四章、花嵐



 二、


 百川紫陽花の屋敷で足止めを喰らいながら、颯音が最初に考えたことは、もしやあちらはこちらの用件を知っていて、その上で刀斎に会わせぬよう妨害をしているのではないかということだった。
 八代の件や老帝暗殺の件に関して、刀斎はどちらかというとこちらよりであるかのように見受けられた。だが、百川は三家の共同統治をとっており、他の家――式ノ家の紫陽花や法ノ家の漱がこちらを快く思っているとは限らない。漱はわからぬが、少なくとも紫陽花は颯音を警戒している。
 狂い花の下で短く言葉を交わしただけだが、確信した。彼女は颯音を瓦町から追い払いたがっている。

 “国を離れた皇(おう)の末路を悼んで泣く桜花”。
 “国を出たきり、二度と愛する故郷を踏めなかった皇”。

 つまり、出て行かぬのならその首を落としてやるぞと紫陽花は暗に脅しをかけたわけだ。とはいえ、それでやすやす追い払われてやらないのが颯音である。


 紫陽花の屋敷で颯音は待った。待った。待ち続けた。正直、颯音は待つという行為が心の底から力いっぱい嫌いなので、腹いせに庭の隅にあった枯れ紫陽花をぶちぶちと抜いたりはしたが、表面上はそれはもう穏やかで気長な当主ぶりを演じ抜いた。
 あちらはおそらく、業を煮やした颯音が“刀斎の代わりに紫陽花に用件を伝えてしまえと思いつき”そして“紫陽花が用件を却下”、“颯音は瓦町から追い払われる”という図式を期待していたはずだが、その手には乗らぬ。
 颯音は親愛なる刀斎さまにじかに会って還暦のお祝いを申し上げたいのです、としおらしく訴え続け、好機を待った。結果、さすがにひと月はまずいと思ったのであろう。紫陽花は颯音を一ノ家の刀斎が屋敷に移した。移された当初こそ、あちこちにそれとなくこちらの動きを見張る者が配置されていたが、毎日碁を打ったり、歌を詠んだりしている颯音にあちらも嫌気が差してきたらしい。見張りの数は少しずつ減り、今では颯音の部屋の様子をたまにひとがうかがいに来るくらいになった。
 そこで本日。夜四ツ、深夜。決行である。


「よいしょ」

 ひとがいないのを見計らって、颯音は脚立を部屋に入れると、部屋の真ん中あたりに置いた。梯子に足をかけてのぼる。左手で梯子をつかんで身体を支え、天井板を外す。
 中は埃っぽく真っ暗だ。一度蜜蝋を取りに帰って、それを天井の床板に置くと、颯音は板に手をかけ、自分も天井に昇ろうとした。
 体重をかけたとたん、みしりと天井板が嫌な音を立てる。……破れて落ちないといいんですが。今葛ヶ原にいる橘一門一同は当主が天井板を突き破って落ちることがないよう全力で祈っているように。

 果たして祈りは届いた。颯音は女子ほど華奢なわけではないが、別に大男でもないし、また普段は座っているだけなので勘違いされそうだが、これでも武人のはしくれなので身体能力が低いというわけでもない。むしろよい。かなりよい。単に薫衣や透一のように常日頃から走り回るのが面倒なだけである。それに当主というのは動かないくらいのほうが貫禄があっていいのだ。と、颯音は言い訳している。

 身体を引き上げきっても、天井板は少し軋んだだけで負荷に耐え、あとは片足を引き上げるのみになる。だが、そのとき予期せぬ不幸が颯音を襲った。

「颯音さま! お目覚めでしょうか?」
「……。……何?」

 天井から片足をぶらぶらさせながら、声だけは平静を装って襖の外へ。
 どうやら、と颯音は天井裏の中で考える。この様子は百川の家人らしい。まさか物音を聞きつけて駆けつけてきたのだろうか。

「物音がしたので心配になって参りました。お変わりないですか?」
「案の定だね……」
「は?」
「イエ、変わりなく」
「よかった。では確認だけ、」
「――待った」

 かたり、と襖が開かれかける。颯音が鋭い制止をかけると、相手は驚いた様子で手を止めた。

「何でございましょう?」
「何でございましょう、じゃないよ。きみはもしかしてひとの寝室をのぞくのが趣味なの? それってすごく悪趣味だと思うんだけどどうなんだろう? 前々から思っていたのだけど、百川諸家というのは若干家人の教育がなっていないよね。仮にも当主の寝室を無断で入ってくるなんて、もしも葛ヶ原でそんなことしたらどうなると思う? うちの父上などは確か即効腹きりを命じていたねぇ。俺は腹切りは後始末が面倒だから嫌いだけど、鞭打ちなら別に嫌いでもないから場合によっては」
「めめめめ滅相もないっ」

 怯えきってしまったらしい男は半ば泣きそうな声を返す。
 颯音はくすりと笑い、「おや、そう?」と話を切った。

「じゃ、おやすみなさい。百川のお抱えさん」
「おやすみなさいませ。颯音さま」

 襖の外からひとの気配が消える。あちらもあちらで命じられた仕事であるようだから遠くに行ったわけではなかろうが、ひとまずは厄介払いができた。颯音は息をつくと、天井から垂らしていた片足を引き上げた。




 衿から紙を抜き取ると、そこへ蜜蝋の明かりをかかげる。
 百川一ノ家の屋敷はコの字型の母屋と、いくつかの離れによって構成されていた。颯音に与えられたのは、母屋の外れの客間。刀斎の寝室は対面に当たる一室だ。紙にはそれら百川の屋敷の見取り図が走り書かれていた。ここ七日、厠に行くときや庭に出たときなどの記憶を頼りに作った地図である。

 ひとの足幅にはひとそれぞれ一定の長さがある。歩測といって、歩数を記憶し、その数を元にしておおまかの距離をはかることができるのだ。その結果と屋敷の外観を照らし合わせ、颯音は百川一ノ家の見取り図を作った。あとはこれを頼りに進むだけ。
 天井裏は高さがないので、自然這うような格好になりながら颯音は蜜蝋のか細い明かりをしるべに前へ進む。刀斎が何らかの理由で部屋から出てこられぬ状況ならば、こちらから寝室に訪ねてしまえ、という計画だ。兎にも角にも颯音は待つのが大嫌いなのであった。雑事は今晩でけりをつけて、さっさと葛ヶ原へ戻りたい。
 そう、できる限り早く――。



 ――早く大人になりたい。

 濡れ縁に腰掛けた少年は物憂げに嘆息する。
 その膝元には小さな少女が座っていて少年の胸に頭を預けて眠っているようだった。まだ幼い妹のふわふわした柔らかな髪を撫ぜながら、颯音は嘆息混じりに呟いたのだ。早く大人になりたい、と。

「奇異な若君よの。ひとはいずれ嫌でも大人になるもの」
「“いずれ”なるなら、今すぐだって別によくないですか?」
「まぁこればかりはなぁ」

 老翁は苦笑し、まだ十五にも少しばかり届かない少年をしげしげと見つめた。
 橘凪の事件の直後である。かの事件は橘雪瀬の心に深い爪痕を残したが、しかしそれは彼だけではなく周りとて同じだった。傷の大小、浅い深いはあれどみながみな、思うところがあった。
 現に真砂は家族すべてを最も悲惨な形で失ったわけであるし、柚葉は慕っていた黒衣の男を別れという形で失った。そして颯音にとってそれは雪瀬だった。
 凪が死んだあと、雪瀬はそれまでのようにぱあっと満面の笑みを浮かべるということがなくなった。颯音の後ろにちょこちょこついてきて構って構ってとばかりに抱きついてくることもなくなった。雪瀬はそこにいて、息をして、笑うのだけど、それは真実楽しくて笑っているわけではないのだ。嬉しくて笑っているわけでもない。ぽんぽんと紡ぎ上げる巧みな嘘とおんなじで、雪瀬は真意を隠すために笑顔を使うのだ。時にそっと、ひとを悲しませぬよう優しく、時に不敵にひとを排するように冷たく。笑顔というのは一番悲しい無表情である。
 だから俺は雪瀬を失ったのだと颯音は思った。それは悲しみや憐れみよりも、どちらかといえば憤りに近い感情だった。

「俺は早く家督がほしい。力もほしい。どうせなら身に余るほど大きな力がよい。そうしたら二度とこんな気持ちになることも無いだろうから」
「――のう橘の若君。何故、そう生き急ぐ?」

 百川刀斎は白い顎鬚を気に入りの鼈甲櫛で撫でつけながら、穏やかに問うた。柚葉の髪を梳いていた手を止め、颯音はひたと老人を見据える。

「立ち止まれば、奪われるしかなくなるからですよ」

 風が吹く。にわかなる嵐が樹々を、草を、かき乱す。
 老翁は聡明さを湛えた双眸をすがめ、それもおぬしの業かの、と呟いた。




「ついた」

 颯音は地図を畳んで衿元に入れた。おそらくこの真下が刀斎の寝室のはずである。試しにひとはいないかと床板に耳をつけて、あたりをうかがう。声や物音のたぐいは聞こえなかった。
 それでも注意深く天井板をそろりと半分だけ動かし、颯音は天井から下を覗き込む。

「ふあーあ……」

 即効、あくびをしながら天井を仰いだ百川の家人と目が合った。しばしお互い固まる。沈黙。と、ここまでは一緒だったが、次に取った行動はおのおの異なっていた。

「く、曲者―!」

 引き攣った叫び声をあげ、男が抜いた刀を天井に突き出す。しかし遅い。そのときには颯音は天井板を閉め、後ろに飛び退っていた。板を破って突き出された刀がちょうど股の間を貫く。すぐ眼前に出てきた刀身を見やり、さすがの颯音も若干驚いた。危ない、早くも九死に一生、もとい一生不能になるところだった。
 板を貫いた刀を抜くのに男が手間取っている隙に、颯音は別の天井板をあけて下方へと舞い降りる。舌打ちした男が無理やり引き抜いた刀をぶんと薙ぐ。それをかわしながら颯音は呪を唱え、印を切った。
 
「風術師、」

 驚愕に目を開き、男はとっさ身を守るように刀を前へと突き出す。だが、予期した風が吹きすさぶことはなく、代わりに頭上の天井板ががたんとおもむろに動いた。板は男の頭めがけて垂直に落下し、ぱっこーんとそれは小気味よい音を立てて男の後頭部を叩いた。

「ぐ、ぅ……」

 声にならない呻き声を漏らし、白目を剥いて倒れ掛かってきた男を颯音はひょいと横に身を引いてよける。そのままばたりと床に伸びてしまった男のかたわらにかがみこむと、首の脈に指をあてがい、とりあえず死んではいないらしいことだけを確認した。
 
「お世話になった御仁の寝室の前を血で汚すのは、いささか心苦しいものねぇ」

 やれやれと颯音は腰を上げ、衿元から地図を取り出した。どうやら図面は少しだけ間違っていたらしい。ここは刀斎の寝室の押入れではなく、寝室前の廊下だ。

「これだから歩測はいけない。――刀斎さま、いらっしゃいますか」

 微苦笑をこぼしてから、今の騒ぎでひとが駆けつけてしまう前にと颯音は声色を切り替えて襖に手をかけた。