四章、花嵐



 六、


「兄さま」

 ぺらりと草紙をめくると、その上からご立腹そうな妹の顔が見えた。
 草紙で隠れようとすれば、また脇から柚葉が顔を出す。左へやると、柚葉は右へ。右へやると左へ。上下左右すべてをやってから、柚葉ははぁっと嘆息した。

「もういいでしょう。どうして逃げるんですか」
「……にげてなんか…」

 すす、と草紙を動かそうとすると、その前に柚葉の手が伸びて取り上げられてしまう。つかんだ草紙をぺいっと部屋の奥へ投げ、柚葉は濡れ縁に寝転がっていた雪瀬の上に乗りかかるようにした。はたから見れば、色めかしい情事を想像させる格好だが、この兄妹に限ってそれは皆無だ。むしろだめ息子の尻を叩きに来た鬼母神の図である。

「兄さま。こんなことをお聞きするのはどうかと思いますが、でもこの際ですから率直にお聞きしますけれど、あのね。もしかして一昨日の晩桜さまに、」
「何にもしてません」
「嘘です、何もしてないひとがそんな顔しますか! ねぇどこまでです? どこまでやっちゃったんです? 女の子を疵物に……と桜さまに疵物はおかしいですけどやっぱり精神的には疵物なわけですよ、ねぇどうなんです、最後までやっちゃったんですか!?」
「やだ、言―わーなーいーっ、第一そんなふしだらなこと言うの俺の妹じゃないっ」
「ふしだらはどちらですか! これだから男というのは汚らわしい!」

 ぐいぐいと髪の毛を引っ張られ、雪瀬はあがきまわった挙句、ぺしんと柚葉の額を手のひらで叩いた。

「いたっ。兄さま、私を疵物にするおつもりですか」
「それ疵物違い。……何、その目」
「疑いの眼差しです」
「しつこい。何もしてないってば」
「嘘です。痕、残ってましたもの。ここ」

 首筋を指で指し示され、雪瀬は視線をよそに逃がした。

「ちょこっとしかしてないってば」
「ほらみなさい、やっぱり嘘をついてたじゃありませんか! ……何です、その目」
「お節介な妹を持って迷惑な兄の眼差し」
「奇遇ですね。私もあなたのような方を兄に持ってとても面倒に思っておりました」
「あぁ、ソーシソーアイでしたか」
「その通りでございます」

 雪瀬と柚葉は口ではお互い一切引かない。ここに颯音がいればうまくとりなすところなのだが、あいにくと長兄は不在であったのでふたりでしばし睨みあいをきかせるはめになった。

「……まったく」

 結局先に譲歩したのは柚葉である。ほうと小さくため息をこぼすと、雪瀬の身体の上からどいて板敷きに浅く腰掛ける。
 
「ねぇ本当に。女の子は大切にしてくださいませね。桜さまは他の方と少し勝手が違いますし……」
「子供だからね」
「子供は兄さまですよ」

 ひとのことを笑ったつもりがさっくり返り討ちにあってしまい、雪瀬は一時声を失してから仕方なく口をつぐんだ。その点に関しては自覚がなきにしもあらずなので何とも否定しがたい。でも十三歳の妹に言われるってどうなのか。
 胸に居残った不満をまぎらわせるようにぐりぐりと眉間のあたりを指で押し、雪瀬は草紙をまた顔の上に載せた。
 目を閉じてしばらくすると、冬の陽射しが心地よいまどろみに誘う。

「お疲れですか」

 かさりと衣擦れの音がして、柚葉が尋ねてきた。

「お疲れです」
「お仕事、あるならお手伝いしますよ」
「いいよ。それより柚、俺梅こぶ茶飲みたい」
「あら、それなら桜さまに淹れてもらえばいいじゃないですか」
「……なんで今そういうこと言うかなぁ」
「それでおとといはごめんねって謝ればいいじゃないですか」
「――……」

 雪瀬はおもむろに寝返りを打って柚葉に背を向けた。

「兄さまって本当、素直じゃないですよねぇ……」

 なんでこんな風に育っちゃったんでしょう、と今度は背中のほうに容赦のない嫌味攻撃がかかる。ああもうこいつ、俺に恨みでもあるのか。

「雪瀬さま」

 と、襖の外から男の呼び声がした。とりあえず柚葉から逃れたい一心で、どうぞ、とすぐさま返事を返せば、襖が開いてまだ年若い青年が入ってくる。見たことがない顔だが、最近入った衛兵か家人だろうか。

「あ、よかった。柚葉さまもいらした」

 青年は身を起こす雪瀬と、その隣に座る柚葉を見取って、にっこり微笑む。

「何かあったの?」
「ええ。実は、――葛ヶ原北の海岸で身元不明の水死体が」
「すい……、」
 
 さっと身体から体温が抜け落ちた気がした。『水死体』で連想する男が雪瀬にはひとりしかいない。我知らず表情が強張った。

「兄さま?」

 あからさまなこちらの変化に気付いて、柚葉は気遣わしげな顔をする。

「……いや。それで?」
「いえ、それだけです。私は五條さまからその旨をお伝えするよう仰せつかっただけなので」
「そう」

 雪瀬は思案げに目を伏せ、それから衣桁にかかっていた上着を取る。

「兄さま、検分へ行かれるのですか?」
「うん。柚葉は?」
「そうですね……。私も参ります」

 柚葉はうなずき、青年に会釈をして一足先に部屋を出て行く。上着を羽織ながら雪瀬も少女を追った。だが、その足取りはどうにも重い。
 ――水死体。
 やはり真砂、だろうか。
 雪瀬が血まみれの筆飾りを発見したのは葛ヶ原の内地を出て少しいったところだったが、死体が海に落ち、水に運ばれたのなら北の海岸に流れ着いてもおかしくはない。
 そこまで考えて、雪瀬はつと足を止める。脳裏に地に倒れる凪の亡骸がよぎった。血の臭い。虚ろな眼窩。動かない手。――吐き気まじりの眩暈がしてくる。

「兄さま?」
「……あぁ、うん」

 雪瀬は残像を追い払うように首を振った。襖を閉めようと後ろへ手を彷徨わせれば、しかしそれをおもむろにつかまれる。そのまま握手でもするみたいにぎゅうっと握り締められて、雪瀬は目を瞬かせた。

「……何?」

 胡乱げな顔で背後を振り返る。

「イエ。ただ、こうして欲しいのかなって思ったんですけど、違いました?」

 初対面の人間に手を握られながら至極真面目な顔で言われ、雪瀬は若干たじろいだ。返答に窮して、自分より身の丈が高い青年を仰ぐようにして見やる。

「ほら、だって今にも泣きそうな顔してらっしゃるじゃないですか」
「……泣きそうって」
「水死体ってぶくぶくに顔膨らんで気持ち悪いですもんね。怖くもなりますよ。普通です。なんなら私、代わりに参りましょうか」
「いや、いい、けど。……有難う」

 理由は少し違ったのだが、どうやらこちらの身を案じてくれていたらしいと知って、雪瀬はそう言い添える。いいえーと微笑み、青年は手を離した。

「新しいひと? 名前なんていうの?」
「白川です。以後お見知りおきを、雪瀬さま」

 珍しい紅鳶の眸を弓なりに細めて、青年は恭しく頭を下げた。




 要領がよい、と。雪瀬はよくひとにたとえられる。
 思い返してみると確かに昔から物事の呑み込みは早いほうだった。真砂がつらつらと落書きをして遊んでいる横で早々に手習いは終えてしまったし、兄が通い始めた道場にひょこひょこついていって、見よう見まねで弓を構え、なんとなく矢を放ったらなんとなく的に当たったのでああもうこれはいいや、と納得して一日のうちに弓をやめてしまったということもあった。
 何でもそこそこにできてしまうので、逆にそのそこそこで満足してしまう。自分のよくない癖だ。

 しかし自分というのは言うほどに器用ではないのではないかと近頃雪瀬は己を振り返りながら思うわけである。逃げ出したくなるときほど、引き返し方がわからない。気持ちが引けているときほど、大見得を切ってさも自分は何事にも動じないかのように振舞ってしまう。それでいて、前に踏み出したいときは勢い余って後ろに二歩三歩ひいてしまうだから、単に天邪鬼なだけなのかもしれない。



 雪瀬は今むしろの上に寝かせられた死体と対峙している。亡骸の上にかけられたむしろはひとの形に盛り上がり、端から血の気を失った腕がだらんと垂れていた。その場にかがみこみ、雪瀬はむしろの先を指でつまむ。ほんの少し躊躇ってから、次の瞬間一息にむしろをめくった。

「……、」

 つめていた息がこぼれる。雪瀬は危うくその場に尻餅をつきそうになった。力が抜けてしまったのだ。
 むしろに横たわる男の髪の色は鳶色だった。……濃茶ではなかった。死体には悪いのだが、ほっと胸を撫で下ろしてしまってから、何やら真砂ごときに一喜一憂している自分に気付いて雪瀬は少し首を傾げた。
 あんな奴でも死んだら死んだでやっぱり悲しくなるのだろうか。泣きそうになったりするんだろうか。

「兄さま?」

 袖を引かれてふと我に返る。

「……あぁ、ごめん。何?」
「いえ、今薫衣さまが」
「――悪い。遅くなった」

 背後から蹄の音が聞こえたかと思うと、颯爽と地面に降り立つ少女の姿が見えた。むしろの前でかがみこむ雪瀬と柚葉とを見つけ、薫衣は迷わずこちらへ向かってくる。

「この死体……」
「ん。別の場所で女も発見された。心中だってさ」
「そ、っか」
「大丈夫? なんかお前顔色悪くない? 水死体苦手?」

 苦手とか得意とかいう問題じゃないとすごく思うのだが、結局ただ、いや、とだけ雪瀬が首を振ると、薫衣はそっかとこちらの額に伸ばしかけた手で軽く頭を叩いた。

「薫ちゃん。あのさ」
 
 頭に置かれた手の下でほんの少しだけ考えて、雪瀬は小さく息を吐く。

「真砂の、ことなんだけど」

 ちょうどいい機会だ。薫衣にも話しておいたほうがいい。真砂は裏切り者ではないこと、おそらく生きてはいないんじゃないかということ。雪瀬たちはことの真相を明らかにして、裏切り者を探さなければならないのだ。

「あいつね――、」
「兄さま」

 もがっと口を塞がれて、雪瀬はひとつ目を瞬かせた。何だ、何事だ? やめろとばかりに口を覆う手を振り払おうとするが、柚葉は雪瀬の背中にひしりと抱きつき、動こうとしない。

「――、んん、」

 というか、息苦しい。息できないから早く手とって。
 はーなーせーとする雪瀬と、はーなーしーまーせーんーとする柚葉でしばし熾烈な攻防を繰り広げていると、薫衣が呆れた様子で「何してんのお前ら」と言った。

「兄妹喧嘩ならよそでやってくれない。私、死体の処理あるから」

 待て待て待て。今すごく大切な話をしようとしているのだ。薫ちゃん待った、と雪瀬は目で訴えかけたが、あいにくと思いは通じなかったらしい。薫衣はじゃあなと手を振って衛兵のもとへ戻っていった。