三章、泡沫



 十一、


 眸を開いたとき、そこには誰もいなかった。
 ぼんやりひとけのない座敷を見つめてから、桜は身じろぎする。んん、とずきずきと痛む頭を抑えて身を起こそうとすると、わずかな衣擦れの音とともに肩から何がしかがずり落ちそうになった。それで身体にかけられていた羽織の存在に気づく。
 その深い色合いには見覚えがあった。宴に行くとき、雪瀬が羽織っていたものだ。
 いつの間に来て、いなくなってしまったのだろう。
 桜は畳に落ちかけた羽織を握り締め、そぅと頬をすり寄せた。目を閉じる。桜の大好きな、水と陽光の入り混じった匂いがした。

 ――あなたの眠っているうちにすべて終わりますから。

 不意に冷ややかな声が脳裏をよぎり、桜はぎくりとして閉じられた障子戸を仰いだ。歩いていって戸を引きやれば、ぶあっと強風が桜の黒髪をまきあげ、部屋を吹き抜ける。

「きよせ……?」

 暗い不安が胸を覆う。
 桜は何かを確かめるように胸に手をあてがってから、帯締めに銃があるのを確認して濡れ縁に降りた。






 横薙ぎの風が強い。路肩が崖下になっているせいだ。
 そんな海沿いの道ともいえぬ道でもそもそと動いているひとりと一羽の影がある。

「なぁ見つからないのかー?」
「うー……ん」

 雪瀬は首を振って茂みにまた顔を突っ込んだ。呆れた様子で扇が息をつく。

「ここ、あの夜桜と暁がいた場所だろう? 門衛もずいぶんいろいろと探したというし、もうないんじゃないか?」

 茂みをあさっている雪瀬の他方、扇は嘴で小石を啄ばみながらのんびり声をかける。ひとつ、ふたつと順調に重ねていっていたのだが、五つくらいを積み上げたところで石がぐらりと傾き、倒れてしまった。遅れてからんころんと崖下を落ちていく石の音が響く。

「ここから落ちればやはり海の藻屑だなぁ……」

 ぼんやり呟く扇の声を聞きながら、雪瀬は行く手に張り出された枯れ山吹を腕で薙ぎ払った。こんな真夜中に月明かりと提灯の灯りだけを頼りに、四つんばいになって茂みをあさっている姿をよその誰かが見たら、きっと橘の雪瀬がついに気狂いを起こしたと恐れおののくに違いない。雪瀬は小さく舌打ちして、提灯を取った。草を掻き分け、地面にじっと顔を近づけて探す。――『彼』の痕跡を。

「寒くなってきたぞー」
「じゃあ扇、先帰ってなよ」

 そっけなく返し、雪瀬は茂みの奥に進む。不意にたわんでいた手元の枝が跳ね返り、頬を薙いだ。その音に驚いたのか、枝に止まって眠っていたらしい鴉がけたたましい羽音を立てて飛び去っていく。片頬を歪め、雪瀬は軽く袖で切り傷から滲んだ血をぬぐう。
 ぱさりと袖についていた枯れ葉が落ちた。それで己を顧みると、いつの間にか頭のてっぺんから袴まで枯れ草まみれになっていた。濃茶の髪に絡まった木の葉を取り払いつつ、雪瀬は大仰にため息をつく。埒が明かない。

「もう見つからないんじゃないか。帰ろう、雪瀬。風邪を引く」

 石積みはやめて頭上の枝に止まっていた白鷺が言った。

「だめ。あとちょっと」
「……雪瀬」
「真砂、もしかしたら内通者じゃないのかもしれない。ここで、何かあったのかもしれない。でも証拠が見つからないと推測の域を出ない」

 ちっと舌打ちをしてから闇の中を羽ばたく音がした。近くの低木から扇が降りてきたらしい。

「手伝う」
「ありがと。さすが相棒」
「おだてるな。仕方なしに付き合ってやってるんだ」

 無愛想に返し、扇も茂みを嘴でかきわけ始める。もちろん白鷺が照れくさがっているのだとわかっている雪瀬はこっそり笑うにとどめて自分もまた手を動かした。
 どれだけ探しただろうか。
 ――指先に軽く何かがかすめるような感触があった。手を止めていぶかしまじりに視線を落とせば、きらきらとした淡い光が目に入る。

「雪瀬?」
「……あった」

 枯れ葉の上に金銀の筆飾りが落ちていた。手に取ってみると、切れ方から見て無理やり引きちぎられたらしいことがわかる。金と銀というこのむやみやたらに派手な組み合わせには覚えがあった。真砂が筆の先端に通していた飾りである。

「筆飾りか?」
「ん……」

 相槌を打ちつつ、雪瀬はどこかぱさついた糸の感触に眉をひそめた。得も知れぬ焦燥に突き動かされるまま、提灯をそこへかかげてみる。
 金糸の表面に付着していたのは、赤黒い血痕であった。

「これ、血か……?」

 愕然と扇が呟いた。雪瀬は飾りを握り締め、深く息を吐く。
 筆飾りひとつ残して消えるなんて。何だそれ。少女ひとり庇ったみたいに残していなくなるなんて。何だそれは。死んだなんて。もういないなんて。
 らしくないんだよ馬鹿、と虚空に向かって投げやりに呟いた。




 扇はすぐさま颯音のもとへと向かわせた。
 真砂の件を報告するためだ。

「……大丈夫か」

 去り際、扇は心配そうにこちらの顔を見つめてきた。
 雪瀬は淡く笑い、平気だよ、と答える。

「あんな変わり者、別になんとも思ってないし。離反した時点で刀で斬ってやろうかって思ってたくらいだし。まぁなんというの、結果的に死んでたか離反してたかってくらいの違いで――」
「雪瀬」

 扇がひどく悲しそうな眸をしたので、雪瀬は思わず口をつぐんだ。
 
「思ってもないこと口にするな」
「あお、」
「じゃあ行くな。お前も気をつけて帰れよ」
 
 反論をしようとするが、機先を制して扇が腕から飛び立ってしまう。
 ちぇ、と舌打ちしてその姿を見送り、雪瀬も足を返した。
 ――平気だよ。
 胸のうちで先ほどの言葉を今一度繰り返す。
 へいき。何も感じない。今さら真砂が死んだくらいで雪瀬は何も感じない、感じるはずがないのだ。だって惜しんでやまないようなものなら、もういくつ失ってきたというのか。
 雪瀬は生来、父を持っていなかった。否、血縁上父である男ならいたのだが、あちらは風術を持って生まれなかった子を厭うていたし、雪瀬も雪瀬で父親にはひどく無関心だったので、生まれながらに父親という存在はなかったようなものである。そして五歳のとき母を病で失くした。十歳のときには凪を。――否、あれは失くしたのではなく、殺めたのであったか。

「……さむ」

 雪瀬はかじかんだ手をあわせて、そこに白い吐息を吹きかけた。
 真っ赤な月が雲間より出でて、夜の林間に射す。木枯らしが木の葉を揺らし、そのざわめきの中を夜啼き鳥がほぅほぅともの悲しげに啼いた。不穏な。嵐の来る前のような。そんな気配。

「っと?」

 刹那、かさりと近くの茂みが動いたかと思うと、足元に落ちた光の切れ目をさっと黒い影が横切った。ぶつかりそうになって足を引くも、間に合わず引っ掛けてしまう。草むらから飛び出てきたそいつはずべっと地面に顔面から突っ込んだ。
 雪瀬は足元に提灯をかかげる。
 もぞもぞと身を起こしているその物体。何かと思ったらヒキガエルだ。だがその両頬は何故か月を丸ごと一個つめこんだみたいに光っている。
 ――満月の晩には月の魔に引かれて、数多のあやかしが闇を跋扈するという。それは常には“視えぬ”者にも知覚できるほどで。暗闇に囚われてはいけませんよ、と幼い頃、繋いだ手をことさら強く握りながら母が言ったのを思い出した。
 暗いほうを視てはなりませんよ。行ってもいけない。
 魔が差して、しまいますからね。

 雪瀬は地面に頭をのめりこませ、もがもがやっているヒキガエルを一瞥する。この顔で魔とか言われてもなぁ、と苦笑まじりにかがみこんで蛙を起こしてやると、首根っこをつかんで茂みのほうへぽいと放ってやった。
 けれども暗闇にぼんやり浮かんだ淡い光の珠はすぐには茂みの向こうへ行ってはしまわず、どころか雪瀬の後をついてくる。まるでどこかの野良猫だ。しっしと追い返してやれば、ほんの少しためらってから蛙はぴょんぴょんと林の中へ消えていった。
 雪瀬はそれを見届け、また歩き出す。
 刹那である。すぐ脇を小さな子供がたっとすり抜けた。
 その身体は淡い光の粒をまとっているかのよう。また出た、とげんなりとした表情で見ていれば、少し先まで行った老樹の前で不意に『彼』がこちらを振り返った。

 ――もー、おそい。雪瀬。

 その声に、その表情に、その仕草に。
 『彼』を形作るものすべてにどくんと心臓が跳ねる。懐かしい、独特のしずけさをもった声に誘われたかのように、ひらりひらりとどこからともなく雪片が降った。

「ゆき?」

 いったいいつから降っていたのだろう。そう眉をひそめて天を仰げば、
 ――満開の、花。
 視界を埋め尽くさんばかりの。月居残る天へと数多の枝を伸ばし、咲き誇る老樹があった。闇の中をなお白い。ひらりと誘うように舞い落ちた白を雪瀬はつかみとる。どうやら降っているのは雪ではなく桜の花びらであったらしい。

 ――きーちゃんってば。ぼんやりしてると置いていっちゃうよ?

 少年のかたわらには黒髪の少女が寄り添っており、くすくすと微笑み混じりに自分の名を呼んでいる。
 ありえないと思った。凪と藍が今目の前にいるなど。
 だからこれはゆめ、だと。夢まぼろしなのだと。
 言い聞かせているのに、そんな自分に反してもしかしたら、もしかしたら、と気持ちははやり、鼓動は高鳴る。ともしたら駆け出しそうになる自分を抑え、雪瀬は緩やかに首を振った。そのとき身体を支配したのは純粋な恐怖だった。目の前の光景にではない。その光景を心のどこかで激しく求めていた自分に愕然とし、恐怖したのだ。

 ゆうるりと誘うように花が降る。花が馨る。
 二三歩踏み出し、ぎこちなく、それでいてどこかすがるように上げた視線が幼馴染の姿を捉える。目が合うと、なんだよ、と彼は柔らかく微苦笑した。
 その顔を見たとき、ことりと胸中で張り詰めていた何かが落ちた。懐かしいような、くるおしいような、そんな感情が胸をかきむしる。そいつの名を呼んだ。なぎ、とかすれがちの声で呼ぶ。ふらふらそちらに引き寄せられながら、脳裏に浮かんだのは何故か猫が、という単語だった。





『なぎー、なぎー』

 乳白色に霞がかった景色の中、小さな子供がぐったりした猫を抱えながらひとりで歩いている。おぼつかない足取りであっちこっちを彷徨ってから、探していた面影をようやく見つけたらしく、くしゃりと表情を崩し、今にも泣き出しそうな顔になった。

『なぎー!』

 少年の元へ駆け寄り、雪瀬は手に抱いていたものを見せる。

『どうしよう猫、動かないよ。俺の猫動かない。どうしよう、どうしたらいい?』

 抱きかかえた三毛猫はすでにずいぶんと冷たくなっていて、身体の節々も固くなっていて。いつものように喉元を撫ぜても、ミケと呼んでみても、ぴくりとも反応しない。数日前ふらりといなくなって、今日縁の下で見つけたときにはこうなっていたのだ。
 ビョーキ? なおる? とまくし立てる雪瀬に、猫を診ていた少年は淡く苦笑し、首を振った。

『あのね、雪瀬。ミケはもう目を覚まさないんだ』
『どうして?』
『どうしても』
『……じゃあもう、会えない?』
『会えない』

 少年はこくりとうなずく。
 雪瀬のおかあさんと同じだよ、と彼は言った。
 ミケは遠いところに行っちゃったんだ。

『遠い、遠いお空の果てにね』
『そらの、はて』

 ついと頭上を仰ぐ。一面に広がる深い、深い、吸い込まれそうな蒼の、その先など。到底手が届かない気がした。声だって伝わらない気がした。
 そこで雪瀬は唐突に理解した。
 ミケにはもう二度と会えないのだと。気ままな猫でことあるごとににゃあにゃあうるさく鳴いて、しょっちゅうどこかへふらりといなくなってしまって、そのたびにいつもしぶしぶ探していたようなそんな猫だったけれど、もう、会えないんだ。話しかけても、応えてはくれないんだ。
 雪瀬は目を伏せ、ぎゅうと冷たくなった三毛猫を抱きしめる。斑模様の毛にぱたぱたと水滴が落ちた。猫の身体に顔を押し付け、うわーとあとはもう投げやりになって手放しに泣き始めてしまう。

『やだ、やだ、きーちゃん泣かないで』

 少年の隣にいた少女がひょいと顔を出し、こちらの頭をくしゃくしゃと撫ぜた。

『泣かないで、そんな顔しないで。えっとね、わたしはずぅっとそばにいるから。ずぅっとずぅっとそばにいるからね、だから泣いちゃ嫌』

 必死になってなだめる少女のかたわらで、凪は微苦笑まじりに困ったように頬をかく。いろいろと手に持て余した様子で凪は背後に咲く桜の樹を仰いだ。それからおもむろに懐から短刀を抜く。
 
『きよせ』

 こちらを振り返り、少年は、おいでとでもいうように手招きして優しく微笑む。

『じゃあね、お願いしよう』
『おねがい?』
『そう。桜の老樹にはね、神さまが住んでいて、たくさんお祈りすると願い事を叶えてくれるんだって』
 
 彼はそう説明すると、懐刀で幹に一本の線を引き、こちらへとそれを渡す。雪瀬は泣き濡れた目をこすって、刻まれた線のすぐ下へ、言われたとおりに線を引いた。少女へと渡せば、彼女もまた同じようにする。老樹には寄り添うように三本の線が刻まれた。
 それを見取って三人はひどくまじめな顔で手を組む。
 桜の樹の下、額をつきあわせ、願う。祈る。

『ずーっと一緒にいられますように!』

 だってもう何も失いたくはないから。




 伸ばした手が木肌へと触れる。
 ふ、と舞っていた花弁が夜闇に融け入るようにして消えた。子供たちの姿もすでにそこにはない。枯れた桜の老樹の下、さざめくような微笑い声が耳を撫ぜて消えた。
 
「桜の樹には神さまが、ね……」

 雪瀬は苦笑し、もうずいぶんと花を咲かせていない老樹を仰いだ。
 それから視線を幹へとおろす。提灯の明かりを近づければ、木肌に古い傷跡が浮かび上がる。三本の、寄り添うようにある線。
 雪瀬はそっとそれに指を這わせた。
 ゆっくりと、たどる。なぞる。木肌はほのか、温かく。“神さま”なんて何ともつたない嘘だと自嘲するつもりがうまくできなかった。
 額をこつんと幹へつけ、すり寄せる。まだそこに君の温もりが残っているような気がしたから。まだそこで君が微笑っているような気がしたから。
 
 ――感じなく、なるわけがない。
 慣れるわけがない。
 ひとを失ったときの、身体の中ごっそり持って行かれるような痛みに慣れるわけがないのだ。否、慣れてはならないのだ。

 そのとき、かさりと草の根を踏みしだく人の気配がした。