三章、泡沫
四、
ひとつ、暮れ六ツを知らす鐘が鳴らされた。
腹底を打ち据えるかのような重い残響がびりりと山を木霊する中、顔を上げれば、ひとひら、ふたひら、狂い散る雪色の花弁が軽やかに降る。夢まぼろしを思わせるその光景に青年は軽く目を瞠り、それからつぅと瞳孔を細めた。
半月昇る淡藍色の空を、白き桜花が四方へ枝を張り、まさに覆いつくさんばかりに咲き乱れている。はらり舞い落ちた花弁が墨をわずか溶かし出したかのような茶の髪に絡まり、彼は苦笑まじりにそれをつまんで取り去った。
瓦町の桜は咲き誇る。
まもなく、冬に移り行こうかというこの時分に。
「はて、あれは狂い花でございましょか」
付き従う老婆が訛りの強い言葉で呟いた。
橘颯音は茶の毛先に絡まる花弁を払いながら、老婆を振り返る。目が合うと、彼の腰丈ほどの背丈である老婆はしししと黄色い歯を見せて笑った。
「どうしてか、一本だけ、狂い咲いたのでございます。まるで凶事の前触れのようじゃと恐れている者も多く……」
「――こら。梅婆」
前を歩く青年から短い叱責がとび、老婆は大仰に身体をのけぞらせた。
「おお、漱(すすぎ)さま。怖や怖や」
「梅婆」
「分かり申した。気味の悪い占い師は消えるのがよかろ」
けたけた品悪く笑って、老婆は後ろへ引っ込んだ。
「お気になさらないで下さいね」
困ったように嘆息し、青年は颯音へと気遣いめいた言葉をかける。それから軽く手を上げ、瓦町内地へと続く大門を百川の門衛たちに開かせた。
青年は名を百川漱(ももかわ すすぎ)といった。
葛ヶ原のすぐ隣に所領をもつ百川諸家、その政を司る家の当主である。
葛ヶ原の、当主のほぼ専制体制とは異なり、瓦町の百川諸家は古くから政をつかさどる法ノ家、祭祀を司る式ノ家、軍事を司る一ノ家、この三家の合議制をとっている。
漱は法ノ家の当主。本日は還暦を迎えた百川一ノ家・刀斎の祝いがためにやってきた橘一門の当主さまのお出迎えを仰せつかってやってきた。
「どうか許してやってください。梅婆……あのひと夫を亡くして以来妄言がひどくって。でも悪気はないので」
「ええ、ご心配なく」
老婆の言葉ひとつで取り乱すような颯音でもない。漱の言葉にうなずきながら、しかし颯音の意識は自然、狂い咲く桜の花とその背後に架かる三日月へと向けられた。
なんとも酒が似合いそうな光景だとひとりの少女が考えそうなことを思いつく。見せてやれればよいのに、あるいは連れてくればよかったか、と栓のないことを考えた。
す、と印を組み、小さく呪を唱えると、颯音は手刀でもするかのように空をすばやく切る。刹那、その延長線上にあった桜の一枝が風に手折られ、咲き殻の乱れる地面へと落ちる。
颯音は人差し指をついと折った。
その意のままに操られる風は、枝が地へ着く寸前にふわりと優しく花朶を絡めとり、微風にのせて舞い上げ、しまいには青年の手の内へとそれを落とした。ささやかな戦利品を微笑まじりにとっくり眺めやってから、
「扇」
と颯音は肩に乗っていた白鷺の名を呼んだ。
その嘴に枝をくわえさせる。
「無事瓦町についた、と葛ヶ原に伝えてくれる?」
あえて誰に、とは言わなかったが、それだけで通じたらしく、こくり、と白鷺はうなずき、空へと舞い立った。花枝をくわえて飛翔する一羽の白鷺を見送って、颯音は今一度、狂い咲きの桜を振り返る。
夜闇に仄白く浮かび上がる花影は艶を帯び、その立ち姿は、清らかというよりは、妖艶ですらある。花は魔を宿すというが、それは本当かもしれない。
「――桜はお好きですか。当主さま」
漱が背後から声をかけた。
「さぁ花もいいですが。私はお酒のほうが好きです」
颯音は陶然としていた表情をよそ行きの微笑に切り替えて答えてみせると、ひとの列へと足を返す。眸をひとつ瞬かせてみてから、青年はそれを冗談と受け取ったらしく、「百川のお酒はおいしいですよ」と朗らかに笑った。
*
ところで、橘雪瀬の天敵は馬である。
そして“天才”には及ばないまでも、持ち前の器用さでほとんどのことは人並み以上にそつなくこなしてしまうこの少年がただひとつ、絶対に絶対に絶対にできないのが乗馬なのであった。
「どうしてか聞きたい?」
釣鐘型の窓枠に浅く腰掛け、古書をめくっていた雪瀬はじぃっとその手元へ、もとい、その手に握られた人参(にんじん)へ物欲しげな視線を送ってくる馬を見やって言った。
「練習はね、したんだよ。昔。俺も一応橘の二子だから、馬くらい乗れないと困るだろう? だから乗ってみたんだけども、これが馬のほうがてんで動かない。で、仕方なく暁が竹刀で腹を叩いたら、今度はすごい勢いで走り出して止まらない。俺は朝晩かけて葛ヶ原を一周させられた上、最後には振り落とされて、さらには追い討ちをかけるように蹴られて、一時は命も危うい重傷を負わされたという始末。これが恨まずにいられるか」
聞いているのかいないのか、欠片の興味もなさそうにそっぽを向いていた馬はそこで急に口をぐもぐもさせ始めた。白い歯をむきだし、ひょひょひょと身震いする。
「笑うな、馬風情」
ぴしゃりといいつけ、雪瀬は古書を閉じると、返す手で人参の先をぴっと馬の鼻面に突きつけた。
「何で俺がこんなくだらない昔話を天敵のお前にしてやったかわかる? わかんないだろうね、“馬”鹿だから。要約すると、この人参をただで食わせてもらえると思うなよ、って意味」
不敵に笑い、雪瀬は人参を馬の前に掲げた。
馬がすすす、と首を伸ばしてくる。ほれほれ、とさんざん誘惑しておいてから、奴ががばりと口を開いた瞬間、雪瀬は人参を引っ込めた。がちり、と歯をかみあわせるも、何もくわえてないことに気づき、馬は眸をきょとんとさせる。雪瀬は得意げに笑った。
「ばか面。まだまだ修行が足りないね青二才」
「……何をやってんだよ。馬相手に。大人気ない」
どことなく悲しそうな眸をする馬の首もとを撫ぜやり、やってきた薫衣が問答無用で雪瀬の手から人参を取り上げた。
「あ」
「青二才どころか餓鬼だお前は」
冷ややかに返し、薫衣はよしよし、と馬をあやしてやる。雪瀬は少しばかり憮然となり、してやったりという顔をする馬にひと睨みをくれてやった。
馬のほうは馬耳東風なんとやら、といった様子で薫衣の手に機嫌よく身を預けている。
青毛の、見事な名馬である。
四肢は引き締まり、その肢体はしなやかで一種の完成美がある。葛ヶ原の民家で生まれたのを五條薫衣が引き取ったのだ。
そもそも、馬というのは乗る者の器を読むことに長けている。賢く、矜持も高い動物なので己より上だと認めるものにしか従わない。この馬も例によって非常に気難しく、長く乗り手が不在であったのだが、数多の男どもを差し置き、この少女が軽く手なづけてしまった。さすが五條、と思うが、さりとて馬の話など雪瀬には関係ないことである。
馬のたてがみの丹念に手入れをする薫衣を横目に古書を開きなおす。
「眉間に皺」
こちらの額に指をつけ、薫衣がふと笑い声を上げた。
「ご機嫌斜めですか弟君は」
「べっつにー」
雪瀬ははさんだ栞を抜き取りながら、気のない返事を返す。
「馬、嫌いなんだもん俺」
「ついでに愛しの花の君が臥せっておられますからねー。機嫌も悪くなるなる。――でもだからって私のお馬に八つ当たりすんな馬鹿」
ぴしゃりと跳ねつけられ、雪瀬はうっと言葉に詰まった。半分くらい図星であったので返す言葉に迷う。くすりと女らしく笑い、薫衣は馬の首元を撫ぜた。短い毛を指で梳き、そのたてがみに額を寄せる。
「世の中ってわからんな。意外と、お前のほうがのめりこんでしまったよね」
「……何の話?」
「おや、みなまで聞きたい?」
問い返され、雪瀬は憮然となる。
みなまで聞かずとも、無論彼女の言いたいことは想像がついた。
「薫ちゃんってさぁ」
「なーに?」
「意地悪い」
兄の底意地の悪さがうつったんじゃないだろうかと思いながら呟くと、薫衣は声を立てて愉快そうに笑った。こういうところは兄とは違う。こざっぱりした少女である。
雪瀬は馬のほうへ視線を上げた。
「名前、決めたの?」
「まだ。なんかいいのある?」
「そいつ、雄? 雌?」
「男の子だよ」
ふぅん、とそっけなくうなずき、雪瀬は手に抱えていた湯飲みを口に持っていく。琥珀色の茶からはほんのりよい梅葉の香がした。
「風――、風音(かざね)は?」
「嫌。立の字入れると、某腹黒な当主さまの名前になるから」
にべもなく切り捨てると、薫衣は手綱を樹にくくりつけ、雪瀬が腰掛けている釣鐘窓枠のすぐ横、濡れ縁に座り込んだ。
雪瀬は立ち上がり、急須から湯飲みに梅こぶ茶を淹れる。
ふたつぶん注いで、ひとつを薫衣に渡すと、自分はまた日当たりのよい窓枠に戻った。足元では七輪が木炭を赤黒く燻らせている。
「それで? 真砂の件だけど」
ようやく薫衣が切り出した。
不可解な銃声から半月。
今朝の長老会で橘分家の家主さまの不在を代理の家人が報告したのだった。すでにあちらの屋敷ではその話で持ちきりになっていたらしい。
「ここずっと、お前と暁が奴と別れたのを最後に、屋敷に戻ってきてないそうだ。葛ヶ原で姿を見たという奴もいない」
「そう」
「藤月邸は見に行ったか?」
「ん。おととい行った、けど」
藤月邸に足を運んだ雪瀬が見たのは、締め切られた大門と門衛すらいない空っぽの屋敷であった。
――ここのひと、どうしたの?
試しに道行く女を呼び止めて聞いてみたが、あちらはあれまぁと目を丸くして門衛のいない屋敷を仰いだ。
――藤月さま、いつ引越しなさったんでしょうねぇ。
言われて初めて気付いたといった風である。そのあとも二三人に問うてみたが、反応は最初の女と大差ない。ここ半月の間にひっそりと屋敷を払ったと見て間違いないだろう。行方を知る術はもはやない。
「仕方ないな」
藤月邸の話をかいつまんで聞かせると、薫衣はぽつりと呟いた。熱い茶をずず…とすすり、物憂げさの混じった息をつく。
「真砂は離反で確定か。内通者探しは打ち切ろう」
「……うん」
うなずく声はどうにも苦い。
「透一には言うけど、他の奴らには伏せるぞ。この時期に一族から内通者が出たなんて知ったら、家内が乱れる」
「ん。俺もそっちのほうがいいと思う」
雪瀬が同意を示せば、薫衣はどうにもやりきれない顔をして髪をかきやった。
凍風が吹き、馬が立てた耳をぶるんと震わせる。髪をかき乱す風がわずらわしかったのか、薫衣は小さく舌打ちした。彼女はこう見えて決して短気なほうではないので、もしかしたら平然と振舞っているだけで胸中にはいろいろと複雑な思いが混在しているのかもしれない。と考えるにいたって雪瀬ははじめて、薫衣とあとはおそらく自分の苛立ちの原因のひとつが橘真砂にあるのだろうということに気付いた。
――もう、帰ってこない。二度とは。
だってあいつは橘に反旗を翻したのだから。
悲しむほどに強い感情ではないが、その事実はただ澱のように心の片隅に影を落とす。
「そういえばさ。見つからなかったそうだぞ。お前の言ってた、“もうひとつの銃の持ち主”」
「……そう」
「今のところ、死体もあがってないのが幸いといえば、幸いだが。油断はできないな」
「そうだね」
うなずき、雪瀬は茶をすすった。
銃も、その持ち主も見つからなかったという話は朝暁から聞かされていた。
一言でいうと、計算違いである。関所の門を封鎖した時点で逃げることはできまい、と踏んでいたのだがこれはどうしたことだろう。門衛の包囲網をかいくぐったか、それともはなから銃の持ち主などいやしなかったのか。
あるいは、桜が何かを撃ったのか。
雪瀬は沈思する。
真砂の失踪に、謎の銃声、それからあの晩の桜の不可解な様子。考えるほどにいろいろと腑に落ちない点が残った。わからない。ただの偶然、なのだろうか。
「……ねぇ、薫ちゃん。真砂はさ、」
「まさご?」
薫衣はもうその話は終わっているだろうに、とでも言いたげな顔をした。
ゆえ、次の言葉を雪瀬はしばしためらう。何だよ、と薫衣がこちらの顔を覗き込んだ。
「真砂が、何?」
「……うん。あいつ、ほんとに俺たちを裏切ったんだと思う……?」
ぶらついていた膝を抱えるようにすると、雪瀬はそこにほてりと頬をのせ、吐息にまぜた呟きを落とした。
「何それ。どういう意味?」
「イミ、ね。意味は、そのまんまなんだけども……。ああ、うーん。やっぱり何でもないや。独り言」
自然鋭くなった相手の視線を肌で感じながら、これ以上推測で話をするのはよくないと考え、雪瀬は話を切り上げた。
「何だよ」
「独り言だってば。あ、これ桜の花?」
湯飲みを返しに部屋に入ろうとしたところで一輪挿しに挿された花枝が目につき、雪瀬はさらりと話題をすり替えた。
「――ん。当主さまが無事瓦町についたらしいぞ」
瓦町と桜の花がどう結びついたのかはしれないが、ふぅんと雪瀬は特別聞き返したりはせずに相槌を打っておく。颯音が瓦町について、薫衣の文机に花が飾られたということは、ええとまぁたぶんそういうことなのだろう。あの兄はたまに真顔でいかにも気障なことをするなぁと雪瀬は呆れて思う。
されど晩秋に桜の花とは本当に珍しい。
雪瀬は花弁に指を伸ばし、そ、と撫ぜてみた。水雫に濡れたそれはしっとりと絹のような柔らかさを持つ。秋の空に花が咲き誇る情景はさぞや艶やかだったろう。
「珍しいな、お前みたいな朴念仁が花に気を止めるなんて」
あれこれと思いをめぐらせていると、隣から茶々を入れられた。珍しいとはひどい。別に雪瀬は花鳥風月が嫌いなわけではない。――反対にそれらに風流を感じたりする心もまたないわけなのだが。
「……ねぇ薫ちゃん。花ってもらうとやっぱり嬉しいもんなの?」
「は?」
「いや、どうなのかなぁって」
「うーん。まぁもらえるなら菓子でも酒でも嬉しいんじゃないか……? 私は酒のが嬉しいがな」
「ふぅん……」
思案めいた相槌を打ちながら桜の花びらをいじっていると、
「半分やろうか?」
薫衣がひょいと背後から顔を出した。
「やるよ半分。で、愛しの花の君に献上なさるといい。どうだ風流だろう」
にやりと笑って、薫衣はためらいもなくぽきんと桜の枝の二又に分かれていた部分を折る。仮にも兄から送られた品だ。そんなぞんざいに扱っていいのだろうかと雪瀬は思ったが、薫衣はまったく気にしていないらしい。
「いいの?」
「だって私は花を愛でる趣味などないもの」
薫衣の言葉は飄としている。
「ったく土産は酒がいいっていったのに、あの男変なもん贈りつけやがって」
想い人がたくした品を変なもの呼ばわりすると、「な! 風音」と少女は先ほど一蹴したはずの名前で青毛を呼ぶのだった。
|