三章、泡沫



 八、


「さて、お集まりのみなさま。で、えーと、ええとええと、……ね、薫ちゃんこういうときってなんて言うの?」
「さぁー? 素直に乾杯! でいいんじゃねーの?」
「かんぱいー? 颯音兄そんなことやってた?」
「じゃあ万歳三唱とか」
「嫌、それはいやだっ。僕やだからはい、雪瀬ガンバッテ」
「は? やだよ。なんでそういうのだけすぐ俺に押し付けるの」
「ああもう。ごたごた言ってるならおどきくださいませ兄さま」
「うみゃ、」
「ひぁぁ冷たっ、つめたいー!? 雪瀬お酒こぼさないでよー!?」
「――皆さま、道中ご苦労さまでした。それでは歓迎の意をこめて、」

 少女が差し出した朱色の盃に浮かべられるは、白い菊の花弁。それを白い喉を鳴らしながらくっと飲み干してみせれば、かくもあわただしき饗宴の始まり。




 いつもはあるじひとりの世話に追われているだけの五條家の家人はみな喜々として働いている。久しぶりのおもてなしが嬉しいのであろう。
 娘たちが綺麗にしつらえられた膳を運び、それぞれの盃へと酒を注ぐ。座敷ではすでにほんのり赤ら顔になった男たちが和やかに薫衣や透一たちと談笑していた。
 先日雇い入れた男たちを歓迎する宴は今晩五條家にて催されている。
 葛ヶ原の長老会格は全員出席を義務づけられており、顔見せついでに彼らの労をねぎらう、というのが宴の趣旨となっていた。そのため、現在“病により長期療養中”の真砂と瓦町へ訪問中で不在の颯音をのぞく一門がこぞってその場に会する、という実はあまり拝むことのないような光景が眼前に広がっている。薫衣や透一の他、少し離れた席では柚葉や暁の姿も見えた。
 ちなみに当の雪瀬はといえば。

「――というわけで、わかったろう? 驚いたろう? すべてのからくりは百川素堂にあったわけよ!」

 隅のほうでこっそり梅酒をいただいていたところをわら人形どもに見つけられ、以後延々と話相手にされているという始末である。げんなりするこちらの胸中を知ってか知らずか、わら人形こと空蝉はいたく神妙そうに話を続ける。

「だからな、聞け。聞きたまえ、橘」
「いいえ結構です」
「ったく相変わらずつれねぇ野郎だなぁ。ほら、梅酒でも飲め」
「有難う。でもそれ俺のですが」

 梅酒を盃に注いできたわら人形に冷ややかな言を放てば、ちぃっとあっちが舌打ちした。

「おい橘ぁ、俺がどうしてこんな身体になったのか、知りたくねぇのか? 気にならねぇのか?」
「ならな――」
「そうか気になるか。わかった話してやる」

 空蝉は沙羅の膝の上でうむっと大儀そうにうなずいた。雪瀬の言葉は無視するものと決められたらしい。

「しっかしどこから話そうか……。月詠にやられた俺が霊になって放浪していたのを見つけたのは確かお前と白い鳥だったなぁ。あのあと俺は紆余曲折の末、ここの沙羅と再会を果たしたんだ。こいつ年甲斐もなく泣きだしてなぁ。愛い奴よと俺も片袖を濡らしたもんよ。だが、しかぁし。霊という身が好かん。こいつを抱きしめる腕が欲しかったし、こいつの胸を弄る手も欲しかったし、こいつの」
「空蝉さま」

 ぽっと頬を赤く染めた沙羅にぱしんと叩かれ、空蝉はかははと明るく笑った。

「とにかくも欲深い空蝉さまだ。さっそく瓦町の百川素堂のもとを訪ねていって懇願し、ひとつ身体を貸し与えていただいたというわけよ」
「へぇ。わら人形にねぇ……」

 相槌を打ちながら沙羅へと目を向けると、

「このお姿も可愛いからいいんです」

 と真顔で惚気られた。

「おうよ。俺ってば可愛いからな」
「はい、空蝉さまって可愛いんです」
「もちろん、お前だって可愛いぞ沙羅!」
「まぁ空蝉さまったら……」
 
 ――頼むからこの空気どうにかなりませんかね、本当に。
 頬をつつきあう少女とわら人形から雪瀬は逃げたしたくてたまらない気持ちになったが、しかし一方の桜はというと目をきらきらさせ、何やらもの欲しそうな顔でふたりを見ている。それからちらりとこちらを振り返り、期待いっぱいの眸で袖端を引いた。

「あのね、雪瀬、」
「うん、俺はあんなこと言いませんよ」
「……」

 桜はしょんぼりした様子で袖を離した。
 その後ろでわら人形は少女に頬ずりされている。

「でなっ、夫婦水いらず、しばらく長くあまーい旅を続けていたんだ。都の祭も見たし、網代一族や、あとは糸鈴の里にも足を運んだな。けどそろそろ銭もつきてきたし、困り果ててしまってよう。そんな時に毬街で葛ヶ原の話を聞いてよ、一緒についてこさせてもらったというわけだ。うんまぁ、こんな事情だ。これからドウゾよろしく。力ならたまに貸してやってもいいぜぇ!」

 わら人形は手を腰にあてがい、びしりと格好をつける。
 だが、聞き役その一である桜のほうはといえば、いまいち事情がのみこめていない様子で沙羅を仰ぎ、その二の雪瀬は無言のままに瓶を傾け、盃にとくとくと透明な酒を注いだ。酒に口をつけ、目を細める。花待ち月に摘んでおいた梅を酒につけて十年近く寝かせたという秘蔵の梅酒はまろやかな味わいを持ち、淡い梅の香がそこに趣を添える。ふぁーと思わずしあわせそうな顔になっていると、桜と空蝉がじっとこちらを見つめてきたので、瓶をすすすと自分のかたわらへ避難させた。

「ぬぁ! おい、けちぃぞ! お前、豪族の庶子のくせに心のほうは全然広くないんだな!?」
「ええ、それはもう残念ながら。わら人形風情に飲ます酒はなし。――桜も。じっと見ててもだめ」

 畳にお腹をくっつけるようにして瓶に浮かんだ梅を硝子越しにつついていた少女にぴしゃりと釘を刺すと、桜はだめなのか、という顔になって畳の上にしゅんと顎を乗せる。
 涼やかな音を立てて少女の黒髪に挿されている簪が揺れた。結い上げられた髪のせいであらわになったうなじの白さがやけに目に付く。雪瀬は盃に口をつけながら、少女の簪に触れ、それから衿を少し引き上げた。

「ふぅぅぅん?」

 ふと沙羅が意味深な相槌を打つ。

「ね、あなたたち。もう寝たの?」
「ぶっ」
 
 思わず雪瀬は吹き出した。
 きったねぇなぁ、と空蝉が愚痴るが、聞いちゃいない。

「ど……っからそういう言葉出てくるの沙羅」
「あら、なんだ違ったの。つまらなーい」
 
 咳き込みながら尋ねると、沙羅は肩をすくめてそっぽを向いた。絶対わざとだ、こいつ。
 閉口し、雪瀬は桜のほうを振り返る。どうせ桜のことだから、うん眠ったよ一緒に、とか言葉を能面どおりにとってまた変なこと言い出すんだろうとたかをくくっていたのだが、しかし。桜は俯いたまま、耳まで赤く染めて固まっていた。
 り、理解してたんだ……。
 と思うと逆にばつが悪くなる。雪瀬は声をかけあぐねて首の後ろに手をやり、沙羅のほうへ恨みがましい視線をやった。
 おもむろに桜が立ち上がる。
 
「……わたし…、……おな、おなか。おなか、いたい」

 つっかえがちの言葉をなんとか言ってから、「水、のんでくる」と桜はてててと座敷を走り出ていった。沙羅がその背に言葉をかけるのだが、聞いている様子はない。すぐ脇を通りぬけざま、ふわりと眼前をかすめるようにたなびいた柔らかな毛先を目で追ってから雪瀬は盃に映った月へと視線を落とした。




 廊下の突き当りまで来てしまったところで、桜はようやく足を止めた。
 一瞬本来の目的を見失いかけ、はたと辺りを見回してから、そうだ水を探してたんだ、ということに気づいて土間のほうへと降りる。
 冷え切った三和土が足の裏を刺す。土間は蒼い闇に沈み込んでいた。
 月光を頼りに火の消されたかまどの隣に鎮座している青磁の水瓶を見つけると、桜はその蓋をとった。柄杓で水をすくって、口をつける。冷えた水は乾いた喉を潤し、砂漠に落ちた一滴の雫のような心地よさを感じながら、こくんと嚥下する。
 柄杓を下ろすと、桜はぺたんとしゃがみこみ、水瓶にもたせかかるように額をつけた。陶磁器は火照った肌にひんやりと冷たい。
 桜は目を閉じる。
 実際に痛いのはお腹というよりは胸のあたりだった。さっきはどうしてかわからないけれど、とっさに嘘をついてしまったのである。左胸に手をあてがい、それから火照った頬へ手を置き、桜は小首を傾げた。身体が変だ。
 どうして? これはいったい何?