三章、泡沫
三、
「――だから無名。もしも何かあったら、桜のことよろしくね」
「おい、よろしくってな……」
「こんなこと頼めるの、無名くらいしかいないんだよ」
「それはいい。それはわかった。だが、もしもって何だ。もしもって」
「もしもは、もしもだよ」
縫は肩をすくめ、苦笑する。匂欄に腰掛けながら紅葉した桜の樹を眺め、「来年の桜は綺麗かなぁ」と目を細めて呟く。青年に背中から抱きしめられてまどろみながら、桜はどこか遠くにその声を聞いていた。
*
花の香だ。
白磁製の香炉には身体を麻痺させるような極度に甘い匂いのする香がいつも焚かれている。その匂いが桜はとても苦手なのだった。
踏み入れたとたん、むっと例の香が鼻につき、桜は少し顔をしかめる。それから身を正して褥の上に座り込んだ。
大殿油はそのひとつに火を残しているだけで、室内は暗い夜闇に沈み込んでいる。衝立である几帳がいよいよ青白く眼前へ浮かび上がった。御簾越しに女官がひとり控えているのが見える。これもいつものことだった。
そわそわとあたりへ頼りなく視線を彷徨わせ、しかし無意識に求めていた影がどこにもないことを知ると、桜は視線を手元へと落とし、膝の上に重ねた手をぎゅっと握り締める。指先からはとうに体温が失せていた。
いつもと同じ、夜伽の刻であるはずだった。
いつもの通り、寝所へと通され、男を待つ。
ただそれだけのことなのに、ここ最近こうも気分が落ち着かなくなるのは何故だろう。
じりじりと燃えゆく蜜蝋の芯を眺めながら、緩慢に過ぎ行く時間とそれに比例するように胸のうちで膨らみ始めた不安に押しつぶされそうになって、桜は震えそうになる身体を必死で抑え付ける。ぬい、と。思わず口からこぼれてしまいそうになった名を首を振って飲み込んだ。
どれほど待ったろうか。かたん、と襖が一度大きく揺れ、音もなく引き開けられる。半開きの襖から、黒衣の男が姿を現した。
闇に同化するようであった人影は室内に足を踏み入れたとたん、たちまち精彩を帯びてゆく。月光を弾く銀糸のごとき髪に、夜闇のわずかな光すらも吸い込むかのような漆黒衣。大殿油の明かりを受けて闇に浮かび上がった白い横顔はまるで彫像か、能面のようであった。黒い双眸が今にも震えだしそうな桜へ一瞥をくれる。
「今日はまたずいぶんとしおらしい」
男はくっと喉奥でせせら嗤った。顎をとって上向かせられる。
視線が絡んだ瞬間、意志に反して身体がぞくりと恐怖にすくむ。
思わず後ずさりそうになるが、それを遮るように手首をつかまれ、ぐいと力任せに顎をとって上げさせられた。息をつく間もなく唇を重ねられる。小さな身体は肩を取られてたやすく押さえつけられ、どうすることも叶わずに桜は目を伏せた。
毎夜の情事だ。一夜、目を瞑ればいい。一夜、耐えればまた縫に会える。
貪り荒らすようなていを帯びるそれを受けるがまま、褥へと引き倒され、真白な襦袢の衿へと男の指がかかった。引き剥がされ、あらわとなった細い肩に綴られた一字へまた唇が這う。
「ぬえ、」
絶望と恐怖とに塗り潰された意識にするりとその声は滑り込んだ。耳元で囁かれるその声は、鵺、鵺、とくるおしげに繰り返す。ぬえ。ぬえ。ぬえ。ぬえ。ぬえ。ぬえ。ぬえ。――頭がおかしくなりそうだった。耐え切れず、桜は両手で耳を塞ごうようとする。だがそれすらも許されずに両腕は頭上で纏め上げられてしまった。いや、とか細い悲鳴を上げ、桜は何度もかぶりを振る。澄んだ緋色にみるみる水の膜が張り、つ、と溢れて落ちた雫が長い睫毛を弾く。
「……?」
頬を一筋伝った雫。不思議そうに眸を瞬かせれば、それはまた溢れて、頬を伝い、褥へと落ちる。丸い雫は敷布へゆっくり吸い込まれ、水の痕を残して消えた。う、と喉が震え、嗚咽が零れる。息がうまくできず、桜は空気を求めて格子天井を仰ぎ、浅い呼吸を繰り返した。敷布に爪を立て、途切れそうな息をこぼす。泣いたことがない、泣き方も知らない桜にとってそれは苦痛以外の何ものでもなかった。眉根をきつく寄せて、嗚咽を繰り返す。苦しい。苦しい。くるしい、誰か。誰か、たすけて。
「……い…、」
血の気を失った唇が動く。
とたん堰を切ったように感情の奔流が胸を突き上げた。
「――縫、…っ」
夜闇に向け、桜は悲鳴にも似た叫び声を上げる。
「ぬい、どこ、どこにいるの。来て、たすけて、――たすけて!」
異変に気づいて、駆けつけた女官に身体を抑えられ、襦袢をしどけなくはだけさせつつも、桜はなおも叫び、求める。
「助けて。いや……っ、縫、縫、縫!」
激情に突き動かされるがまま桜は叫ぶ。狂ったように暴れまわる。
――それは、抵抗だった。
少女が生まれて初めて示した、抵抗だった。
そして、『意思』だった。人形だった少女の。
果たしてかの優しき青年は少女の呼びかけに応え。
そして桜の視界は暗転する。
彼がどうなったのかを桜は『知らない』。
あとになって『死んだ』のだと無名から聞かされた。
*
声のない悲鳴を上げ、桜は目を覚ました。
緋の眸を大きく開いて、ぬい、ぬい、ぬい、と混乱気味に青年の名を呼ぶ。
何度かそれを繰り返してから、涙でぼやける視界の中に見慣れた天井の木目を見つけ、桜はようやくここがどこであるかを理解した。
宮中じゃ、ない。橘のお屋敷だ。
部屋はすでに明るい。
障子戸から射し込み始めた陽光に目を細め、そろそろと半身を起こす。冬であるにもかかわらず、襦袢はしとど寝汗を含んでいた。未だ震えのおさまらぬ身体を抱きしめると、夢見のせいか、鈍く痛む頭をほてりと立てた膝の上に乗せ、桜は目を閉じた。
瞼を下ろすと、鮮烈な赤がまざまざと眼前に蘇るようだった。血だまりの、赤。そこにあのひとはいなくて。どこにいったの、と桜はひとりで青年を探し回る。いつまでも、いつまでも。探し続ける。
「――起きたか」
低い男のひとの声がして、桜は我に返った。
見れば、いつの間にやら褥のかたわらに白鷺が座っている。
「あおぎ」
「おはよう。寝覚めはよく……なさそうだな」
桜の顔色を見て、扇はこそりと息をついた。
「朝、薫衣が来てたぞ。眠っているからと帰ってもらったが」
「……うん」
「十日前の晩の件、行き詰っているらしい。……なぁ桜、」
そこで扇は少しためらうように首をめぐらせ、黒い嘴を開いた。
「お前、やっぱりあの晩のこと、思い出せないのか……?」
沈痛そうな声が胸をつき、桜は目を伏せる。
小さくうなずくと、そうか、と扇はそっけなく首を振った。
「仕方ないな。思い出せないんじゃな」
この白鷺には珍しい、こちらを気遣うような言い方だった。
――扇が柄にもなく桜の身を案じてしまうのも無理はない。
何せ三日三晩眠り続けてようやく目を覚ました桜からは眠る直前の記憶がすっぽり抜け落ちていたのだった。
思い出せないのだ、あの晩何が起きたのか。何があったのか。
何を問われても訊かれても困ったように首を傾げるだけの桜を見て、やがて葛ヶ原の面々は桜から事の次第を聞きだそうとすることを諦めたようだった。
「扇」
「何だ?」
「……ごめんね」
胸が押し潰されそうな気持ちに駆られながら、ようようそれだけを口にすれば、謝るんじゃない、と心なしか苛立った口調で扇が返した。そう言われてしまうと返す言葉はますますなくなってしまう。桜は衿もとをかい繰り寄せ、目を伏せた。
――わからない。ただ深い喪失感だけが胸にあった。
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