三章、泡沫



 十三、


 その少女を拾い上げたのは、ほんの気まぐれからだった。
 幼馴染の面影を宿した少女。珍しい緋色の眸。人形。
 それだけでも興味が引かれないわけではなかったが、一番の理由は単純に目の前で死にそうになっている人間を放っておけなかったからだろう。
 拾い上げて、連れ帰ってやった。傷を診て、つきっきりで看病をし、食べ物を与えてやった。それは傷ついた猫の世話をするくらいの要領で。
 始まり方などそんなものだったのだ。
 
 けれど春が過ぎ、夏が盛り、秋の足音が近づき、通り過ぎるにつれ、彼女は変わり始めたから。かたくなだった挙措が次第やわらぎ、表情に穏やかなものが混じるようになり、近頃はふうわりとあどけなく微笑うようになった。
 最初はただただ口を閉ざすだけだったのに、今では時折何かを必死に伝えてこようとする。時折それがうまくできないで悲しそうになったり苦しそうになったりする。
 決して大仰ではないのだけど、注意深く見ればくるくると万華のごとく変わる、そんな少女の表情を見るのが彼は好きだった。彼女の心を映し出して深みを増す緋色の眸も好きだった。さらさらとしていて柔らかい彼女の髪に触るのも好きだった。それで決まって心地よさそうに目を細める、そんなときの彼女の表情も好きだった。
 それから、つたないけれどいつも懸命な、少女の話を聞くのも好きだった。彼女がかたわらにいるとき、吹く風の音も、草木の匂い、花の香、空の色、緩やかに流れる時間、すべてすべて好きだった。
 それは、限りない親愛にも友愛にも、あるいはこよなき憧憬にも似た――。






「感づかれましたかね」

 暁は自嘲し、銃を布でくるみ直した。
 嘆息する。また、消すものが増えてしまった。
 ――本当は、この銃でかの少年を撃つつもりでいた。
 最初からそうするつもりで雪瀬のあとを追い、その背を狙って銃を構えた。
 少年の背中は普段からは考えられないくらい無防備だった。むしろどこからでも撃ってくれとでも言いたげだった。まさか罠ではなかろうかとはじめ勘ぐってしまったほどであったのだが、しかしそうではなかったらしい。
 今、彼の命を奪うことはあまりにたやすい。あっけなさに若干肩透かしのようなものを喰らって、暁は顔をしかめる。再び少年に向き直ると、引き金に指をかけた。今のうちに、彼が気づいてしまう前に、終わらせてしまおうと思った。
 けれど、できなかった。
 何故だかはわからない。
 ただ、引き金にかけた指が急に動かなくなったのだ。

 ――未練? まさか。
 ――愛着? まさか!

 湧き上がる疑念を否定するように、暁は指に力をこめる。息を殺し、暁は少年の背中に狙いを定める。

 ――撃て!

 かさりと草の根が踏みしだかれる音がしたのはそのときだった。
 老樹の前に立っていた雪瀬がすいと背後を振り返る。
 思わずぎくりとして暁は身をすくませたが、少年が視線をやった先にいたのはかの少女のほうだった。こんなことがないようにと五條の屋敷に寝かせてきたはずなのに、と暁は胸中で舌打ちする。虫の報せか、子供の勘のようなものか、彼女が今この瞬間に雪瀬のもとに駆けつけてしまったことは彼らにしてみれば幸運、暁からしてみれば不幸としか言いようがない。
 何故なら、“鵺であるところの桜に手を出してはならない”というのが唯一、暁に固く固く命じられた言葉だったからだ。あの晩、少女を始末できなかったのはこのためである。

 少しの葛藤はあった。しかし結局暁は首を振ると銃口を下げ、その場を去った。
 夜風に吹かれながら、けれど何故だろう、胸を満たしたのは雪瀬を手にかけられなかった悔しさではなく、安堵のほうで。
 何を今さら、と暁は唇を噛む。


 あの日、橘颯音が当主として立ったあの日、葛ヶ原には喜びが満ち溢れていた。
 喝采をあげる民、若い当主の前にひれ伏す長老と衛兵たち。皆が言った。暗愚・橘八代の支配の終わり、賢君・橘颯音の治世の始まりであると。
 そこに颯音を批判する者はいない。親を討って当主の座についた青年を非難する者はひとりもいなかった。いや、正しく言えば、八代を敬愛する数少ない者たちは葛ヶ原から放逐されたのである。ひっそりと誰にも見えぬ形で。彼らは悲嘆に暮れて自害し、あるいは人目を忍ぶように葛ヶ原を出て行った。
 ――これが表舞台からは消し去られたひとつの真実である。
 
 小さな墓の前で暁はひとり男を想ってむせび泣いた。実の息子に首を取られ、挙句、墓に花を供える者すらいない男が憐れだった。痛ましかった。暁は必ずやこの方の無念を晴らそうと決めた。
 目には目を。歯に歯を。
 橘颯音に死よりも耐えがたき屈辱を。その名声に泥を。栄光に翳りを。その心に苦悩を。胸を引き裂くまでの痛みを。必ず必ず必ず必ず。必ず、だ。

「……もう、引き返せるわけもないのに」

 暁はきつく眉根を寄せる。呟く言葉は空に消えた。






「……な、して、」

 はらはらと涙が少女の白い頬を伝い落ちる。
 桜は泣き濡れた眸を伏せ、苦しげな嗚咽を漏らした。
 しゃくり上げながら、つかまれた手を振ってはなしてと懇願する。まるでそれだけが今の自分を守る術であるかのように。はなして、かえる、とか細い声で繰り返す。
 たまらなくなった。
 こんな風に泣かせたいわけじゃないのに。
 こんな風に悲しそうな顔をさせたいわけではないのに。
  
「――嫌。離すの、やだ」

 弱々しい懇願を遮って、雪瀬はつかんだ少女の手首を老樹の幹へと押し付けた。濡れた頬へ手のひらをあてがい、涙のたまった眦へそぅと口付ける。涙を吸って、それから瞼へ、頬へと泣きあとをたどるように唇を落としてゆく。

「ん、」

 びくりと桜は小さく身じろぎした。不安に押し潰されそうな顔でこちらを仰ぐ。

「閉じて」
「え、」
「目」

 雪瀬は少女の瞼の上に手を乗せて眸を閉じ入らせてしまうと、後頭部に手を挿し入れ、落涙に濡れた唇へ自分のそれを重ねた。
 はじめは幼子をあやすように優しく。それから、次第に深く。最初かたくなに強張っていた彼女の身体は徐々に力をなくし、ずるずると背後の木肌へ身をもたせて落ちる。その身体を支えやりながら一度唇を離すと、桜は喘ぐような吐息をこぼした。目元はほの赤く染まり、うっすら開かれた眸は熱を孕んで艶と揺らめく。それがいとおしくて、いとおしくて。欲しくて、欲しくて。たまらなくなる。どうしようもなくなる。理性というものがあるなら、それはすでにぐちゃぐちゃだった。
 先ほどのように身じろぎをされる前に、雪瀬は少女を老樹へ縫いとめると、細い首筋にまた唇を寄せた。儚い薄荷の香が馨る。その香が追うようにして衿をくつろげ、むき出しの肩へ、胸元へ、まっさらな白い肌を踏み荒らすように痕をつけていく。

「や、…」

 刹那、つ、と、冷ややかな雫が頬に降った。
 悲鳴にも似た、か細い泣き声に気づいて、雪瀬は顔を上げる。
 見れば、ぽろぽろと涙をこぼして泣き喘いでいる少女の姿がそこにあって。はだけた袷をたぐり寄せもせずに苦しそうに肩を上下させている。

「や……助……」

 頼りなく空を彷徨った指先が雪瀬の袖端を捕らえ、きゅっと握り締めた。こちらの胸に顔をうずめて、いやいやとかぶりを振る。
 嗚咽に喉を震わせながら、彼女は必死にこちらの名前を呼ぼうとしているらしかった。紡がれかけては幾度となく絡まって消える。それでも衣をつかむ指先が離されることはない。襲っている側に助けを乞うているという矛盾が彼女はまるで気づけていないらしい。

 混乱した頭で、怯えきった身体で、震える声で、それでも途切れそうな糸をたぐりでもするように必死に手を伸ばすから。あまりに脆くて、幼い花だと思った。
 いっそのことぐしゃぐしゃに抱き潰して手折ってしまいたいほどに愛おしく、けれど一方で、その手を取って彼女を大事に慈しんであげられたらよいのに、と思うほどに愛おしい。どちらが正しくて、あるいはどちらが本当なのか、よくわからなくなった。

「……ごめん」

 雪瀬はゆっくり少女を拘束していた手を離す。手首に生々しく残った痕に視線を落とし、その眦にたまった涙を指先でぬぐいやった。
 けれどそれはとめどなく溢れて、零れ落ちて、とめることができなくて。

「桜……?」

 細い肩を震わせて、まるで壊れいるように泣き喘ぐ少女を前に、不意に生まれたのは焦燥だった。指先を涙がすり抜けるたび、何かが失われてしまわれていっているような気がした。後悔の念がせり上がってくる。
 ――だって、そうじゃない。そうじゃないのだ。
 そんな風に泣き喘いでいる姿が欲しかったんじゃない。
 そんな風に傷つけたかったわけじゃ。

「――……泣か、ないで桜。お願いだから。泣かないで、泣くのやめて」

 気付けばそんな懇願ばかりを繰り返していた。
 しかし少女の泣き声は途切れることがない。
 雪瀬は緩く首を振ると、もう一度桜の名を呼んだ。
 おやすみ、とその耳元で囁きかける。
 刹那、あれほどしっかり袖端を握っていた指がするりと解けて落ちる。
 意識を失い、力なくもたれかかってきた少女の身体を受け止め、痛ましげな泣き声がやんだことに思わずほっとしてしまってから、何をやってるんだ俺は、と雪瀬は嘆息した。






 月が沈もうとしていた。
 夜が明けようとしていた。
 ざわめく風の気配を残し。


 縁の下では猫がひっきりなしに鳴きたてている。
 少女を寝かせて部屋に帰ってきた雪瀬は濡れ縁にしゃがみこみ、ひょいと縁の下をのぞきこんだ。黒猫が顔を出す。琥珀色の眸を細め、手にすり寄ってきた猫を抱き上げると、雪瀬は板敷きに寝転がって猫を腹の上に乗せた。ひたりとくっつく猫の頭を撫ぜる。
 風が吹き、ひとひら、ふたひら、と朽ち葉を散らしていく。
 夜明けの色へと移りゆく空を眺め、疲れた、とひとり呟くと彼は目を閉じた。