三章、泡沫



 九、


「あらまぁ。まぁまぁ」

 沙羅は口元に袖を持っていき、くすくすと笑った。

「あながち間違いでもなかったのかしら。空蝉さま、あなたの人形が頬を真っ赤にして逃げていきましたよ」
「うー……ん」

 だが空蝉のほうは疲れてしまったらしく沙羅の膝の上でいびきをかいている。沙羅は品よく梅酒の注がれた盃のふちに口をつけ、空蝉へ慈愛をこめた目を落とし、その頭を撫ぜる。わら人形相手によくここまでできるなぁと雪瀬は少々沙羅を見直した。この男に対する沙羅の態度は以前と変わらぬ粛々とした妻そのものである。

「いやぁね。何見てるんですか」

 そして雪瀬に対する態度も相変わらずである。

「言っておきますけど。あの子に手荒な真似をして御覧なさい。承知しませんからね」
「はぁ? 誰が手荒だって?」

 雪瀬は首をすくめる。何せこちとら手荒どころかそれこそ壊れ物くらいのつもりで扱っている。

「あら、わかりませんよー? 男ってみな獣ですから。――ところで橘雪瀬」

 しゅると微かな衣擦れ音が立つ。沙羅は盃を畳に置き、少しこちらとの距離を詰めるようにした。声をひそめて続ける。

「その桜のことです。あの子、ある夜の記憶をすっぱりなくしているという話を小耳に挟んだんですが、真ですか?」

 あー、と雪瀬は沙羅から梅酒の瓶を取り返しながらうなずく。

「銃声が鳴った夜のこと? ……人形ってさ、そういうことあるの? たまに記憶が飛んじゃうみたいな」
「冗談言わないでくださいよ。そしたら何ですか、私は時告げ人が鐘を鳴らすたびに記憶を失うんですか? 下らない」
「だよねぇ……」
「それに、他の人形師ならともかく空蝉さまの人形でそれはありえません。絶ぇぇぇっ対にありえません」
「絶ぇぇぇっ対にですか」
「絶ぇぇぇっ対にですよ」

 そこまで言われると逆に疑いたくなるのが自分のたちなのだが、今回に限れば必要ないだろう。ふぅんとうなずいていると、

「前にこんなことがあったんですが」

 と沙羅が口を開いた。

「っとあなた。宮中にいた頃、あの子の世話をしていた青年のことは知ってます?」
「青年?」
「名を縫といいます。氷鏡縫」
「ひかがみ……?」
「ええ、その氷鏡で正しいですよ」

 雪瀬が眉をひそめると、沙羅は間を置かずうなずいた。

「あなたもお知りの氷鏡藍……、彼はその実兄ですから」
「兄?」

 藍に兄がいたなどという話は聞いたことがない。幼い頃に家族を何者かによって殺害され、ひとり生き残った藍を黎、つまり月詠が引き取ったという話は大人たちの交わす会話の端々から聞いたような気がするが。

「あらましはそれでほぼ正しいはずです。――でもあなた、不思議に思いません? 月詠は何故面識もない、赤の他人の子供を引き取ったのでしょうか?」
「……『鵺』に似ていたから?」
「そうかしら。少なくとも私にはあの男がそこまで可愛げのあることを考えるようには思えませんけど。そも、氷鏡藍は何故鵺の面影を持っているのでしょう?」
「何故って」

 雪瀬は口ごもる。
 考えたこともなかった。藍と『鵺』、つまり桜の面影の一致は雪瀬の中ではただ“偶然”で片付けられていたので。しかし沙羅の口ぶりからすると、もしやそうではないのだろうか。『鵺』である『桜』と藍には何か繋がりでも? そして月詠はそれを知って藍を手元に置いているとでもいうのか。
 雪瀬は黙考する。そんなこちらを見取って、沙羅は肩をすくめた。

「鈍いですよ、橘雪瀬。私は以前、月詠には兄と妹がいたと言ったでしょうに。なのに、あなたときたらまだ真実にたどりついていないと見える」
「しんじつ……」
「月詠が自分の村と一族を滅ぼした朝廷で何をなそうとしているか、ということですよ」
 
 沙羅はゆるりと笑い、「話がそれましたね」と言った。

「縫という世話係の青年に桜はそれは懐いていたのですよ」

 そう少女は語り始めた。

 さわりと半開きの障子戸から微風が吹き込み、手元の油皿に浸された灯心がか細い煙を上げる。雪瀬は軽く腰を浮かせて障子戸を閉めた。火影の照り返しを受ける少女の顔に表情はない。

「まるで親と子、あるいは兄と妹のようであったのだとか。よくふたりで宮中を歩き回っていたと聞きます。あの難しい子が唯一心を開いた青年。あるいは彼があの子に心を与えたといってもいいのかもしれない。……けれど。月詠はね、あの子の目の前で彼を殺めてしまったんです。それはむごい殺し方をしたのだと。――面白いのはここからですよ」

 沙羅は声をひそめ、薄く笑んだ。

「翌日、目を覚ました桜はね、肝心の縫が殺される記憶だけを失ってたんです」
「……それ、忘れちゃったってこと?」
「ええ。病気でも身体的欠陥でもない。証拠に前後のことはきちんと覚えているんです。ちょうど褥で月詠の相手をしていたとき、縫がかけこんできたのだとか。でもそこからはふっつり記憶が焼ききれておりましてね、あの子、最初、縫が死んだことすら理解できてなかったみたいなんです。誰の呼びかけにも応ぜず、呆然と血だまりの中に座り込んでいたと聞く。――今回と少し似てません?」

 言われてみれば、結果だけに着目すると少し似ている。
 雪瀬は盃を持つ手を止め、考え込むように目を伏せた。沙羅は身体を傾けてひょいとこちらをのぞきこむ。

「ねぇ、あの夜のあと、あなたの周りで消えてしまった人間はいないんですか?」
「消えた、人間?」
「そう。桜が懐いていた人物で、そして『消えた』ことがごくごく自然になってしまっている人間。あの子に『死』を気づかせる余地もないほどに、あなたたちの周りから自然に消えてしまっている人間」
 
 消えた。
 消えてしまった、人間。
 雪瀬ははたと顔を上げる。
 そんなのひとりしかいないではないか。

「繋がりました?」
「……繋がり、ました」
「じゃああなたのするべきことは?」
「――ひとつ」

 答えると、沙羅はくすりと笑ってこちらから身を離した。

「……もしかして、これ教えに来てくれたの?」
「燕どのから話を聞きましてね。すぐぴんと来たのですよ」
「ありが、」
「――これで。空蝉さまを見つけてくださった件、チャラです」

 礼を言いかけた雪瀬の口にぴっと指を突きつけ、沙羅は胸を張る。
 雪瀬はひとつ眸を瞬かせてから、微苦笑を漏らした。

「……別に恩を売りたかったわけじゃないのに」
「私はね、こう見えて古くゆかしく律儀な人間なのですよ」
「歳が歳だからね」
「青二才がうるさいです」

 口を開けば、お互い揚げ足とりばかり。
 一時視線を交わしてから、吹き出してしまう前に同時に目をそらした。
 雪瀬は畳んでおいた羽織をとる。

「戻るんですか?」
「やるべきこと、あるからね」

 羽織に袖を通すと、雪瀬は横に立てかけてあった木刀をつかんだ。折れた部分に布を巻いて応急処置だけをしてあるそれを腰に佩き、障子戸に手をかける。

「沙羅」

 そこで思いついたように足を止めて、雪瀬は半身を振り返らせた。

「空蝉と会えて、よかったね」

 半開きの障子戸からさわりと夜風が流れ込む。沙羅は髪を押さえるようにしながらこちらを仰ぎ、碧い眸を眩しげに細めた。軽く開かれた唇から、音にならない言の葉が落ちる。
 泣きそうな表情をよぎらせる少女へ雪瀬は淡く微笑み、障子戸を閉めた。
 その背後ではひそやかに気高く月が照り、少年の影は風に吹かれて儚く消えうせた。




 徳利を軽く振り、あら、と柚葉は眸をひとつ瞬かせた。

「どうなさいました?」
「お酒が切れてしまったみたい。ちょっとお台所のほう見てきますね」

 肩をすくめて答えると、柚葉は徳利を置いて立ち上がろうとする。だが、お酒に強いこの少女にしては珍しく少しもたつき、障子戸にさりげなく手を置いて身体を支えた。ぱっと見には平然とした顔をしているが、その足取りはやはりおぼつかない。

「私が取ってまいりますよ」

 少女の手を取ってやんわり席へ戻してやると、暁は代わりに腰を上げた。



 屋敷の台所に人気はなかったが、酒や料理などはまだいくらか残されているようだった。暁は蜜蝋を置くと、慣れた手つきでそれらを盆に並べていく。少女のために酔い覚ましの水を用意することも忘れない。
 柄杓を取り、水瓶から湯飲みに水を注いでいると、ひんやりとした夜風が手元を吹き抜け、蜜蝋の炎がか細く揺らめく。どうやら頭上にしつらえられた格子窓から風が入り込んできているらしい。

「赤い……」

 窓の外の景色に小さな光源を見つけて暁は目をすがめる。格子で仕切られた夜空に所在なく浮かぶのは赤い月だった。銀月や金色の月とは異なり、その色には得も知れぬ禍々しさがつきまとう。
 刹那、ふ、と蜜蝋の炎が消えた。
 幕を落としたように視界が暗くなる。
 暁は柄杓を置いて、あたりを見回した。風がまた頬を舐める。
 ――違う。格子窓ではなく、これは背後から。

「よー、暁。よい晩ですなー!」

 不意に投げかけられた声に、暁は危うく湯飲みを取り落としそうになった。
 低く、かすれがちで艶のある、それでいていっそ耳障りまでに明るい、嫌な声。決して聞くことないはずの声である。二度と耳にすることのないはずの声である。
 暁は息をつまらせ、口元に手をあてがう。そのまま動けずにいると、くつくつと喉奥からせり出すようなあの男独特の笑い声がさざめいた。

「おやー? おやおや? 違いました? もしや俺さまの勘違い?」
「……な、」
「あーそっか、もしやアレか! アカツキじゃなくて、アメツキとかだったか! うんにゃ、キツツキ? いや文鳥? 忠犬? ってそりゃーあの夜伽さんってね。まぁ正直どれだっていいんだけどさ、元気そうで何より。恐悦至極に存じマス」
「……っな、ぜ、」
 
 何故ここに、と。暁はぞっと背筋が冷え入るのを感じながら、一息に背後を振り返った。
 果たして青年は、そこにいた。
 入り口に背をもたせかけ、暇そうに筆を弄んでいる。筆の先端に通された金糸銀糸が月光を弾きながら、ゆるりと弧を描いた。翳りを帯びた琥珀の眸は今は伏せられたまま。

「何故?」

 暁の言葉をなぞり、青年は口元に薄く笑みを乗せる。

「何を仰る、キツツキくん。だって俺ってば長期療養中ですってさっき雪の字も説明してたじゃん? 聞いてなかったん?」
「……だっ、それは、」

 そんなわけがない。そんなわけがあるか。あれはこの男の裏切りを隠すためのただの“嘘”。
 それに療養中どころか、この男は今頃海の藻屑となっているはずであって。

「でもまぁあれなんよ、酒飲みたさについつい宴に来ちゃったわけだなー俺。あ、ちなみにこれ内緒なぁ。雪の字の馬鹿に追い出されたらたまんねー」
「…ぅ、あ……」
「おやおや? やだなぁ、顔が真っ青ですぜ? キツツキくん」

 背を離すと、青年は軽い足取りで暁へと詰め寄り、ひょいとこちらの顔をのぞき込んでくる。ぞっとするほどの深さを持った双眸が真正面から暁を射抜く。猫が獲物を見つけたかのごとく、その眸が煌いたように見えた。

「それとも何かね?」

 にやりと青年の口端が上げられる。

「“殺したのに”って?」
「――……っ!」

 暁は声にならない悲鳴を上げた。
 ころされる。コロサレル。殺される――……!
 ひっ、と潰れた声を上げ、思わず後ずされば、がたんと背後に置かれていた徳利が倒れて転がり、足元へ落下する。陶器が砕け散り、中の水がはぜた。
 刹那、視界がぐにゃりと歪んで、青年の姿が闇夜へと融け消える。

 消、え、た。

「……っあ、ぁ、あ……」

 ろくに合わない歯の根から喘ぐような声がこぼれる。暁は胸を押さえ、台に手をついた。それでも動悸はおさまらない。身体ががたがたと震えた。
 
「また……!」

 また、まただ、とうわ言のように繰り返す。暁は肩をきつく握り締め、夢魔を払うようにかぶりを振った。






 朱色の盃へとろりと酒が満たされていく。
 柚葉はそれを無為に目で追った。酒は半分まできても勢いを失わず、なみなみと、なみなみと、注がれていく。しまいには盃のふちよりこぼれ出で、柚葉の膝元へぽたりと落ちた。

「……暁?」

 柚葉は酒を注いでいる青年をうかがう。案の定、彼は心ここにあらずといった様子でぼんやりと焦点の合わない眸を彷徨わせていた。

「暁」

 暁、ともう一度促せば、青年はふと我に返った様子で眸を瞬かせる。徳利を傾けていた手が止まるが、その頃には柚葉の膝には大きな染みができている。青年の表情にさっと憔悴の色が浮かんだ。

「っ柚葉さま、申し訳…、」
「別にいいですけど」

 この程度の失態をいちいち責めるほど狭い心の柚葉ではない。
 身だしなみとして持っている懐紙で布地をそっとふくと、柚葉はついと青年を仰ぐ。
 しかし珍しい、と思ったのだ。この誰よりも律儀で真面目な青年がこのような失態を犯すとは。何かあったのか。
 改めて見やると、その顔にはやけに疲労の色が濃いように思えた。まるで病人のよう。心なしか頬は痩せこけ、眸もどこか虚ろだ。そういえば、今日の宴の席でもあまりものを食べていない。

「何かありました?」

 柚葉はおもむろに青年の頬へと手を差し伸ばし、優しく問うた。両頬を抱いて目を合わせる。一瞬、ぎくりとした様子で青年が身を引くのがわかった。

「いえ……。ただ近頃、少し夢見が悪くて……」
「あら。どんな夢を見るのです?」
「いえ……」

 暁は繰り返し、逃げるように目を伏せる。頑なにこちらを拒む姿は手負いの獣が必死に傷を隠そうとしている姿を髣髴とさせた。その姿はどうにも痛々しく、頼りない。嫌がっているものを無理やり聞き出すことを常の柚葉ならよしとしないが、このときばかりは青年への心配のほうがより勝った。

「暁。話してごらんなさいな」

 柚葉は暁の頬をぺちぺちと軽く叩き、微笑みかける。

「何せ私は毬街の占い師ですからね。お望みならどんな夢だって解いて差し上げますよ」

 青年が落ち着くように努めて和やかな口調で続けるのだが、しかし彼の表情は依然固く強張ったままだ。そんなに恐ろしい夢を見たのだろうか、と柚葉は考え込む。
 暁、とあやすように名を呼んで、さらさらと青年の少し硬い黒髪を撫ぜる。少し続けていると、海の色にも似た眸が不意に揺らいだ。なんだか今にも泣き出しそうな表情だった。青年の身体がゆっくり傾き、額が柚葉の肩にそっとあてがわれる。
 首筋にかかる黒髪の感触が少しくすぐったい。柚葉は男の背中に手を回し、また髪を梳く。

「――……ひとをあやめたん、です」

 ぽつりと苦し紛れに吐き出された言葉に、柚葉はひとつ眸を瞬かせた。
 震える手が柚葉の肩口をつかむ。

「私はこの手でひとを。そして手にかけた者が蘇り、何度も私のもとへ……」
「そう、そんなに怖い夢を見たのね?」

 胸にうずめられた頭を撫ぜてうなずくと、暁は何故か虚をつかれた様子で顔を上げた。深い水の色にも似た眸がゆらゆらと揺らめく。

「ええ、――……そう。とても怖い夢、で」

 何とか顎を引いてうなずき、暁ははっとした様子で柚葉から身を離した。

「すいません、柚葉さま!」

 暁からすれば、自分の仕える一族にすがるような真似をしてしまったのが許せなかったのかもしれない。恐縮しきった様子ですいませんと繰り返し、頭を垂れる。

「少し気が…動転してたみたいで、……すいません。本当に申し訳ない」
「謝らないで。疲れているんでしょう、暁。五條さまの家人に頼んで夜具を用意してもらいなさいな」

 もう下がってもよいという意味をこめて告げると、暁は苦しそうに眉根を寄せた。

「柚葉さま、」
「謝らないでと言ったでしょう」

 わざとらしくつんと顔を背け、柚葉は早くいなくなりなさいとばかりに手を振る。
 ようやく心得たのだろう。暁は苦笑し、「それでは」と一度頭を下げてから立ち上がった。ちらりと見やった横顔にはあまりにも儚い、消え入りそうな微笑が張り付いていた。