三章、泡沫
十、
「“玉子酒 どうせ飲むなら 玉子抜き”」
流麗な字をもって書き付けられている句を詠み上げると、隣に座っていた薫衣がぶはっと吹き出すのがわかった。
「ってなんだそりゃ! 意味わかんねー! 玉子抜きってただの酒じゃんか!」
薫衣は腹をよじりながらばんばんと畳を叩く。
「えーと、じゃあ次、」
句を詠んだ相手には悪いなぁとは思いつつも、やはりこの面白さは一度はまると抜けがたい。詠みぬしの姿を脳裏に浮かべてはくすくすと笑みがこぼれ落ちてしまい、透一はいけないいけないと思いながら、しかしはやる気持ちを押しとどめることができずにぺらりと紙をめくる。
「“冬至には 柚子入れるより 柚と風呂”」
詠んでみてから、うわぁと思った。頬が緩むのを我慢しきれず、うっと口元を手でおおう。どうやら冬至に際し、柚子を風呂に浮かべるよりは、むしろ妹の柚と風呂に入るほうがしあわせだという兄の心境を詠んだものらしい。
「おやまぁ。颯音兄さまったらすごい溺愛っぷりー」
薫衣が冷やかすように言って、透一から俳句帳を取り上げる。畳に寝そべってそれを広げると、ふぅん、ほぅほぅ、と時折感心したりにやにやしたりしながら読みふけり始めた。
この俳句帳、先日不在の当主さまの部屋を掃除していて、透一が見つけてしまった品である。棚の奥にしまいこまれていた上、ご丁寧に「無用」と書かれた紙までもが貼られて文字通り『封印』されていた。しかしながら、捨てる前に一応ね、とちらりと中身を確認してしまったのが透一たちの幸運であり、颯音の運の尽きだ。
――実は以前、もうずいぶんと前のことなのだが、瓦町の百川諸家にて句会が開かれたことがあった。そのとき確か颯音は、句を詠む暇もないからと透一に代作を頼んできたように思う。けれどこの様子だと、どうやらものすごく悩んで、ものすごく考えてあれこれ詠んでみた挙句、できばえに満足できず、途中で匙を投げた、というのが真相だったらしい。透一の考えを裏付けるように、句の横には書き直された跡や、たまに×印などがつけられていたりした。
句作に苦心するくらい、常ならばよくある話だと済ましてしまうところなのだが、颯音となると話は別だ。あの文武両道、完全無欠の天才風術師さまが、夜な夜な句会に出す句が浮かばず悩んでいる、――そのさまを想像するとどうにもおかしく、また微笑ましい。かのひとはあれでいてとても真面目な努力家なのである。透一が颯音を敬愛してやまない一番の理由だ。
「“面倒な 歌より酒が 我が友か”」
透一は薫衣の脇から俳句帳をのぞきこんで一句、詠み上げる。
「おー、ついにやけっぱちになってきたな」
「あとはー、あ、これいいなぁ。“雪ふりて 駆け出る吾子を 見送って”」
「……アコってなんだ?」
「親しいひとを呼ぶ言葉だよ。子供とかさ。雪だから、それに掛けて雪瀬のことじゃない?」
「ほーう。颯音兄さまったら存外兄馬鹿なんだから」
しししと笑って、薫衣は頬杖をつくと、盃を傾けた。
透一も一息ついて、酒の代わりに桜湯をすする。塩漬けにした桜の花びらが一枚浮かぶ白湯は見た目ならず味わいもまた格別だ。下戸の透一の愛用の品である。くゆりたつ香、湯飲みを通して手のひらに伝わる温かさに心をなごませつつ、透一は夜の空を仰ぐ。
薄く刷かれたような雲間には、赤みがかった丸い月がたゆとうていた。あの月を颯音も見ているのだろうかと何とはなしに考える。元気だろうか。身体は大事ないだろうか、透一の大切なあるじは。
「颯音さん、早く帰ってくるといいねー」
けれど、薫衣からの返事が返ってこない。
透一は眉をひそめる。不安をかきたてられ、「薫ちゃん……?」と少女を振り返った。
「帰ってこないなんてこと、ないよね?」
「――ない」
ようやく返された言葉は、しかし問うたこちらが思わず目をみはるくらい、厳然とした響きを持っていた。安堵するよりも前に透一はきょとんとしてしまう。だがそんなこちらの表情などは眼中にもない様子で、薫衣はまるで睨み付けでもするように紅月を見据えていた。
その横顔にあるのは、いつもと変わらない凛とした表情だ。
ただ何故だろう、今は張り詰めすぎてかえって脆くすら見える。ぴんと張った糸が今にも途切れ落ちてしまいそうなときと似ていた。
――大丈夫?
――きみは大丈夫なの? と。
声をかけてやるべきか、透一はためらった。この少女に、あるじが不在の今、必死に毅然とあろうとしているこの少女に声をかけてやることが果たしてよいことなのだろうかと。それはあるいは、他ならぬこの少女の矜持を傷つけてしまいはしないか。
「――ゆき」
「う、うん?」
「帰ってこないなんて二度と言うなよ。蕪木家の男が情けない」
けれどそんな風に思いあぐねているうちに、あちらはふと息をついて、ぴんとこちらの額を指で弾いた。透一はうみゃっと奇声を上げる。
「痛ぁ!? ひどっ、薫ちゃん痛いよー」
じぃんと熱くうずきだした額をさすり、透一は涙目で薫衣を睨め付ける。
「ばぁか」
薫衣はいつものように不敵に笑い、身を起こして大きく伸びをする。んー、と腕を伸ばす少女の傍ら、透一は俳句帳へ目を落とした。
「――“年明けも みな揃うことの しあわせよ”」
薫衣は目を瞬かせ、中途半端な位置で腕を止める。
少しばかり戸惑った様子で頬をかいてから、小さく笑った。
「……ひねくれ当主さまったら歌だと素直なんだから」
「そうだね」
「揃うと、いいな」
「揃うよ」
微笑み、透一は俳句帳を閉じる。
空へと視線を向けながら、ひっそり心に決めた。
待っているのはもうやめ。かのあるじさまを連れ戻しに行こう。
馬を走らせれば、三日の道のりだ。往復で六日。馬を休めることなども考えて十日か。たいした日数でもない。瓦町に行って、早く仕事を終わらせるようあのひとを焚き付けて、それですぐに帰ってこよう。どうかどうか、今かたわらにいる、強くて弱いこの少女が心をすり減らしてしまうその前に、透一は颯音を連れて戻ってくる。
そして年明けは必ずみなで迎えるのだ。
*
「それなら、うちの馬をお貸ししますよ」
家に戻るとの旨を告げると五條の家人はこう言った。
雪瀬の背筋にぞっと冷たい汗が這う。
「……う、ま…?」
「はい。栗毛の可愛い子で、名前を――」
「いりません」
「そんな、そう遠慮なさらずに、」
「すごく遠慮したいです」
結局代わりに提灯を貸してもらうと、雪瀬はありがと、と言ってきびすを返した。折りたたまれている提灯を開きながら玄関まで引き返している途中、ふと何か気配のようなものを感じて足を止める。
ちょうど家の土間のあたり。引き戸から顔を覗かせれば、ほどなく暗がりになっている柱に頭をもたせかけ、寝息を立てている少女を見つけた。逃げていったと思ったらこんなところにいたらしい。
あたりには他にひとの気配がなかった。
かまどの灰はすっかり冷え、からの酒瓶や料理の器が乱雑に置かれた様子が宴の名残を残すのみ。高い位置にしつらえられた格子窓から夜風が入り込み、酒気を冷ますように頬を撫ぜる。ほんの一時敷居の前で考え込んでから、雪瀬は結局中に入って眠る少女の前に腰を落とした。長い睫毛は伏せられてしまって、さやとも動かない。頬にかかった髪を指でのけてやっていると、くすぐったかったのか、桜は少し身じろぎし、それから何気なく置いてあったこちらの手に頬を預けてきた。手のひらに頬をすり寄せ、ほどなくほっとあどけない表情がそこに宿る。本当に安心しきったような表情だった。この手が自分を害することはないと信頼しきっているかのようだった。
「ねぇ、こんなとき俺が何考えてるか、わかる?」
ふと試すように訊いてみた。
静かな寝息が返る。儚い安らぎを持ったその。
「何を思って、何を望んでいるのか、」
髪を絡ませていた指をつぅと滑らせ、花色の唇をなぞる。
肌に触れるだけじゃなくて、髪を撫ぜるだけじゃなくて、本当は中身もぜんぶ欲しい。けれど少女がやっと得たその安らぎまで奪って雪瀬が欲しいものはなんなのだろう。そう考えると、たまらない気分になった。
「――わかんないよな桜だもんね」
苦笑して、雪瀬は手を離した。
しかしさすがにこのまま放置するわけにもゆくまい。一度この少女に所構わずすぴすぴ寝てはいけませんと教えるべきだと心に固く誓いながら、自分の羽織をかけ、少女の身体を抱き上げた。
「おや。お帰りですか?」
背後から声をかけられたのはそのときだ。
別に後ろめたいことなどないのにびくりとしてしまい、そのことに若干の気まずさを感じつつ雪瀬は相手を振り返った。
「ってなんだ。暁かー」
「すいません。五條の家の方に夜具を用意していただいていたところ、雪瀬さまをお見かけしたので……」
暁は顔を上げ、格子窓に昇る月の高さをはかるようにする。
「もう夜も更けております。雪瀬さまも一晩お泊りになっていけばよろしいのに」
「んー、そうしたいのは山々なんだけどさ」
「――何か?」
「少し、気になることがあって」
「気になること、ですか?」
「うん。でも、おしえなーい。内緒」
小さく微笑んでみせると、「見えない人なのだから」と暁は首をすくめた。
「それなら引き止めませんが。どうかくれぐれも道中お気をつけくださいませ」
「ん。暁もおやすみ。――あ、桜さ、ちゃんと布団に寝かせておいてあげて?」
思いつき、雪瀬はついでとばかりに青年に少女を押し付ける。ずっと腕の中にあった体温と重みが離れる。からになった手をまぎらわせるように足元に置いておいた提灯を取り、それから雪瀬は桜を抱え直していた青年を仰いで、その額にすいと指をつけた。口内で短く呪文を唱える。
「……何か?」
「よく眠れるおまじない。目にくまできてたから」
よい夢をね。
微笑ってそう告げると、雪瀬はきびすを返した。
暁は少年の背中を優しく見守る。
しかしその口元に湛えられた笑みは徐々に冷え入り、まもなく完全に消えうせてしまう。暁は桜を褥に横たえると、隠し持っていた包みを開いた。そこから出てきた漆黒の銃口をすがめ見、彼は銃弾をつめる。
「……ん、」
寝返りを打った少女に気付いて、暁はその額に手を置いた。
「お眠りなさい、桜さま」
優しくその耳元で囁いてやる。
「あなたの眠っているうちにすべて終わりますから」
低く笑い、暁は部屋を出た。
|