四章、花嵐



 三、


「もぉ。おばかなんだから、葦子はー」

 透一はすごい勢いで駆け出したあげく危うく道を失いかけた葦毛の馬をぽかりと優しく叩いた。手綱を引いて馬を止める。
 馬上から降り立つと、手ごろな樹を選んで手綱を巻きつけた。一日走り続けたので、今晩はこのあたりで野宿するのがよいだろう。
 透一は結ばれていた荷から竹筒で作られた水筒と薫衣が持たせてくれた弁当を取り出した。水を一口飲んで、葦子と名づけた雌馬にも与えてやる。

 今日一日で道半ばまでたどりつくことができた。うまくいけば、明日の夕刻か明朝には瓦町の入り口に到着できるだろう。明後日には颯音のもとに馳せ参じられるはずだ。

 椎の葉に巻かれていた握り飯は形こそ不恰好であったものの、味は格別。作り手の愛情にほわわんと心を溶かされながら、透一は握り飯を口に運ぶ。かたわらでは葦子が野の草をもしゃもしゃと食していた。
 夜空にぶら下がった細い月を眺めながら、颯音さんはどうしてるかな、と透一は考える。いったいひと月半も何をしているのかという皆と同じ心配もあったが、あのひとはたまに何食わぬ顔で周りが度肝を抜かれるような思い切ったことをするところがあるひとなのでそちらも心配な透一なのだった。直情型の透一と薫衣を冷静な颯音がまとめているようで、その実颯音に引っ張られて、あるいは引きずり回されているふたり、という力関係なのである。

 変なことしてないといいけどなぁと物憂げな嘆息をし、透一ははむと握り飯を食べる。

 とにかく、少々強引な手を使っても当主さまには早々に用事を済ませてもらい、葛ヶ原に帰ってきてもらわねばならない。場合によったら葦子のごとく手綱をつけて引っ張って帰ったっていい。それすら辞さぬほど、透一の目から見て薫衣の心労は危うい域にまで達していた。
 加えて近頃は薫衣だけでなく、柚葉や雪瀬に至るまでどことなく元気がない。表面上は今までどおりに振舞っているが、やっぱりどこか沈んでいる。そうして見えないところで少しずつ心をすり減らしていっているんではないかと透一は心配だった。橘の血を引く者たちは総じて絶望的に素直でないし、ついでにひとに寄りかかるということを知らない者が多いのだ。ひとに助けを求めるということを知らない。自分を押し殺し、弱さをひた隠しにすることが強さだと思っている節が、ある。

 困ってるなら颯音さんに助けてーって言っちゃえばいいのに、と父母祖父母曽祖父母姉五人妹一人という大所帯に囲まれて育ったせいか、ひとに甘え慣れている透一は思う。自分の足で歩こうとすることは大切だけども、もしも疲れてしまったら素直に誰かに寄りかかればいいのだ。ときに手を引いてもらったり、自分が手を引いてあげたりしながら一緒に道を進めるのならそれでいいじゃんね、と透一は思う。

 ――ほら、よく言うでしょう。人という字はひとりとひとりが寄りかかってできてるんだよって。

 透一は猫可愛がりしている妹によくそう教えている。
 だけどもそれはあくまでも透一の考え方であって、たとえば薫衣などからしてみたら、誰かに助けを乞うなんてことは耐えがたい苦痛を伴うらしい。薫衣というのはよい意味で高潔なのだ。理想が高い。高いだけでなく、いつだってその理想に沿う生き方をしようとしている。
 以前ふたりで、もしもあるじである颯音とふたりきりで敵陣に囲まれてしまったらどうする、という話をしたことがあった。老帝へ刀を向ける少し前のことだ。

 ――僕はふたりで逃げる方法、考えるかなぁ。だってふたりで頑張ればどうにかできるかもしれないでしょ。

 透一はそう言った。お前らしいな、と薫衣が笑う。その言い方が気になって、薫ちゃんならどうするのさ? と尋ねると、私ならあのひとを逃がしてその場に残るな、と答えた。その眸はどこまでも澄み切っていて、衒いや見栄はおろか、迷いすら微塵も感じられなかった。実際、“もしも”のときは薫衣はそのように考え、そのように行動するのだろう。颯音がどうするかは透一にははかりかねる部分があったが、つまるところ、薫衣に限って言うならそういう少女だった。

 ――本当にどうしてそう。気高くて、美しくて、悲しくて。どうしてそういう生き方しかできないのかな。
 透一は苦笑し、横になった葦子に背を預けた。羨む気持ちはない、憧れる気持ちはないといったら嘘になる。だけども、一方で透一は颯音と同じくらい、薫衣が好きであるので。そんな自分の身をひとの盾にするような悲しい失い方はしたくないのだった。
 そうだよね葦子、と灰色の毛に頬を寄せると、透一は羽織をたぐりよせて重くなってきた瞼を下ろす。

 と、まどろみ始めた意識を妨げるように微かな蹄の音が聞こえてきて、透一はうっすら眸を開いた。音は瓦町の方角からする。まさか颯音だろうか。自分は今道から少し外れていたところで野宿しているので、あちらは気づいていないと思うのだが……。
 透一はもぞもぞと身を起こし、茂みからそっと顔をのぞかせる。轟音がたけり、眼前を一頭の馬が疾風のごとく駆け抜けていった。馬上で手綱を操る人影にさっと月光がよぎる。静かな光を帯びた亜麻色の髪を見とって、透一は目を瞬かせた。

 ――百川、漱。

 見間違いではない。紅鳶の眸以外はあまりひとの印象に残らない顔立ちをしているひとだったけれど、そこは記憶力に若干の自信を持っている透一だ。見間違えるわけもなかった。
 葛ヶ原方面へ馬を走らせていった青年の後姿を見送って、透一は小首をかしげる。

「颯音さん、あちらにいるのに。いったい葛ヶ原に何の用なんだろ……、ねぇ葦子」

 問いを向けられた馬はそんなのわかるわけないわよとばかりにふんと鼻を鳴らした。透一は葦子のいじわる、と呟き、そのそばに戻る。
 少しばかり気になるところではあったが、とはいえ、透一の今の使命は一刻でも早く颯音の元にたどりつき、葛ヶ原に連れ帰ることである。気になるからと漱を追っていたらきりがない。

 ――まぁ葛ヶ原には雪瀬も薫ちゃんもいるしね。
 考え、透一はつかの間の眠りについた。







 開いた襖の先に、人影はなかった。

 颯音は暗がりを見回してから、視線を落とす。ひともいなかったので素直に不快をあらわに舌打ちをした。
 刀斎の屋敷と聞いていたので、よもや屋敷ぬしが不在になっているとは思わなかった。けれど考えてみれば、あの策士で名高い紫陽花だ。すでに刀斎は別の場所に移したあとというわけか。この家のどこかか、あるいは別の屋敷か。

「――しかるに、貴方は俺を罠にはめたおつもりなのかな?」

 颯音は部屋の真ん中にたたずんだまま、背後に向けて声をかける。そこにいる何がしかが息をのむ気配がした。

「こっそり背後に回ったつもりであったのに。お気付きだったか」
「気配くらい読めます。これでも風術師ですから」
「ふぅむ……。とんだじゃじゃ馬風術師殿であったがの」

 じじいの知り合いにはろくな者がおらぬ、と紫陽花は薄く笑った。

「じじい、ねぇ」
「どうせここにはおらなんだ。刀斎さまと呼ぼうがじじいと呼ぼうがどちらでもよかろ」

 ふんと紫陽花は胸を張る。つまらぬところでも威風堂々とした女子である。
 彼女ひとりのものとは到底思えぬ足音の数に、面倒なことになったと小さく嘆息してから、一息に背後を振り返る。少女を守るようにたちはだかった百川兵たちが颯音を取り囲んで四方から槍を突き出した。颯音は濃茶の眸をすがめて、槍の先端についた刃から紫陽花へ視線を移す。

「……刀斎殿はどこへ?」
「それよりもおぬしがここに忍び込んだ申し開きのほうを聞きたいのう」
「厠に行ったら道に迷ったんです」
「ほう。で、じじ……こほん。刀斎さまの部屋の前に立っていた男を昏倒させたと」
「寝惚けてたんです」

 しれっと答えれば、紫陽花は頬をわずか引き攣らせた。

「……とんだ狸め」
「おや。狐さまに褒めていただければ光栄というもの」
「無礼者め! 紫陽花さまを侮辱するか!」
 
 その場にいた兵のひとりが怒号を上げ、槍を振りかぶる。颯音は待ち構えでもしていたように素早く印を切った。刹那、ぶんと薙いだ槍に亀裂が入り、穂の部分が折れて落ちる。同時に四方から突き出されていた他の槍もすべて柄だけを残して刃が畳に落下した。ただの棒に成り下がった槍を見て、ひっと男たちがくぐもった悲鳴を上げる。

「ほんに暴れ馬よのう……」

 動揺する男たちを横目に呆れたように呟き、紫陽花は肩をすくめた。目元はやはり最初に会ったときのように布で覆われているからいまいち表情が読み取りづらいが、苦笑しているらしい。

「これは確かにひとに乗りこなされるをよしとする器でないやもしれぬ」
「ええ、ひとを罠にはめるのは好きだしよくやるんですけど、自分がはめられるというのはこの上なく気分が悪いので」

 にっこり笑い、颯音はおののく百川の兵たちが形ばかり向けてくる棒を手でどけ、紫陽花の前に立った。とん、と少女のすぐ背後の襖に手を突く。そうして自分よりは遥かに身長の低い少女を見下ろした。

「百川刀斎はどこだ?」

 声をひそめ、少女の耳元にて囁く。冷ややかな威圧をこめた声音に、紫陽花は身を強張らせた。こちらを仰いでから、逃げられぬと悟ったのかこそりと嘆息をこぼす。

「刀斎さまはここにはおらぬよ」
「ほーう?」
「嘘ではない。真じゃ」

 疑わしげなこちらの様子が気に食わなかったのか、紫陽花は少しばかり刺々しい声色になって言った。

「刀斎さまはの、実は今宮中に囚われておる」
「――どういうこと?」
「話そう。……致し方あるまい」

 前半は颯音に向けて、後半は百川の兵たちに向けて告げると、紫陽花は颯音の腕から抜け出た。

「茶を持って来い。それから外で伸びている男は景観上みすぼらしいから、連れて行くように――っと、お前魂が抜けかけているではないか」

 紫陽花は空中に手をかざし、何かをつかみ取るような仕草をした。もしもこの場に雪瀬がいたら少女の鮮やかな手つきに少しばかりの感嘆を見せたかもしれないが、霊感のない颯音にはいまいちわからない。ただ風術師ならではの勘のよさで、空気がざわりと動く気配を感じ取っただけである。

 紫陽花が手を離すと、廊下で倒れていた男が身を起こす。状況がいまいちわからない様子であたりを見回す男に「茶を持って来い、柊(ひいらぎ)」と紫陽花は腕を組んで命じた。