四章、花嵐



 四、


「あれは今から五月ほど前のことであった」

 朝廷から確認したき事項があるとの由で瓦町の百川諸家に召喚状が届いた。紫陽花は盲目――実のところ完全なる盲ではないのだが、紫陽花の目はほぼ硬質な紫硝子と化している――であるので、都まで出向くことができない。そこで当初は百川漱が都へ赴く予定であったのだが、追って伝令があり、一ノ家刀斎を指名してきた。これを受けて刀斎は老いた身体をひっさげて中央へと発った。

「だが、ひと月待ってもふた月待っても、刀斎さまが帰還することはおろか、あちらからは文すら寄越されない」

 不審に思った紫陽花は漱を都へ遣わした。
 漱は都への道中の宿で黒衣の占術師の側近・氷鏡藍とはち合い、問いただしたのだという。百川刀斎はどうしたのだと。

 氷鏡藍の答えは実に簡素なものだった。
 曰く、“百川刀斎は病を患っており、それゆえ都にとどまり、治療しておられる”。だから、“今すぐには帰れない”、と。

「嘘じゃ」
「――嘘?」
「あの図太いじじいが病ごときで倒れるか。むしろ這ってでも帰還する空恐ろしきじじいよ。あちらが策を講じて軟禁だか監禁だかをしたに違いない。百川が橘に与して、好き勝手せぬようにのう?」
「つまり、人質と?」
「しかり。気づいたときには遅かった。試しにそのまま漱を都に向かわせてみたが、関所で都の兵に阻まれたという。何でも百川は入れてはならぬ、と黒衣の占術師直々の命があったのだとか」

 なんとも腹立たしいことよ、と紫陽花は脇息に肘をついて、煙管をくゆらせた。ふうわり闇を立ち上るか細い煙を眺めながら、成程、と胸中で呟き、颯音は男の運んできた茶に口をつける。

 古くから親交のある百川諸家が橘に与するだろうということは周知の事実だ。百川と橘が手を組めば、毬街を始めとした東地域全体は都に反旗を翻す。都周辺の豪族はさすがにあちらに味方するであろうが、南や北の地では都への参内拒否をする領主も現れ始めていると聞く。
 あと一押し。国全体に号令をかけるような契機さえ手に入れれば、ありとあらゆる場所で兵が上がり、今の朝廷は一気に滅び去るであろう。
 それゆえ颯音は百川の駒を取りに行ったのであるが、あちら側に先手を取られてしまったらしい。空蝉のあたりでごちゃごちゃやってたのがまずかったかな、と颯音は嘆息した。

「たばかるような形になってしまって悪かったの。刀斎さまと親しくしておったとはいえ、私はおぬしに会うたことがなかったし、それに父親を殺して当主の座についた男にろくな者はおらなんだとも思っておった。ゆえ、ひと月半、こちらの事情は隠し、様子を見させてもらった」
「ああ、それであちらへこちらへと移されたわけですか」
「だが、待遇自体はよかったであろう?」
「お酒はおいしかったですよ」

 何せ薫衣にお土産はお酒をと頼まれた手前、十本近く買いあさってしまったほどである。ああこの辛いのは薫ちゃん好きそうだなぁとか、これはだめだめ甘すぎる、と酒屋の前で延々と考えながら、ふと我に返って自分の存在意義に疑問を抱く日々であった。颯音は薫衣の酒を買いに瓦町に来たわけではないのだが。けれど、薫衣という少女は本当においしそうに、とろけるような笑顔を綻ばせて酒を飲むので、やっぱりその顔見たさに酒を買ってしまう。そのうちに部屋には十本近い瓶が並んでしまった。
 ――さてはて、これらを持ち帰ったらかの少女はどんな反応を返すだろう。喜ぶだろうか。それとも、あまりの数の多さに呆れるだろうか。こんなに買ってくるな、と怒り出すか。
 どう来るかな、と少女に思いを馳せて颯音はほんの少し表情を和らげる。見る者が見れば、青年の空気が心なし変わったことに驚いたろう。実際、紫陽花は興味深そうに口端を上げた。

「当主殿はかような大輪を前にしていつも別の花のことばかりを考えておるな」
「……花、と言いますと?」
「以前、狂い桜の下でも別の女子のことを考えておった」

 図星を差され、颯音はしばし沈黙する。何故ばれた。

「女の勘じゃ。ついでであるからいまひとつ加えておくと、かような麗しき美少女の前で別の女子に現を抜かすとは失礼千万。私が寛容かつ温厚な人間でなかったら、この煙管の雁首を当主殿の口に押し付けているところだぞ」

 そんなものを口に押し付けたら火傷をしてしまうではないか。ころころと可愛らしく笑いながら脅してくるのだから女の子って物騒だなぁと若干引きつつ、よかった薫ちゃんは裏表ない子で、と颯音はこっそり胸を撫で下ろした。そんなこちらの思考を逐一読んでいるのか、紫陽花が煙管を口から離し、思わせぶりに軽く振った。――危ない。やる気だ。
 こほん、と颯音は空咳をして、姿勢を正す。

「それであなたのそのよく当たる勘は? こちらを信じるに値すると読んでくださいましたか」
「……とんだ狸で暴れ馬ということがよくわかった」
「お望みなら今からでも礼儀正しくいたしますよ、紫陽花殿」

 颯音が嘯くと、少女はおかしそうに肩をすくめた。

「信じていないのなら端から話などしておらぬよ。――用件を聞こうか」
「簡潔に申しましょう。百川諸家の兵を貸していただきたい」
「どれほど?」
「根こそぎ」
「……ずうずうしい性格よの」

 それは端から承知の上だ。

「さりとて図太くなくてはひとの上には立てないのではないかと」
「言い得て妙では、あるな」

 紫陽花は煙管を吸い込み、煙を吐き出す。煙草盆のふちをこんと叩いて、灰を落とした。
 
「貸してやるのはいい。私も朝廷は好かんし、この地の者は皆多かれ少なかれ帝を恨んでいるからの。皆喜び勇んで力となろう。だが、刀斎さまのこと、どうする?」
「それなら考えがあります」
「考え、とな?」
「あちらは今周辺地域から徴兵を行っているのだと聞く。まもなく、……葛ヶ原の冬が終わり、春、雪解けの季節になれば必ずあちらから国全体に兵の召集の号令がかけられる。あなたがたはその召集にも従ってください。そしていざ戦が始まるというときに、」

 颯音はとんと畳を叩いた。

「こちらに寝返る」
「――寝返るときたか」
「さすればあちらは動揺、これを機に寝返る者なども出て混乱状態に陥る。これが勝機。あなたがたはその隙に都に向かい、刀斎殿を奪還すればよい」
「そううまくいくかの」
「さぁ、やってみなければわかりませんが。どちらにせよこのまま朝廷に従っていても状況は変わりませんよ。――こちらに賭ける気は?」
「おぬしらに賭ける価値はあると?」
「ある」

 紫陽花は颯音を見据えたまま、しばらく動かなかった。おもむろに指に挟んだ煙管を煙草盆に置くと、後ろに手を回し、目元に巻かれていた布を取る。

「橘の当主殿。実はこの両眸は生まれたときからろくに光を知らなくての。代わりにこの世にあらざる者や、生きとし生ける者の魂の色が見える」
「魂の色、ですか」
「そう疑わしげな顔をするでない。私はのう、当主殿。おぬしに初めて会うたとき、ああどこまでも清らかで強くて激しゅうて、まるで冬に狂い咲く桜花のような魂色だと見惚れたものだよ」
「……」

 どうやら心のほうも盲目らしいですね、という台詞を颯音は何とか笑みをもってのみこんだ。生まれてこの方近しい者には腹に何かを飼っている、腹が泥沼と化しているとまで言われた颯音である。清いなどというのは一番縁のない言葉だ、というか聞いたとたんに雪瀬や薫衣あたりはぶんぶんぶんぶんと果てしなく首を振るに違いない。

「紫陽花さまはよい商人になれますよ」
「おだてるのがうまい?」
「おだてるのがうまい」

 うなずくと、あちらは口元に手をやってころころとおかしそうに笑った。こうしていると常にまとうた妖艶な気配が消え、年相応の娘のように見える。

「――橘の当主殿」
「ええ」
「そなたの申し出、受け入れた」

 可愛らしい微笑い方にそぐわぬ鷹揚とした口調で告げて、紫陽花はゆったり目を伏せる。颯音は向き合った百川式ノ家の当主へ静かに頭を下げた。




 南方の、俗に網代紙と呼ばれる上質紙は蜜蝋の照り返しを受け、橙色に染まろうとしている。さらさらと話し合いの内容を書き付けると、紫陽花は末尾に自分の名を記し、小刀の刃を己の指にあてがった。名の横に少し切った指を押しあてる。刀を渡せば、颯音もまた同じようにした。
 
 こうして瓦町・百川諸家と、葛ヶ原・橘一門の間で密やかなる契りは結ばれた。







 ひらり、ひらり、と御簾の裾が夜風に揺れている。虫の声はない。宮中では虫も、花もすでに死に絶えていた。
 ひとりの女官が手燭を夜闇に掲げ、すのこの上を歩いていく。表は蘇芳、裏地は紅の小袿を羽織った少女。緋色の長袴はしゅるしゅると歩を進めるたび衣擦れの音を立てる。

「誰ぞ」

 鋭く投げかけられた声に、氷鏡藍はぴたりと動きを止める。
 桔梗殿と呼びならわされる、昔、いつの時代かでは定かではないが、帝暗殺をもくろんだ主従が血の海を作ったと伝えられるその場所は今は宮中でもひとの寄り付かぬ、寂れた離れとなっている。
 その寝殿のさらに奥深くへ入ったところにその間はあり、襖の前には衛兵がふたりほど槍を持って立っていた。藍は衛兵に目配せをして、襖を開けさせると中に入った。

「相変わらずいい耳をしているね、百川刀斎」

 背後で音もなく襖が閉められる。敷かれた畳の上に座る老翁を見下ろし、藍は呟いた。
 老翁は手首を縄で縛られている。足は縛られてはいないが、この部屋には窓がなく、唯一の出入り口である襖は選りすぐりの衛兵ふたりが昼夜守っているので外に出ることは不可能に等しい。声を出して助けを求めようが、ここは桔梗殿。聞きつける者もおらぬ。――事実上の監禁である。

「ふぉっふぉ、まだこの目も耳も衰えてはおらんからの」

 だが、そのような状況に置かれながらも老翁の朗らかさは翳ることがない。百川刀斎はにやりと笑ってみせると、灰色の眸をつとすがめた。

「『椿』か?」

 それは藍の着ている襲ねの色目である。表を蘇芳、裏を紅。名を『椿花』という。
 藍は己の小袿を顧み、だからなんだとばかりに刀斎を睨んだ。彼女の視線の鋭さに刀斎はこわやこわやとわざとらしく肩をすくめる。

「それにしても、かような時間にいったい何用じゃ。おぬし自らこの老いぼれを訪ねてきたとあらば、少なからず期待もする。さぞやよき報せを持ってきてくれたのかのう?」
「――知りたいの?」
「そうだな。聞かせておくれ」
「“彼ら”は用件をのんだわ」

 老翁の眸がふと見開かれた。終始穏やかであった表情が消え去り、片頬が忌々しげに歪められる。

「まことか?」
「嘘を伝えに来るほど暇に見えて?」
「さよか。では、去ね」

 氷のような冷たさを持った声であった。男はそれきり険しい面持ちで俯く。先とは一転、取り付く島もない。藍は嘆息し、だが早々に仕事が終わったことだけを喜ぶことにして足を返そうとした。

「……橘分家の坊主はそれはそれは椿を愛していたのう……」

 藍は襖にかけかけた手を止める。きゅっと袿の衿を握り締めた。

「だから、何だというの」
「おぬしはあれの死を悼む心を持っているというに、何故かような場所におる?」
「何故、ね。……何故だと思う」

 鮮やかな紅の刷かれた唇を歪め、少女はくつりと嗤った。しゅるりと袴を切って足を返し、見上げる老翁の胸倉へ手を伸ばす。

「決まっているわ! ここにしか棲めないからでしょうよ!」

 鼓膜がじんとする。突然癇癪でも起こしたような少女の様子に刀斎は目をみはった。
 
「何も知らないくせに。何ひとつ知りはしないくせに。勝手なこと言わないで……っ」

 力のないこぶしが刀斎の胸を幾度か叩く。藍は泣き笑いのような表情を作って己の髪に手を差し入れた。くすくすくすくすと肩を震わせて笑う。少女の笑い声が部屋に反響する。刀斎の表情が凍りつくのを見取って、藍は興味をなくしたように男の衿を放した。
 
「橘一族の話なんか、二度としないで」

 冷たく言い放つと、藍は刀斎の部屋を出た。
 お送りましょうかと申し出た兵の手を振り払って宮中を歩き、自室へと戻る。藍は袿を脱ぎ捨てびりびりに引き裂き、外に捨てて火をかけた。まるでそれそのものが忌むべき対象であるかのように残された灰も手で叩いて潰した。