三章、泡沫
五、
近頃空気はぐんと冷たくなった。
桜は袷に薄い羽織を重ね、ぺたぺたと渡り廊下を歩く。朝餉と昼餉のあいまの半端な時間であったからか、いつもは飯炊き娘たちで賑わっている土間には人気がない。
桜は水瓶から柄杓で水を汲むと、それに口をつけた。ひんやりした水は乾いた喉を潤し、まどろんだ意識を呼び覚ます。一口、二口飲み下して、柄杓を置く。
土間の端っこに置かれた米びつの隣には、ちょこんと伏せられた茶碗と煮豆、漬物と味噌汁の並べられた箱膳がひとつ残されていた。桜のぶんだ。味噌汁の蓋をとって中を見てみてから、けれどどうにも食欲がわかず、結局箸はつけずに蓋をまた戻す。罪悪感が胸にいっぱいになった。ごはんはいらないって今度は最初に言っておこうと桜は考える。
歩いてきた廊下を引き返し、早々に自室に戻ってくると、桜は障子戸を背にちょこんと濡れ縁に腰掛けた。
春、夏ととりどりの花で栄えていた庭には今はもうほとんど色がない。枯れかけた萩と花柚子の樹に少し実がなっているだけだ。
枝折戸を軋ませ、吹きぬけた木枯らしが桜の長い髪を巻き上げる。見上げた空は透明に、蒼く深い。おもむろに手を差し伸ばす。しかしその蒼に届くはずがなく、反対に空の果てのなさに軽い眩暈を起こしそうになり、桜は板敷きにころんと横になった。虚空をつかんだ手を力なく落とすと、仰向けにぼんやり移り行く雲を眺める。初冬の風が枯れた木々の枝を吹き付け、そよそよと板敷きに散らばった桜の黒髪を、濃紅の袷を、なびかせる。
枝の先で頼りなく揺れていた朽ち葉が風にあおられてふつりと離れ、ひとひら、桜の髪に落ちた。別段身じろぎもせずにいると、くすんだ落ち葉がひとひら、ふたひら、板敷きへ、それから桜の身体へ舞い落ちて、降り積もってゆく。
緩慢な眠気に襲われた。
抗うわけでもなく重くなってきた瞼を閉じ入ろうとすれば、そのときふと見慣れた人影が視界端を横切った。ゆるゆると眸を開くと、こちらをのぞきこんでいた深色の双眸と目が合う。
静かな。深くて、透明な。
ああこのひとの眸の色は、空の深さに似ているな、と思った。
「なんだ。眠っちゃうのかなと思ったのに」
いつの間にか、すぐかたわらにいた声の主はからかうように言って視線を解いた。
どこかへ出かけた帰りであったらしい。いつもの藍袴に小袖、その上に防寒用の羽織を重ねた雪瀬は肩に担いでいた木刀を下ろすと、桜の隣に腰掛ける。微かに軋む板敷きに遅れて反応し、ひどくゆったりした動作で視線だけをそちらへと上げようとすれば、
「元気ないね」
苦笑するような気配が落ち、桜の身体に積もった落ち葉を払いやってから、こめかみあたりの髪に手を差し入れられる。さらさらと幼子をあやすように指で髪を梳かれた。
「飯炊き娘さんが言ってたよ。“桜さまは朝餉も夕餉も召し上がりにならない”−って。――そうなの?」
いつになく優しく問われ、桜は気まずくなって眸を伏せた。
ごめんなさい、と消え入りそうな声で呟けば、「別に怒ってないよ」と雪瀬はさらりと返し、額に手を置く。その手に導かれるままに桜はうとうとと眸を瞑った。
しばらく頭を撫ぜてくれていた手はこちらが眠ったと思ったのか、肩に流れ落ちた髪をひとふさゆっくり梳いてから、静かに離れようとする。
「……や、…」
桜はとっさにその手のひらに追いすがった。大事そうに抱えて頬をすり寄せる。離れていきそうな温もりを必死にたどろうとする。けれどいつものように頭を撫ぜて返してくれると思っていた手のひらはそれきり、ぴたりと動きを止めてしまったので。
桜は重い瞼を上げ、少年を仰ぎ見た。
光の射し加減で今は琥珀にも見える眸がふっと細まる。
「――幼いね桜は」
吐息と一緒に落とされた言葉は自嘲にも似た響きがあった。
思いも寄らない台詞に桜は眸を瞬かせる。頬にあった手が離れ、代わりにつぅと唇をなぞられた。優しく愛撫でもするような仕草。
視界端を、赤く染まった葉が落ちた。
蒼い空を漂い、板敷きへまたひとひら。
音もなく、紅の花は重なり、積もる。やがて、こぼれて落ちるほど。
「ん、」
唇を触れるひんやりとした指先の、慣れない感覚に桜が微か身をすくめると、あちらは苦笑を滲ませ、指を離した。
「そうだ、桜」
やにわに雪瀬は思いついた様子で声を上げ、起きてとでもいうように、板敷きをぽむぽむと叩く。
「うん?」
促されるまま桜が身を起こせば、あちらが脱いだ羽織で身体をくるまれる。衿を丁寧に整えられてから、すっと眼前に手を突き出された。
「あげる」
条件反射で差し出してしまった手のひらの上にひとふりの枝が乗せられる。はずみに花弁が一枚はらりと散り、板敷きの上に音もなく落ちた。見れば、漆黒の枝には五枚の花弁をつけた白い花がひとつ、ふたつとついていた。
「……ゆき、みたい」
桜は小さく息をつく。
落ちた花の咲き殻に触れる。予想した冷たさの代わりにあったのは、思いもよらぬ柔らかな感触だった。花弁を指で撫ぜ、その感触をいとおしんでから、ふんわり融けゆくように桜は微笑をこぼした。
「きれい」
「……気に入った?」
「うん」
桜はこっくり首を縦に振った。
そう、とそっけなくうなずくと、雪瀬は散った花弁を拾い上げて桜の手の中へ落とす。
「桜、知ってる? この花の名前」
「なまえ……、ううん」
「――と、思った」
ふるふると首を振ると、雪瀬は薄く笑んだ。
知っているのか訊いたからには答えを教えてくれるのだろうと期待して次の言葉を待ってみるのだが、しかしそれきり雪瀬は何も言ってくれない。桜はいぶかしがり、雪瀬の袖端を引いた。
「花、名前、なんていうの?」
「教えなーい。俺、花の名前に託して物を送りましたなんて恥ずかしいことしたくないもん。颯音兄でもなし」
そんな回りくどい言い方をされてしまうとわけがわからない。
たちまち桜が憮然とした表情になると、雪瀬はおかしそうに微笑ってきつく寄せられた眉間を指でつついた。痛くはないが、くすぐったい。桜はぎゅむっと眸を瞑って、少年の手から逃れようとかぶりを振った。
「わかった、手おろす、おろす」
まるで大人が子供をあやす要領だ。
ぽんぽんと頭を撫ぜ、雪瀬はおとなしくなった桜へ言った。
「春になったら山も里もみんなこの花で埋め尽くされる。そのとき教えてあげるよ。きっと」
「きっと?」
「きっとね」
彼がそんな風に、未来(さき)のことを口にするのはとても珍しい。
意外に思って考え込むように枝へと視線を落としてから、やがてうん、と桜は首を振った。
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