三章、泡沫



 七、


「むみょ、いつ、」

 思いも寄らない男の登場でさすがに気が動転した。いつ来たの、と訊こうとするのだけども、つっかえがちでうまく言葉にならない。確かに無名は先日葛ヶ原に行くと言っていたが、まさかこんな場所で顔を合わせるとは思ってもみなかったのだ。

「ああ。ついさっきついた」

 対する無名はいつもどおりの落ち着きぶりで答え、おもむろに紫の包みを桜の鼻先に突き出した。

「ほら、頼まれていた銃弾だ。……少し遅れてすまなかったな」
「ううん」

 本当に約束守ってくれたんだ。
 桜は首を振って包みをぎゅっと抱きしめる。長身の男をほとんど胸をそらして仰ぐようにすれば、大きな手が伸びてきて桜の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。

「これで用も済んだ。俺は毬街に帰る」
「無、」
「――おい待て!」

 待って、というのは桜も言おうとしていたのだが、分け入ってきた扇の声のほうが数倍早く、そして鋭かった。

「何が毬街へ帰る、だ。俺のあるじの刀を折っておいて謝罪もなしか……っておい、止まれ無視するなっ――」
「もういいってば、扇」

 羽を開いて男へ飛びかかろうとした扇の尾をぐいと雪瀬が引く。後ろから羽交い絞めにされ、扇は喚いた。

「よくない! 俺がよくない!」
「俺はいいもん」
「だろうな。所詮その程度の矜持だ」

 無名は鼻で笑い、首をすくめる。
 これには雪瀬も若干閉口してしまったようだ。冷ややかな眸になって男を見つめる。
 いったい雪瀬の何がそこまで気に入らないのだろうか。ここまで悪意をむき出しにつっかかる無名というのを桜は初めて見た。と言っても桜もそれほど付き合いが長いわけでもないのだけども。

「これが橘第二子とはなぁ。橘もいずれ滅びるか」
「ぬあっ、おまっ」
「じゃあな」

 扇が突っかかる前に今度こそ無名はひらりときびすを返す。
 くそっ、とその大きな背中に向かって扇は叫んだ。

「今に見てろ、いつかその脳天かちわって味噌汁にしてやるからなー!」
 
 だが無名は桜へ手を振るだけで振り返りもしない。
 扇の言葉などうるさい蝿くらいにしか思ってなさそうな感じがひしひしした。扇は悔しそうに歯噛みする。

「畜生、こんな屈辱……っちくしょ」
「あおぎ」

 雪瀬はさらに何か言い募ろうとする扇の嘴を片手でひっつかみ、もう片方の手で身体を抱え上るようにして白鷺を黙らせてしまう。心得たものであった。
 それにしても無名。本当に帰ってしまうんだろうか。せっかく葛ヶ原で一緒に過ごせると思っていたのになぁ。

「桜。もう疲れた?」

 ぼうっと考え込んでいると、出し抜けに顔をのぞきこまれる。前髪をさらりとかき上げ、額に手を置かれた。雪瀬の手はいつもひんやりしている。大きくて、端々に少しかさついた感触があった。まめが何度も潰れて皮膚が硬くなってしまったのだと桜は気付いた。
 ――刀を握り続けてきたひとである。おそらくは幼い頃からずっと。
 それを覚悟がないなんてどうして無名は言ったのだろう、と桜はやるせなく思った。胸がずきずきと痛くなった。

「おいで。あっちに甘くて温かいものあるから」

 雪瀬は軽く笑って桜の手を引き、歩き出した。

「甘くて温かいの?」
「そう。好きでしょう桜」
「うん」
 
 ほんのり相好を崩せば、雪瀬は眸を優しく細める。
 桜は雪瀬の手を大事そうに握り返した。



 甘くて温かいの、とは葛湯のことだった。
 葛粉を水に溶いて砂糖を加え、鍋でゆっくり煮込んだものなのだという。鍋をかきまわしてみせながら、行商の男が教えてくれた。
 飴色をした液体はとろりとしていて、舌先で甘く溶ける。猫舌の桜は息を吹きかけて冷ましながら、お椀によそわれた葛湯をちびちびと舐めた。

 行商は次々葛ヶ原に流れ込んできているようで、その列はいまだ途切れることがない。ほとんどは男であるようだったが、見れば、女も少し混じっているようだった。その中にひとり、人目を忍ぶように深く編み笠をかぶりこんでいる少女を見つけた。その肩には何故かわら人形のような者が座っている。時折、ふたりは言葉を交わしているようにすら見えた。
 人形遣いか何かなのかな。
 不可思議な光景に首を傾げつつ、桜はこくんと葛湯を飲み下す。生姜が入っているのか、喉がぴりりとした。

「おいしい?」

 雪瀬が隣で膝に頬杖をつきながら尋ねてくる。
 桜は飴色の水面へ目を落とし、おいしい、と口の中で呟いた。

「あまい」
「甘いの好きだもんねぇ桜」
「スキ。雪瀬は?」
「俺は辛いほうが好き」

 雪瀬はふたつに割れた木刀をくっつけようと試みながら答えた。切断面が生々しい。

「それ、」
「ああうん。――桜のお知り合いってさー、みんなあんなすごいの?」
「すごい?」
「沙羅とか空蝉とか。今回のひととか。会うたびにびっくりする」
「……ごめん」
「別に。何で謝るかな」

 苦笑し、雪瀬は木刀をまっすぐ空に向けて突っ立てた。深い茶の眸が木刀の切っ先をまっすぐに仰ぐ。

「――覚悟、か」

 芯の強い声がした。己を律しようとするひとの声のように桜には聞こえた。桜は遥か高みを仰ぐそのひとの横顔をただ眺める。
 不意に今このひとが見ている場所に桜はいないんじゃないかと思った。雪瀬といるとたまに感じることがある。一緒にいるのに、見ているものが違うような、そんな感覚。そのたび、桜は切なくて切なくてたまらない気持ちになった。このひとには何か、見据えている場所があって、いつかは桜を置いてその場所へと身を投じてしまうのではないだろうか。その想いは藍の件のあと、より一層桜の胸に強く去来するようになった。
 雪瀬はいつかどこか遠くへ行ってしまうんじゃないか。
 
 それ以上彼の横顔を見ていられなくなって、桜はそっと雪瀬の袖へと手を伸ばす。指先が布に触れ、ぎゅっとそれを握り締めようとするも、あと少しというところで不意に袖が振られた。
 ぱっと桜の目の前に腕が突き出される。遅れて、何がしかが雪瀬の腕にぶつかった。

「……何、」

 眉をひそめ、雪瀬は一度腕を顧みてから、ぶつかって地面に落ちたものを拾い上げる。 わらを束ねてひとがたを模したもの、――わら人形らしい。

「だぁぁぁ痛ってぇ……」

 わら人形はぶちぶちと愚痴ってから顔を上げ、ぱたぱたっと手を振った。

「よ! お二方! 久しいな!」

 その動きに合わせ、妙に聞き覚えのあるだみ声がどこからともなく聞こえた。
 桜はせわしなく目を瞬かせる。見間違いでないのなら、先ほど少女の肩に座っていたあの小さなわら人形が今は雪瀬の手の中で、よぅ!と手を振って喋っている。いや、見間違いでなければ。白昼夢でなければ。

「いやぁ橘を探して三千里、やーっと会えて嬉しいぜぇ?」

 目も鼻も口もないのでその表情はうかがい知れないが、声音のほうはうきうきと弾んでいた。桜はきょとんと目を瞬かせ、雪瀬はぼとりとわら人形を取り落とした。

「ぎゃー!」

 断末魔さながらの叫び声が上がる。
 だが、声のわりにはすぐさまどうということもない様子でむくりと起き上がり、『それ』はこちらに詰め寄ってきた。

「何すんだ、橘。っておい引くな。逃げるな。おいおいお前ら、まさかこの俺を忘れちまったわけじゃねぇだろうなぁ?」

 忘れるも何もわら人形に知り合いはいない。
 桜が近づいてくるわら人形から心なし後ずさっていると、

「きゃああああ桜―っ! 私の娘っ」

 今度こそ聞き覚えのある声が、姿が、桜の目の前に現れた。そのままぎゅうと勢い任せに身体を抱きしめられ、桜は少女に押し倒されるようにして地面に倒れこんでしまう。したたか背を打ちつけ、小さく呻くも、少女のほうは腕の力を緩めず、どころか頬ずりでもしかねない勢いで桜に顔を寄せてきた。
 
「半年振りねー? うふふ元気だった? 元気だったかしら桜!」

 ふたつに細く結われた三つ編みが鼻先をくすぐる。少女の首筋からふんわりくゆるのは、変わらない花の香。

「沙羅……?」
 
 懐かしい名前をおずおず口にし、桜は少女の肩越しに視線を投げかける。わら人形は転倒のはずみに地面に転がった少女の笠へいそいそとよじのぼっているところだった。

「空、蝉……!?」
「――へん。遅ぇよ、気づくのが」

 わら人形は腰に手を回してえっへんと胸を張った。




 一方、こちらは瓦町の百川諸家である。
 半月ほど前に瓦町入りをした橘颯音は、昨晩はようやく念願の百川一ノ家、つまりは百川総本家にて当主である刀斎との接見が叶う予定であったのだが。

『颯音さま。まことにココロ苦しいんですけどもね。今宵はいったん式ノ家にて身体を休めてもらっても構いませんか?』

 その朝早々の百川漱の言葉がこれであったのだ。
 今さら何故、式ノ家なぞに移らねばならない。そもそもすでに一度法ノ家、つまり漱の屋敷で待たされているのである。どうにも腑に落ちず、颯音は普段の温厚そのものの表情をにわかに険しいものへと変える。

『式ですか。刀斎殿の屋敷ではなく?』
『ええ。今宵はぜひ、あちらのあるじがあなたさまをもてなしたいと』
『素堂(そどう)さまが?』
『はい。ただ、あるじ自身が顔を見せることはないと思いますけれど』
『といいますと……』
『うーん、疾患があるといいますか。それも少し違うんだけども。とにかく変わったひとなので、ちょっと』

 曖昧に言葉を濁し、漱は苦笑した。
 素堂ねぇ、と胸中でその名を繰り返し、颯音は黙考する。
 百川式ノ家のあるじ、百川素堂といえば、二十代目“素堂”を襲名したこと以外は未だ何ひとつつまびらかにされていないという変わり種だ。――式ノ家では代々“しらら視”の能力が発現した者のみを嫡子とし、これに家を継がせている。その子が元服したときに与えられる名が“素堂”だ。ちなみに百川素堂は式ノ家奥深くに隠れるようにして生きるのが常であり、今代の“素堂”も例に漏れず、その名も齢も明かされていない。百川と親交がある橘一族ですら顔を見たことがないので、領民の前にも姿を現しているのかは怪しかった。先代が起こした謀反の咎で倒れ、今の代が立ったのが四年前なので漱の年齢を考えてもまだ年若いことは確かだと思うが。

 ――嫌、なんだよねぇ、あのひと。

 かつてぽつりと薫衣に漏らした言葉を颯音は思い出す。
 正体の知れない相手、というのはやはり不気味だ。しかもあちらは稀代のしらら視としてまことしやかにひとびとに噂される存在。これだけでも気が抜けないというに、さらに気がかりなのは裏でひっそり語られるもうひとつの異名のほうだ。
 “聡明にして、冷酷なる策士”。
 情の深い刀斎、凡庸といわれる漱たちを差し置き、瓦町を実質動かしているのは百川素堂であるというのがもっぱらの噂なのである。その者みずから颯音をもてなすと言い出したからには何か裏があると見て間違いなかろう。
 さりとてそこで腰が引ける颯音ではない。むしろ相手がかけてきた網をさらりと交わし、逆に引っ掛けてやろうくらいは考える男だ。

『わかりました。式ノ家へ参りましょう』

 腹の内でうずまく策略はおくびにも出さず、颯音は人畜無害そうな笑顔で漱の申し出を快く承諾する。ありがとうございますー、と漱はにっこり笑い、控えていた家人に颯音を含めた一同を案内するよう命じた。



 それから三日。
 漱の言ったとおり、あるじである百川素堂は未だ顔を見せていない。
 あてがわれた客間で行灯の光を頼りに颯音は葛ヶ原から持ってきた仕事をさらさらと片付けていく。だが、数日ほどそんなことをしているうちについには最後のぶんも終えてしまい、嘆息混じりに筆を硯に置いた。
 別に貧乏性というわけではないのだが、普段忙しくしていることが多いので“やるべきこと”というのがなくなるとどうにも手持ち無沙汰になってしまう。今はよき話し相手である少女もいないし、率直に言って暇だ。
 さぁてどうしよう、と何気なく明かり障子のほうへ視線を向ければ、月のぼんやりした輪郭が透けて見えた。その位置は高く、夜はまだ長そうである。
 颯音は衣桁掛けにかけてあった羽織をとると、それを肩からかけて外に出た。




 ぷらぷらと足の赴くままにたどりついてしまったのは、やはりかの狂い桜の樹の前なのであった。
 ひらり、ひらり、音もなく夜闇を舞う花弁を目で追いながら歩く。美しいと、ことさら強く思っているわけではない。にもかかわらずこうも心惹かれるのは何故だろうか。
 一歩と歩くごとに身にまとった微風が足元に積もった花弁をざぁとさざめかせ、さながら漣のごとく外へ円を描く。自然、彼を中心とする波紋が地に描かれていった。
 雲流れ、月隠れれば、つかのまの花闇が射す。
 
「――桜はお好きですか。橘の当主殿」

 艶やかな声に引かれて、颯音はつと背後を振り返った。
 さく、と花弁を踏みしめ、描かれた波紋の中へと分け入る影があった。雲間から細く射し込んだ月光に朱色の高下駄がてらりと光る。真紅の椿を花開かせた振袖に身を包み、亜麻色の髪を風に流すその者は妙齢の女性であるようだった。紅を刷いた唇が妖艶な笑みを形作る。

「否。当主殿は、狂い花が好みと見受けられる」
「くるいばな?」
「そう。この桜のようにねぇ、咲く時を狂わせた徒花(あだばな)のことよ。時狂いの桜花と、時の権力者に逆らろうた当主殿と。……かの花に惹かれるのは、その魂の色があまりに近しいからではあるまいか?」
「ずいぶんと風流なたとえを用いられますね」
「風流は嫌いか?」
「いえ、好きですよ。花鳥風月をひとり愛でるのは」

 つまりひとりでいたいので去れ、と婉曲的に言ったのだが、少女のほうはそ知らぬ顔で桜の樹を眺めている。ひとの情が読めない唐変木なのかはたまた故意でやっているのか。何気なさを装いつつ女の表情を探ろうとして、颯音は小さく息を呑む。
 娘の双眸があるべき場所は真白い布で目隠しをされていたのだ。しかしその足取りは常人と変わらず、澱みない。まるでどこか別の場所に目でもあるのかと思わせるほどだった。

「おやおや」

 こちらが言葉を発せずにいれば、少女はくっと喉奥で笑って肩をすくめた。

「驚いた顔をなさっておるな。この身が面妖か?」
「……いえ」
「さよか。しかし当主さまともあらせられるお方がこんな夜更けに護衛のひとりも持たず散歩とはの。ひどく無防備ではありますまいか」
「さて、瓦町は安全な場所と聞いておりましたが。それは違うと仰る?」
 
 尋ねながら、颯音は用心深く後ろ手にすいと印を組む。
 何せこの娘、目も見えていないはずなのに颯音が橘の当主であると言い当てた。常人ではない。

「――言葉の綾じゃ。その“武器”は収められよ。恐ろしゅうて花見もできん」

 少女は肩をすくめた。恐ろしゅうと言いながら平然と颯音のすぐ隣までやって来ると足を止め、すっと桜を仰ぐ。まるで目隠しの布越しに透け見ているような仕草だ。

「よい眺めよの」

 ふうわりした亜麻の髪を心地よさそうに風になびかせながら、少女は呟く。

「ふふ。のぅ、知っておるかな、当主殿。この狂い花はねぇ、国を離れた皇(おう)の末路をいたんで泣いておるのじゃよ」
「……末路、ですか?」
「そう。国を出たきり、二度と愛する故郷の土を踏めなかった皇の、ねぇ?」

 眸が隠されているせいか、その表情はうかがい知れない。
 が、彼女が指し示している“皇”が自分であることは明らかだ。趣味の悪い冗談か、はたまた警告か。少女の横顔をしばし探るように眺めやってから、颯音は苦笑気味に目を離した。

「……それは、なんとも憐れな皇さまだ」
「ふふ、ほんに憐れな皇だこと」

 少女は口元に袖を当ててたおやかに笑う。

「――お名前をおうかがいしても?」

 からん、と下駄を返そうとしたその背に颯音は問いかけた。ふと足が止まる。

「おや、私としたことが。これは失礼」

 少女は鮮やかに笑って振り返った。
 目隠しがとられて落ちる。布の下にあったのは、硬質な紫の両眸だった。
 
「百川式ノ家、紫陽花(あじさい)。そしてまたの名を百川素堂という。盲目にて“稀代のしらら視”の名を継いだ式ノ家の当主じゃ。顔見せが遅れてすまなかったの。よろしくお見知りおきを。“天才風術師”」

 少女は軽やかな礼をすると、はらりと椿を咲かせた袖を翻して歩き出す。その背中を颯音は呆れ混じりに見送った。
 百川素堂というから、当然男を想像していたのだが。よもや女だったとは。

「なるほど喰えないわけだ」  

 颯音は苦笑し、花を仰いだ。花影からのぞく月はもうずいぶんと傾いている。桜花の残像を瞼裏に焼きつかせるように濃茶の眸を伏せると、「さぁて」と颯音は伸びをしながらその場を後にする。名残惜しげに吹きすさぶ風のかたわらで、桜がひとひら舞って落ちた。