして桜はまた目を瞑った。

 結局昨晩は夜明け近くまで男が桜を離すことはなかった。
 十年以上ろくに外に出されず育った桜は体力というものがない。ようやく座敷牢に戻された頃には意識もおぼつかなく、桜はそのままぐったり眠りこんでしまった。そして昼になってどういうわけか熱を出したのだった。
 こんなことは今まで一度たりともない。最初は自分でも発熱したことがわからず、ただ今日はやけに身体が重いなぁと考えながら縫の差し出した膳を取ろうとしたのだが、身じろぎしたはずみに視界が真っ白になり、身体がぐらりと傾いた。倒れてしまった、ということはあとで知った。

「……よる、」

 あたりはもうすっかり暗くなり始めている。そろそろ閨にはべる準備をしなくてはいけないのではないかと桜は考えたのだが、縫は首を振って桜の額に張り付いた前髪を指で梳いた。今夜はここで普通に眠っていてもよいらしい。桜はほっと安堵めいた息をつき、瞼を下ろす。

「……ねぇ桜」
「ん、」

 耳元で優しく名を呼ばれて、桜は閉じかけた眸をうっすら開いた。

「夜伽は嫌かい?」
「……ううん、」

 当たり前のようにふるりと首を振りかけ、桜は戸惑う。
 嫌だとか嫌でないとか。今までそんな風に考えたことなどなかった。それは桜が桜である以上至極当然に付きまとうもので、生まれながらに拒否権などないのだと思っていたのだ。
 でも改めて嫌かどうかと訊かれると――。

「――……」

 桜は泣きそうな表情になる。
 どうしてそんなことを訊くんだろうと思った。胸が痛くて痛くてたまらなくなった。

「あぁごめんね。桜、ごめんね」

 縫は困ったように微笑って桜の頭を撫ぜる。その手から逃れるように身じろぎして桜は代わりに青年の膝に頭を乗せた。膝に頬をすり寄せるようにする。
 いつになく甘えるような少女の仕草に微苦笑し、縫は額に大きな手のひらを置いた。

「ごめんね、桜」

 額から冷たくなってしまった頬に手を滑らせ、やがてこめかみに指を差し入れると、少女は素直に頬を預けてきた。緋色の眸を陶然と細める。
 宮中の鏡がごとき床に、秋の木漏れ日がまだらの模様を作る。
 ひらり、落ちたのは赤く色づき始めた一葉。
 宵の色を滲ませ始めた風が五回の鐘の音を告げた。都の大門が閉められる時間、宵初めである。空に響く鐘の音に気づき、桜はつと身じろぎした。
 半開きの蔀から見える空はすでに深藍に染まりつつある。もうまもなく夜が始まるのだ、と知れた。ふと胸が暗い感情に覆われる。ああこのままずっとずっと熱が引かなければいいのに、とそんな風に思う。そうしたらずっとずっと縫のそばにいられるのに。
 降って沸いた気持ちを持て余し、桜は首を傾げる。
 何故だろう。前はこんな風に閨に行きたくないなんて思うこと、なかったのに。桜はどうしたんだろう。

「さくら。聞いて」

 流れる黒髪をゆっくり梳いてあやすようにしていた青年はふと口を開いた。その声には穏やかでありながらも、しなやかな芯の強さが宿っている。身を起こした少女の頬へ手のひらをあてがって引き寄せると、縫は桜の額へこつんと額をつけて囁いた。

「これからもしも嫌なことがあったら。怖いことがあったら。いい、桜。必ず僕の名前を呼ぶんだよ」
「ぬいの名前?」
「きっと必ず助けてあげるから。助けてあげるからね」

 そう、契る。
 愛する少女に。
 咲き初めの、白い蕾に。
 優しい青年は。

 おそらくは、自我を持った人形へ訪れるであろう悲劇をこのときすでに予感しながら。