四章、花嵐
一、
早咲きの椿が橘分家の庭に花を結んだのは、つい先日のことであった。
橘真砂が愛した花である。椿は桜のように花弁をひらりひらりと一枚ずつは落とさない。落ちるときは花首ごとぼとりと地に落ちる。それがまるでひとの首のようじゃと多分に忌み嫌われる花であったが、変わり者の青年はそれをたいそう愛でたそうだ。曰く、死とは醜くみすぼらしくあっけのない、なるほどこの花の散りざま通りではないかと。
――椿の咲き綻ぶ庭に、今お喋りなあるじはいない。
「それじゃあ雪瀬、」
赤く咲いた椿に葦毛の馬が鼻先を押し付ける。白い呼気が立ち上り、深緑の葉をさわりと揺らした。
少年は馬に荷を積み終えると、鐙(あぶみ)に足をかけ、瞬く間に馬上のひととなる。雪瀬は自分よりもはるか頭上になった少年を自然仰ぐようにしながら、「なぁ、やっぱり」と何度目かになるやり取りを口にしようとした。
透一が寝てども待てども帰らないあるじ――颯音を連れ帰ってくることに決めた、と雪瀬に告げたのはつい昨日のことである。初め、雪瀬は反対した。言伝があるなら扇に頼めばいいだろうとも言った。けれど透一は扇じゃだめだよ、僕が行かなきゃ、と首を振る。それに扇と馬なら一日程度しか変わらない、なら自分が行ってくる、と。少年の決意は固かった。
普段温厚というかぼんやりした気質だから忘れてしまうが、透一はこう見えて筋金入りの頑固なのである。一度決めたことは誰が何と言おうと貫き通す。でなければあの兄が信頼してそばに置くわけがない。
雪瀬と薫衣は仕方なく、透一に五日の暇を与えることにした。ちなみに透一が空いた穴は宴の酒代を返す意味もあって無名が埋めるそうである。あちらはつくづく律儀な男である。
と、万事一応の解決は見たとはいえ、やはり雪瀬は不満なのだった。透一が百川へ向かうと言い出したのは無意識のうちにでも現状の違和を感じ取ったからだろう。半月ほどで戻ると兄は言っていた。それがすでにひと月半。長すぎである。何か、得体の知れない不安を覚えているのはおそらく雪瀬だけではない。
だからこそ、雪瀬は透一を百川へ行かせたくはなかった。どうしても、というのなら自分が行きたい。
「なぁやっぱり、」
「だぁーめ」
「まだ何も言ってないのに」
「雪瀬が何を言いたいかくらいわかるよ。やっぱり俺が行く、でしょ」
うっと雪瀬が言葉を詰まらせると、図星だ、と透一がくすくす笑った。
「だめだめだぁーめっ。第一雪瀬、きみ馬に乗れないでしょ? 歩いて百川さんのところまで行くの? 何日かかるのさ?」
「……かご。駕籠、使う」
「それは宗家出納を管理させていただいている僕としては絶対認められないんだけど」
確かに駕籠で葛ヶ原から瓦町まで行ったら莫大な額、どころじゃすまない。痛いところをつかれてしまい、雪瀬はしぶしぶ口をつぐんだ。
ちくしょう馬くらいやっぱり乗れるようにしておくんだった、と今さら後悔しつつ、八つ当たり気味に透一の騎乗する馬を睨んでやれば、不意に馬が鼻をむずがらせてくしゃみをした。べしゃりと唾が雪瀬の顔面に浴びせかかる。
「……ねぇこいつの首絞めていい? 死体を八つ切りにして馬肉を焼肉にでもしたらこいつも少しは世のため人のためになるだろうと思うんだけど、だめ?」
ねっとりした唾液を濃茶の前髪からしたたらせながら、並々ならぬ殺意をもってそう口にすれば、葦子にそんなひどいことしないでよ、と透一は肩をすくめた。少年の手が伸びて、荷から出した手ぬぐいで軽くこちらの頭をぬぐうようにする。雪瀬は憮然とした表情はそのままにおとなしく目を伏せた。たとえ同い年であっても、幼い頃から雪瀬の遊び役だった透一は友人というよりはどちらかというと雪瀬の兄なのだった。それは双方大人と呼べる年になっても変わらない。雪瀬は変えていいのだが、透一は変えてくれない。
ひとしきりぬぐいやって、こちらの頭にぽんと手ぬぐいを置くと、透一は「雪瀬」といつもの棘のない、柔らかな声音で名を呼んだ。
「きみは橘宗家本流なんだから、」
諭すように、正すように、透一はその肩書きを持ち出す。
「葛ヶ原から出ちゃだめ。颯音さん不在の今、葛ヶ原を守るのはきみの役割なんだよ? そしてきみたちを守るために僕らがいる。雪瀬、覚えていて。きみはひとだけじゃなくて、この土地を守らなくちゃいけない。それを忘れちゃいけない。――薫ちゃん」
透一は雪瀬の少し後ろでそれまで固く口を閉ざしていた少女へと視線を向けた。
「だから、薫ちゃんは雪瀬と、柚ちゃんをよろしくね?」
「……わかってる」
そもそも、颯音の元に一番駆けつけたかったのはこの少女である。おそらくは今もそう思っているに違いない。それでも行きたい行かせてくれと駄々をこねないのはひとえにこの少女の矜持の高さゆえ。
わかってるよ、ともう一度ぶっきらぼうに答えた少女へは困ったように微苦笑を返し、それじゃあ、と透一は馬の手綱を引いた。
「蕪木透一、不在の当主橘颯音の安否を確かめに瓦町の百川諸家へ――っと、わ、ちょ、待っ葦子、」
話している最中に馬が駆け出してしまい、透一は慌てて馬の背にしがみつく。うひゃああああ、という少年の叫び声を引きずりながら、馬は疾風のごとく、開け放たれた南の関所の門を駆け抜けていった。
*
一方、こちらは件の瓦町の百川刀斎が屋敷。
七日ほど前、颯音はようやく百川紫陽花の館からこちらの刀斎の屋敷へと移されたのだった。
「若君さま、」
綿入りの羽織を肩から掛け、颯音が火鉢のそばでのんびり碁を打っていると、対面の障子戸が開いてなじみの青年が顔を出した。とたん青年はしまったという表情になって手を振る。
「申し訳ない、“橘のご当主さま”。どうも昔の癖が抜けなくって」
「ああ、どうぞお気になさらず」
「――ひとり碁?」
「ええ」
百川漱(ももかわ すすぎ)と名乗るこの青年は何でも幼い頃に颯音と一度会ったことがあるそうだ。彼は十で、颯音は四つだったというから、颯音自身の記憶にはほとんど残ってない。曰く、漱漱と追いかけ回して亜麻色の髪の毛を引っ張って遊んだというが、――激しく記憶にない。
「ごめんねー、わかぎ……ご当主さま。刀斎さま、ご加減が優れないみたいで」
「今日も、ですか」
「まぁあの方もお歳ですからね」
そう返されてしまっては追求のしようもなく、颯音は仕方なく口をつぐんだ。
一ノ家に移って七日。これでようやく刀斎との会見が叶うかと思えば、今度はこの刀斎の体調が優れぬとかでお目通りが許されない。一度、それでも無理やり刀斎の部屋の前まで行ったことがあったのだが、部屋を固める百川の家の者に丁重かつ断固とした態度でお断りされてしまった。ほんの四半刻、話をすることも叶わぬほど病がひどいとでもいうのか。
紫陽花の家で過ごした期間も含めると、予定は当初から遅れに遅れていた。葛ヶ原では今頃薫衣や透一、雪瀬や柚葉がこちらの身を案じているに違いない。
また文でも出そうかな、と考えながら、颯音はぱちりと盤面に碁を打った。脇で膝を抱えながらそれを見ていた漱が不意に苦笑を漏らす。
「ほんとおとなしくなったもんだよねぇ若君は。あ、颯音さまは」
「どちらでもいいですってば。……そうですか?」
「幼子の時分、あなたはそれはそれは気性の激しいお方だったよ。この子ときたら弓矢で蓑虫を射抜いて遊ぶのが好きな情のない子なのだ、と母君が嘆いておられたのを覚えてる。それでわたしは違う意味であなたは父君を殺めるんではなかろうかと思っていた」
「ああ……父は、物心ついたころからいつかあの首を落としてやろうと思ってましたからねぇ」
「またまたー。ご冗談を」
漱に調子を合わせ、颯音は小さく笑う。
ひとしきり笑い合うと漱はよいしょと腰を上げた。うなじあたりでくくられた柔らかそうな亜麻色の髪が陽光を浴びて鈍く輝く。朱色の女物の飾り紐が結ばれているのは、この男なりのお洒落なのだろうか。あまり趣味はよくないが。
「けれど三つ子の魂百までとも言う。されば、あなたの激しさは年月とともに内へと沈められていったのかな?」
漱は紅鳶色の眸を細め、ついとこちらの左胸を指差した。何とも意味深な物言いをする男である。
「――お暇なら、碁でもやっていきますか?」
「いえ、このあと用が入ってますので。今度ぜひ一局」
にっこり笑うと、漱は恭しく頭を下げその場を去った。
碁盤に視線を落とし、さてこの男と百川紫陽花、より食えないのはどちらであろうかと颯音は冷ややかに考えた。
実際のところ、颯音はまったく物静かな人間などではないし、また温厚な人間などでもない。
父親を策略に陥れ、その首を斬り当主の座に着いた人間を物静かで温厚と評すなど、蝮(まむし)を蜥蜴(とかげ)と呼ぶようなものである。その心は、“表面ならばいかようにも取り繕える”。蝮と蜥蜴は姿形こそ似ているが、一方は致死性の毒牙を持っていると来た。本質的な話をするならば、弟のほうこそ「静穏」という言葉が似合うだろう。
それでも上辺だけであってもさも寛大な心を持っている人物かのように繕っておくのは、それがもっとも敵を作らずしてかつ己の意向を通しやすい方法だからである。
颯音は七つで母を失った。そのとき雪瀬は三つで、柚葉などは赤子同然といってよい歳だった。
父である橘八代というひとは雪瀬と柚葉をまったくといっていいほど可愛がらなかった。むしろ憎悪しているといったほうがよく、注意をしていないと妹弟を殺しかねない雰囲気があった。
一度、颯音が弓で遊んでいたとき、弟が折れた竹刀をずるずる引きずってやってきたことがあった。見れば頬が赤く腫れている。どうしたんだと問うと、父親に竹刀を折られそうになったから止めようとしたら殴られたのだと返した。雪瀬は自分のことより何より竹刀が心配であるらしかった。これ直せる?颯音兄直せる?としきりに尋ねた。
颯音は弟の手を引いて、馴染みの医者のところまで連れて行くと、かの医者が雪瀬の手当てをしている間に竹刀に布を巻いてとりあえず元通りにし、疲れて眠ってしまった弟をおぶってまた家に帰った。
颯音に明確に兄としての自覚が芽生えたのはこのときである。
自分たちを守ってくれた母はもういない。だから今度は自分が守る側にならなくてはならないのだと幼い颯音は自然理解した。
力で父をねじ伏せようとしなかったのは、己の力量をわきまえていたからである。そのとき、すでに常人にあらざる術師の才能の片鱗を見せ始めていた颯音であったが、まさか七つかそこらの子供が熟練した風術師に敵うわけがない。父に敵うような歳になるまでは、だから力勝負は仕掛けないと決めた。
代わりに颯音は別のありとあらゆる手段を使って父を、ひいてはひとを制する術を学んだ。たとえば、ひとというものは力を持って威圧すれば反発するというに、こちらが下手に出ればあっさりと懐柔されてしまう。激しく責めるような語調で言えば聞く耳を持たないが、静かに根気よく話せばたいていの場合はあちらが引き下がる。暴君には警戒するが、愚鈍な者には油断する。
いわば、処世術である。
「これがどうしてなかなかいまだに役に立っているのだから」
颯音は草紙を閉じると碁盤から顔を上げた。
中庭には山茶花が咲き綻んでおり、その剪定を百川の庭番たちがしているようだった。今はおおかたが終わり、切った枝葉を集めたり、運んだりしている。
その中で脚立を運んでいる青年を見つけ、颯音は軽く腰を浮かせて彼を呼び止めた。
「ねぇそこのきみ。あのさ。その脚立、しまってしまうの?」
「はい。それが何か?」
「さっきあっちの衛兵さんが使うって言ってた。渡しておいてあげるよ」
「いや! しかしそのようなことを客人の方に……!」
「お気になさらず。ちょうど暇だったから。きみは忙しいんでしょ?」
青年の肩越しにせわしなく働く男たちへと視線をやれば、彼は「えぇと、」と口ごもってから小さくうなずく。
「じゃあ早くお戻り」
促すようにすると、律儀そうなこの青年はほんの少しためらうようなそぶりを見せた。じゃあお願いします、と頭を下げ、脚立を軒に置く。戻っていく青年の背中を見送り、暮れ始めた空を仰いで颯音はそっとほくそ笑んだ。実に黒々とした笑みである。
――物静かな当主さまはおしまい。
ようやくこちらから仕掛けるときが来た。
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