三章、泡沫



 十二、


 桜は長く夜眠るということができなかった。
 何故なら、夜とは桜にとって唯一与えられた“シゴト”の時間であり、そこで眠ってしまうなどということはない以前に許されないことであったからだ。夜に眠る夜伽とは朝に啼かぬ明け鳥と同じである。

 だから桜は長いこと、宵口、残照が射し、夕ずつ星が昇る頃にうとうととまどろみながら目を覚まし、朝、“コト”が終わったあとに眠りにつくという生活を送っていた。肌に染み付いた習慣は都から逃げ出したところで早々には変えられるものでもなく。
 行灯を消し、枕に頭を乗せ、いざ眠りにつこうと目を閉じる。けれど眠ろうとする気持ちに反して意識のほうは冴えていくばかりだ。天井を見上げると、眼前に茫洋とたゆとうているのは長い長い夜の闇だった。
 夜は暗い。昼のように刻々と移り変わる景色は夜の帳に閉ざされ、――花も鳥も、木々のさやめきひとつ聞こえなくなるから、まるで外との繋がりを断ち切られ、檻の中に閉じ込められてしまったような、そんな閉塞感に襲われる。終わりのない悪夢に迷い込んだかのような気分になって、桜は半ば衝動的に身を起こすと、よくかの少年のもとに走っていった。

 その頃には彼ももうあまり動じなくなっていて、桜が布団にもぐりこんできたところで何も言わない。目を開けないことすらあった。
 ただおもむろに布団をかけやるようにして身体に回された手がぽんぽんと拍をつけて背を叩く。背中にそのひとの手があるということが桜をひどくほっとさせた。
 冷えた身体がゆっくり温められる。そのひとは陽の光と水の匂いがした。花木を育む優しい匂いである。桜は雪瀬の胸に額をくっつけるようにして目を閉じた。肩に張っていた力がゆっくり抜けていく。ああ安心するというのはこういうものをいうんだ、とぼんやり思った。宮中から逃げて逃げて逃げて、やっと手に入れた安らぎだった。


 いつだったろう、おそらく瀬々木の家に居候し始めて少したった頃だったと思うのだが、不意に心もとなさを感じて、目を覚ましてしまったことがあった。
 いつの間にか背中を叩く手は止まっていて、それが心細さへと繋がったらしい。
 桜はそっと眸を開く。見上げると、雪瀬は褥に頬杖をつくようにして細く開けた障子戸から外を眺めていた。その視線の先には雲間を所在なく漂う月がある。彼は眩しそうに目を細めてそれを見ていた。
 まるで自分もそこに行きたいのにとばかりに、あるいは自分だけがこちらへ取り残されてしまったのだとばかりに、懐かしそうに、いとおしそうに空を見ている。その横顔はどこか儚かった。

「――……、」

 桜は口を開こうとする。そのひとの名を呼ぼうと試みる。
 けれど咽喉は焼き潰れたかのようで、音ひとつ紡ぐことできない。声の出し方も、息の仕方も忘れてしまったかのようで。身じろぎすることさえできずに、桜はただ息をひそめてそのひとの横顔を見守った。遠い場所を見ているそのひとの横顔を桜はひとり見守った。
 きっと、このひとの大事なものは空にあるのだな、と思った。
 遠い、遠い、もう手の届かないところ。空の、その果て。だからこんな風に乞い焦がれるように空を仰ぐんだ。

 遠いなぁと思った。桜には空よりもずっと、隣にいる少年のほうが遠い存在に思えた。そのとき胸を突き上げたのはひとり布団の中にいたときに感じたものとは違う、寂しくて悲しくて、そしてくるおしい、今まで味わったことのない感情だった。痛みに近い、胸を締めつけるような感情だった。
 あの光景はずっと桜の脳裏に消えずにある。




 頬を光らせた蛙がぴょんと茂みの奥へと去っていく。
 闇夜に見つけたのは一本の老樹と、それをいとおしむように寄り添っている少年の後ろ姿だった。桜は足を止めて、眩しげにそれを見つめる。
 声をかけようと思った。けれど言葉は何一つ、口をついては出てこなくて。そっと喉元に手をやり、桜は眉根を寄せる。
 ただ焦燥にかられるがまま、一歩を踏み出せば、地面に積もっていた落ち葉がかさりと鳴ってしまった。その音を聞きつけたのか、雪瀬が半身をこちらへ振り返らせる。濃茶の眸に自分の姿が映る。
 不意に泣きたいような気分になった。
 よかった、雪瀬が気づいてくれた。こっち見てくれた。ほっとして桜はたっと少年の元へ駆け出す、つもりだった。

「――……藍?」

 ふと踏み出しかけた足が止まる。身体がぞっと冷たくなる。
 そのひとが紡いだ名前を桜は確かに聞いた。




 あろうことか幼馴染の少女の名前を呼びやってしまってからしまったと思った。
 夢まぼろしはすでに消えたあと、目の前にいたのはこんなところに来るはずもないと思っていた少女であったからだ。
 その名を口にした瞬間、ほんのり綻びかけていた彼女の表情がみるみる強張っていくのがわかった。
 深い緋色がまるで不安に押し潰されでもするように揺らぐ。
 桜は何がしかを言いたげに口を開いてから、けれどやはりさっきの宴のときのようにうまく声が出せない様子で首を振り、そぅと目を伏せた。羽織すらかけられていない肩はいっそう頼りなく、寒さのせいか白い頬はうっすら上気している。何をそんなに急いで追いかけてきたのだろうか。

「――桜」

 少し考えてから、結局そう呼びなおすと、

「どうしたの。何かあった?」

 と雪瀬は自分のほうから少女のほうへ歩いていって尋ねる。
 こちらの言葉を彼女が飲み下すまでにはしばらく時間がかかった。

「な……にも、」
「桜?」
「……ない。なにも」

 ぎこちなくかぶりを振ると、桜はこちらと樹の幹へ背を向ける。

「……かえる」
「ちょ。桜」

 言うや否やきびすを返してしまおうとするので、雪瀬は慌てて少女の細い手首をつかんだ。

「待って。じゃあ俺も帰る」
「いや」
「え?」
「いや!」

 力任せに手を払い、桜は雪瀬に背を向けた。
 華奢な肩が小刻みに震えている。もしかして怒っているのだろうかと雪瀬は考えた。さっき名前、間違えてしまったから。傷つけてしまったろうか。

「……ごめん」

 素直に謝ると、桜は俯いたまま小さくしゃくりあげた。
 ごめん、ともう一度言って雪瀬は少女の手を握る。はずみ、緋色の眸から涙が溢れてすっと頬を伝い落ちた。桜はひとつ目を瞬かせ、いやいやするようにかぶりを振る。刹那、すだれかかった黒髪の下に垣間見たのは苦しそうな、本当に苦しそうな表情で。それで余計に離せなくなってしまったというのは当の少女にしてみれば残酷なことだったかもしれない。
 身じろぎし、それでも手が離せぬのを見て取ると、桜は細く嗚咽をこぼし始めた。

「って、だって、わたし、」
「桜?」
「藍じゃな…、藍じゃ、…いのに……わたし、」

 くすんくすんとしゃくり上げ、桜は手の甲で目をこする。
 その喋り方も、仕草も子供というにはあまりに苦しげで、かといって女というにはあまりに幼い。雪瀬は眸を眇め、泣き喘ぐ少女を見た。






「薫衣さま。起きてくださいませ」

 柚葉は座敷に広がる惨状にあきれ果てたようなため息をつき、酒瓶を抱えたまま畳で眠ってしまった少女の肩をゆさゆさと揺さぶってみる。けれど、当の本人からは「うー」だの「あー」だの呻き声が漏らされるだけ、嫌がるように手を振られただけでろくな反応が返ってこない。
 全くこんな酔いどれの男どもの中で一緒に眠ってしまうなど、この方もある意味無防備というかなんというか。――まぁ、たとえ襲ってみたところで、薫衣相手では返り討ちにされるのが関の山だろうが。

 適度に控えて飲んだため、ただひとり正気を保っていられた柚葉は、もう、と小さくごちて、少女から酒瓶を取り上げる。その腕を自分の肩に回し、隣の部屋へと運んでいく。
 まったく何故この方の面倒を年下の私がみなければならないのだろうか。どこか不条理な気分になりつつ、柚葉は敷いておいた布団へと少女を転がす。掛け布団を引っ張っていると、「うー…ん…」と薫衣が寝苦しそうに眉根を寄せた。

「……ったく早く帰ってこいよな、ちくしょー……」

 ぶんとこぶしを振り、ひとりの男の名を呼んでみてからまた寝息を立て始める。空をかいたこぶしが力なく褥に落ちた。
 柚葉は掛け布団を持ったまま、ひとつ、眸を瞬かせる。
 ――驚いて、しまったのだ。
 この方ときたら、颯音が葛ヶ原を発ったその日もまるで何事もなかったかのような顔をしていたのに。真砂が離反したその日だって、動揺する一門の中で誰よりも早くこのひとが指示を出したのだ。
 心強く、思ったものだ。何とも聡明にして、並々ならぬ度量を持ったひとだと思った。たとえ上の兄が不在でも、この方がいれば案ずることはないと、柚葉はそんな風に。
 だが、その胸のうちで、ひとかどの女子のような苦悩が巣食っていようなどといったいどれほどの人間が気づいていただろうか。
 思えば、その、普段は毅然としているせいで“強い”と思えてしまう背中だって、まだ十八にもならない女のひとのものなのである。細い首筋を隠すようにさらりとかかった淡茶の短い毛先が少し痛ましい。

 柚葉は布団をかけ終えると、その手を差し伸ばし、眠る少女の頭を撫ぜるようにした。
 柔らかな髪に指を絡め、優しく梳く。何をやっているのか自分でもよくわからなかったのだが、薫衣のほうはそれでひどく安堵してしまったのか、あどけない笑みをほんのり見せて、深い眠りについてしまった。

「――おやすみなさいませ、薫衣さま」
 
 柚葉は微笑み、薫衣が寝入ったのを確かめて手を離すと腰を上げた。
 部屋を出て、もう一度座敷に戻ろうとしたところで廊下を横切る人影を見つけ、柚葉は目を瞬かせる。
 暁だ。
 
「あ、」

 かつき、と声をかけかけるも、何故か青年にささやかな違和感を覚え、柚葉はしばしためらった。暁のほうは柚葉に気づいた様子もなく、空き部屋のひとつに迷わず入っていく。

 別に他意はなかったのだが。あえていうのなら、妙に“胸が騒いだ”としか言いようがない。
 柚葉は青年の入った部屋の前で足を止め、細く開かれた襖から中をのぞきやる。
 どうやら何かを、包み直しているようだ。
 こんな暗闇で?
 何ゆえ明かりをつけないのでしょ、と柚葉は眉をひそめる。
 夜目が利いてきたのか、次第手元が見えるようになってきた。うっすらと背後の障子戸から射し込む月光が、男の輪郭をおぼろげに浮かび上がらせる。その横顔には普段の青年とは異なる、ひどく冷たい表情が貼り付いていた。
 はらりと蘇芳の布が落ちる。月光にさらされ、あらわになったのは、黒い、黒い、銃口で。濡れた光を浴び、鈍く輝く。柚葉は細く息を呑んだ。

 かたん、と襖を揺らしてしまい、はっとして暁が振り返る。
 それよりも早く、柚葉はそこから離れ、身を翻した。