四章、花嵐



 五、


 闇夜を舞い狂う紅葉の残像と、つかまれた手首の痛みとが真っ暗な中でとても鮮明だった。


 雪瀬が桜の問いかけに対して力をもって返したのはこれが初めてだった。驚きと恐怖で身体が動かない。血が止まるんじゃないかと思うほど強く手首をつかまれ背後の楓の樹に縫いとめられても、非力な桜には彼の手を振り払うことすらできなかった。なされるがまま次第深さを増す口付けを受ける。涙が滲み、視界がぼんやり形を崩した。

 いつのことだったろう。以前、雪瀬の布団にもぐりこんでいたところを瀬々木に見つけられ、こってり叱り付けられたことがあった。
 ――いいか桜、と瀬々木は言った。夜、男の寝所に行くのは禁止だ。いやいや寝所でなくとも夜にふたりきりというのはやめておいたほうがいい。
 桜は小首を傾げる。そのときの桜は瀬々木がいったい何を怒っているのか、よく理解できなかった。ムボービと言われたって、いったい雪瀬の何を警戒する必要があるのかわからなかったのだ。

 けれど、今になって身をもって理解する。瀬々木が言っていたのは、こういうことだったのだ。当たり前と言えば当たり前だ。普段髪を梳いてくれる手がどんなに優しくとも、雪瀬は“オトコノヒト”。沙羅や薫衣や柚葉とは違う。全然、違うんだ。だって桜はつかまれた手を解くことすらできないじゃないか。
 思い至ったとたん、急に心もとなく、怖くてたまらない気持ちになる。足場が崩れ落ちていくような錯覚に陥り、そして信じていたものに裏切られたような、真っ暗い感情が胸をふさいだ。
 口付けが肌に落ちるたび、身体はすくみ、四肢が震えだしそうになる。桜は身を固くしてぎゅっと目を瞑った。怖い。痛い。苦しい。たすけて。

「や、……」

 いろんな想いが同時に渦巻き、頭はすぐに混乱をきたしてしまう。湧き上がった感情を持て余し、ただただ泣くことしかできないでいると、不意に肌に触れる熱が消えた。ひんやりとした指先が差し伸べられ、そぅとためらいがちに涙の滲んだ眦をぬぐう。優しいというよりはまるで怯えるような所作だった。その手すら厭うて、桜は泣き続けた。もう何が何だかわからない。決壊した感情が胸から溢れてただただ苦しかった。
 惑うように差し伸ばされた指先がふと下ろされる。そのとき雪瀬はどんな表情をしていたのだろう。何て言っていたのだろう。自分のことで手一杯だった桜はついぞそれらを知ることなく、ただ、おやすみ、と囁くあまりにも静かな声で視界は閉じる。真っ暗に。鮮やかな紅葉の残像と熱の名残だけを身体に残して。




「ん……」

 久しぶりに夢すら見ぬような、深い眠りについていたらしい。
 射し込んできた陽の眩しさに桜は眸をうっすら開く。
 眠りすぎたと思ったが、陽射しの様子だとまだ朝も早い時間帯のようだった。――実はその朝とは桜が考えるものとは異なり、“まる二日めぐった翌朝”であったのだが、無論今の桜が知る由もない。
 
 桜は寝起きが悪い。とにかく悪い。しばらくぼうっとしてから、のろのろと身体を起こした。眠りすぎたときによくある気だるい頭痛に見舞われながら、桜はこめかみあたりを押さえようとしてその“違和感”に気付いた。
 ひらりと眼前で揺れる緋綸子の袖。外着のままだ。

「……?」

 ここで早くも記憶に混乱が生じる。確か昨晩は雪瀬に連れられて五條家に行ったはずだ。これはそのとき着ていた袷である。けれど五條家に行ったときの服装で、何故桜は橘宗家の自室でぐっすり眠っていたのだろう。もしかして自分で帰ってきたのだろうか。でもそれなら何故寝衣に着替えなかったのだ。寝衣に着替えるのも忘れるほど疲れていたのだろうか。

 ううんと考え込むが、おぼつかない頭では考えもまとまらない。
 桜はとりあえず着替えだけでもしようと箪笥から新しい襦袢と袷を出した。藍や薄色が基調の地味なものを選ぶ。――周りは桜には紅や朱色が似合うからと何かと華美な色彩の衣を着せたがるのだが、桜自身はどちらかというと飾り気のない地味な色が好みなのだった。

 袷を脱いで、しゅるりと腰紐を解く。うつらうつらしつつ、何気なく胸元に視線を落として桜はひとつ眸を瞬かせた。
 まるで色素というものがない、どちらかというと不健康なくらいの白い肌に浮かび上がるようにして鬱血した痕があった。点々と赤く咲き綻ぶそれは花の痕のよう。衿に手をかけたまま桜は不思議そうにそれを指でなぞり、ぴくりと指先を引き攣らせた。眸をまたゆっくりと瞬かせる。
 瞬間、桜は。――真っ赤になった。頭のてっぺんから爪先まで、突如熱病十日目死期間近になる患者がごとく真っ赤っかになった。
 そしてぱた、と布団の上に前のめりに倒れる。昨晩の記憶を思い出したのである。

 実のところ、桜は“羞恥”という感情を持ったことがなかった。恐怖や緊張といった本能と密接に結びつくような感情はある。照れるとか面映いとかいう淡やかな、可愛らしい感情ならある。けれど、恥ずかしいはない。生まれてこの方、何かを恥らうとかそういうことを感じたことがないのである。むしろ何かを恥らうだけの自意識が育っていたら、桜は宮中でとっくに精神を壊していただろう。

 であるから、今胸を襲ったのは感情というより、もはや衝撃といったほうがいい。桜は布団に突っ伏したまま、あうとかひあとかいうか細い声を漏らした。視界がぐるぐると回り、意識すらおぼつかなくなる。


「ですから! 今説明した通りでございます。反対といったら反対なんですっ」


 鋭い声が外から飛んできたのはそのときだった。桜は危うく投げ出しかけた意識をなんとかこちら側に戻す。

「だから。わからないどうして隠す必要があるの」
「ですから。危険なんですよ」
「だから。何が」
「ですから。理由はさておき、危険なのだと申しているでしょう。ああ、本当に物分りの悪い方でございますね」

 少女と応酬をするもうひとりの声を聞きつけ、桜は再度固まった。ずんずんと大きくなる足音からするとこちらへ近づいてきている。だめ!、と桜は珍しく確固たる言葉を胸の中で叫んだ。今あのひとと顔を合わせるのはだめ。顔を合わせるのは嫌。半開きの障子戸を見やって、桜はどうしようとあたりを逃げ惑う。

 とにかくそのときの桜は混乱していた。障子戸を閉めるという単純な手はまったく思いつかず、反対側の襖から部屋を出るという手もまったく思いつかず、何故かくしゃっとなっていた布団を引っ張ってその中に丸まって隠れるという愚かに過ぎることをした。

「物分り悪いってねぇ。それどっち」
「もちろん兄さまです」
「いーえ、そこのあなたです、さっきから危険ですとしか言わないそこのあなたですっ」
「きゃあああ? ……もう髪引っ張んないでください兄さま、ったくあなたときたら……。あら、そこのお山は何です?」
「お山?」

 ぴたりと足音が止まる。
 おねがい。こっち来ないで、いなくなって。
 桜は敷布を握り締めて、あらん限りの祈りを神に捧げたが、あいにくとこの不信心な兄妹には通じなかったらしい。

「よく考えたらここ、桜さまのお部屋じゃないですか。あらあら桜さま。お山になってしまって具合でも悪いんですか?」

 桜は布団の中でぶんぶんと首を振る。

「まぁ! そんなに具合が……?」

 おかしい。逆に取られてしまった。桜は違うという意味をこめてぶぶんっともう一回大きくかぶりを振る。

「それは大変。すぐに瀬々木さまに診てもらわねば」

 何故どんどん逆のほうに話が進んでしまうのだ?

「でもまずは桜さま。お布団から出てきてくださいませ」

 布団を引っ張られ、やー!と桜は布団端を押さえた。軽い布団の引っ張り合いになる。

「あー…ねぇ柚、嫌がってるしもうやめたほうが、」

 という雪瀬の申し出は控えめすぎたし、遅すぎた。
 手の中を布が滑り抜けたはずみ、ぱっと布団が舞い上がり、そこにうずくまっていた桜はあらわにされる。ひぁと小さな悲鳴を上げ、桜は仰ぎ見た。雪瀬を。そして隠れた。柚葉の背に。
 普段の桜からは考えられないくらいすばやい動きであった。

「あらあら? 桜さま、どうなさったんです?」

 背中にぴったりと張りついて離れない少女と、対面の兄とを見比べ、柚葉は怪訝そうな顔をする。それからああ、と手を打った。

「――もしかして。喧嘩でもなさいました?」
「けんか……」
「イエ、別に」

 柚葉の後ろに隠れる桜を見やって雪瀬は何だかひどく複雑そうな表情をした。おずおずとうかがうように顔を出してから、目が合ってしまうと桜はまたさっと柚葉の背中に隠れる。
 雪瀬は頭痛でもしてきたのか、こめかみに手をやった。

「……やっぱり帰る、俺」
「帰るって兄さま。お話、全然終わってないじゃないですか!」
「疲れた。あとにしよ」

 面倒くさいとばかりに軽く手を振って出て行く雪瀬を見送り、桜はゆるゆる目を伏せる。柚葉の背から手を下ろした。

「桜さま。ねぇ本当に、どうかなさったんですか?」

 振り返って、柚葉は桜に目線を合わせるようにほんの少し腰をかがめる。
 桜は力なく首を振った。柚葉の背に隠れたのは桜なのだけども、なんだか雪瀬に見放されてしまったようでとたん悲しくなってしまったのだ。昨晩は離してと言っても離してくれなかったのに、とりあえず今の雪瀬にとって桜は“疲れる”し、“面倒”な存在らしい。
 考えていたら、むぅっとしてきた。

「あら?」

 と、こちらを心配そうにうかがっていた柚葉がふと濃茶の眸をすがめる。

「ね、桜さま、もしかして……」
「うん、……?」

 ――もしかして? 
 もしかして、何だろう。
 柚葉の言いたいことがわからず、桜がきょとんとしてしまうと、あちらは苦笑して緩く首を振った。――もしかして、何だったのかな。
 考えていたところできゅるるるとお腹が情けない音を立てた。

「……あ、」
「あぁ桜さま、朝餉がまだですものね」
「うん」

 たくさん眠ったからか、いつにない空腹感に襲われ、桜はとりあえず朝餉をもらいにいってしまおう、と決める。

「あ、待って、桜さま」

 きびすを返そうとすれば、背後からふわりと温かい羽織をかけられた。

「朝は冷えます。風邪を引いたら大変ですからね」

 柚葉は微笑み、桜の衿を丁寧に直して羽織を綺麗に重ねてくれる。布団の中でうずくまっていたせいであっちこっちへ跳ねていた髪を梳いて整えるようにすると、柚葉は「さ、いってらっしゃいませ」と桜の背を軽く押した。