四章、花嵐
七、
「ぷは」
「あぁよかった……」
「全然よくない」
ようやく柚葉の手から解放されると、雪瀬は珍しくむっとした表情をあらわに背中に引っ付いていた少女を睨めつけた。
「柚。何で俺の邪魔するわけ」
「ですから、さっきも申しましたでしょう? 私は真砂さまの件をみなにお話しすることは反対なのです」
そういえば、さっきもそのことでふたりでもめたんだった。
雪瀬は今朝方、血液の付着した真砂の筆飾りと、夜の銃声、それから銃声の夜から真砂が一度も帰っていないこと、沙羅の話などを交えて、真砂は裏切り者ではなく、さらにはすでにあちら側に消されてしまったのではないかという見解を柚葉に語った。
「柚、真砂は内通してなかったんだよ。意味、わかってる?」
「わかります。真砂さまが内通者でないということはこの葛ヶ原には別に内通者がいるということ。おそらくは今も隠れて私たちをうかがっている」
「それなら、」
「だからこそですよ、兄さま」
薫衣たちがまだ近くにいる手前お互い囁き声ではあったが、柚葉は若干語調を強めて身を乗り出す。額と額がくっつきあうくらい近くなった。
「いいですか、真砂さまは殺されたんですよ? おそらくは真実に近い場所に踏み込んでしまったからです。つまりあちらは殺傷も辞さない覚悟ということ。――兄さま。真砂さまの死の真相を知っているのは今葛ヶ原で私たちふたりだけ。内通者の存在に気付いているのもふたりだけです。裏返して言うのなら、このことをあちら側が勘付いたら私たちも標的にされるということ」
「だけど。だからって放っておくわけにはいかない」
「ええ、もちろんですとも。ご安心くださいませ兄さま。私、実は内通者にはいくらか見当がついているのですよ」
ふふっと柚葉は子供が自慢でもするように微笑む。
雪瀬は一瞬言葉を失った。
「……馬鹿か」
「ばっ!?」
思わずといった様子で柚葉は顔をしかめる。
「ええ、ええ、馬鹿です、馬鹿ですともよ。そんなの自慢にも何にもならない。――誰? 教えて」
雪瀬はいつものように微笑ったりはせずひどく真面目な表情のまま尋ねた。
そう、自慢になどなるわけがない。柚葉が見当をつけているということは、この葛ヶ原で今一番危ないのは柚葉ということになるではないか。
「嫌です」
だが、柚葉の答えはがんとしたものだった。
「言いたくありません」
「――柚」
雪瀬はたしなめるような声でもう一度妹の名を呼ぶ。柚葉は叱られる前の子供みたいにきゅっと目をつむり、嫌ですもん、と蚊の鳴くような声で呟いた。
そこでそんな気弱そうな表情を使うのは卑怯というものだ。
雪瀬は軽く腰を浮かせて、縦皺のできたそこへ人差し指をぐりぐりと押し付ける。
「痛っ。痛いです兄さま」
「だって痛くなるようにやってるんだもん。――皺の理由、何?」
「言いたくありません。第一なんですかその言い分は……」
言葉尻はきついのに、声はずいぶん頼りない。雪瀬は息をつき、一度指を離してから極力冷静になるようつとめて柚葉と目を合わせた。
「柚。言って。俺がどうにかするから」
「お言葉ですが、兄さま。あなたにどうにかできるとは思えません」
そ、そこで断言をするか。
血が繋がっていることを抜きにしてもひどい物言いである。雪瀬はずきずき疼いてきたこめかみに手をやった。
「……じゃあ善処、するから」
「ならば手出しは無用です」
――文字通り一刀両断である。
「あのねぇ柚、」
雪瀬が呆れた嘆息をこぼすと、柚葉は「案ずるには及びませんから」と前へ手を突き出した。
「いえ、何もあなたさまのお気持ちを無下にするという意味ではなく。もちろん柚は兄さまのお気持ち自体はありがたく思っておりますからね。なんなら、どうぞ面と向かって私が愛おしくてたまらない私の身が心配でたまらぬと言ってくだすっても結構ですよ。どんと受け止めてあげます」
待て。話が微妙にずれている。
「私だって兄さまは大好きです」
違う違う。ここは喜ぶところではない。
「何せ私のような者でも兄さまを見ていると、毛玉を喉に詰まらせ喘ぐ猫を前にしたときのような、深い慈愛で胸がいっぱいになりますから」
「柚。いい加減にしないと…」
「ですから、ここは理性的にどちらが適任かを考えましょう。私は刀は扱えませんが、風術がある。それにあなたのように甘くはない。あと二三、確証がとれましたら、内通者の首など公衆の面前で斬って差し上げますよ。あなたはそれをただ見ていればよろしい」
「――柚」
雪瀬は眉間に微か憂色を載せる。
この妹は確かに雪瀬に比べて手ぬるくはない。加えて揺るぎがなく、性質は冷徹だ。だが、激しい。それが雪瀬に一抹の不安を呼んだ。ある種の激烈さは大事をなすには必要であるが、扱いを間違えれば、時に己を焼き滅ぼす炎となる。
「大丈夫ですよ」
柚葉は微笑み、そう繰り返した。
*
だが嘘吐き一族妹の『大丈夫』などという言葉を信じられるわけがない。
ただ柚葉が口を割らない以上、言い合いを続けても不毛と判断して、雪瀬はその場は一端引き下がることにした。こちらはこちらで勝手に調べさせてもらいますから、と心に決めながらである。
「そこのお騒がせ水死体」
しょぼくれた様子で柳の樹の下に立っていた青年の肩を叩くと、雪瀬は青年が驚いている隙にあらかじめ拾っておいた家ねずみの死骸に青年の霊を入れた。
「ぬあっ、な、何を……!?」
「お前の名前は鳶ね。髪がとび色だったから、“とび”」
「と、とびってあの、俺、」
「まぁまぁ。まぁまぁ。――不満はごもっとも、驚いているのもわからなくもない。ただこれはいうならば、日雇いのお仕事みたいなもので。嫌なら断ってくれても構わないし、何なら途中でやめてくれたっていい」
「はぁ……」
「だからとどのつまりが報酬に毎朝油揚げをあげるから、俺の手伝いしてくれない?という話なんだけど」
「まったく話が読めません」
ちゅうとねずみは鳴いて抗議する。
結構、と雪瀬は笑って言った。
「しばらくの間、俺の妹を見張ってくれればそれでいい。もしも何かあったら即俺に報告。いい? それで油揚げ二枚だ」
「あぶらあげ……」
つぶらな眸をきらきらさせてねずみがじゅるりとよだれを垂らす。
ねずみが小さな手を上げた。雪瀬は指を差し出す。軽く握手。
――これにて対柚葉協定が結ばれた。
教えられたとおりに柚葉の部屋へ走っていくねずみの砂色の背中を見送ってから、やれやれと雪瀬は腰を上げる。
透一が今年一年の収支をまとめたと言っていたから、それを見に行かねばならない。思えば、すでに一年の終わり――終月(しまいづき)に入ったのであった。今年は暖冬なのか、雪はまだ降らない。
雪瀬は丹前の代わりに生地の厚い羽織をはおって、下駄を履いた。日がなくなってきたせいでより寒さを増してきた空気にかじかむ手を組み合わせ、白い息を吐きながら広大な屋敷の敷地を歩いていく。ふわぁと雪瀬は大きなあくびをした。眠い。実はここ二日、忙しくてろくに眠っていないのだ。
まずい立ったまま寝そう、と思いながら目をこすっていると、変なものが視界によぎった。んん?と眸をもう一度こする。
やっぱりいる。残照を背後に受けながらちょこちょこと庭を動き回る小さな影。そいつは重そうな手桶をよろよろしながら運んで地面に置くと、柄杓で水をすくって庭にまき始めた。
薄藍の着物にかかった長い腰丈ほどの黒髪を眺めて、雪瀬は一瞬次の一歩を躊躇する。躊躇うどころか、条件反射ですでに半身を返しかけていた。
本当に、何故、こんなときに限って。
だけども、思えば雪瀬が逃げる道理はないのだし、目的地である座敷に行くには彼女の庭の前を横切るのが最短であるのは明白だったので、仕方なく少しだけ歩調を早めに彼女の前を通過する。
こちらの存在に気づいたのか、桜はふと顔を上げた。
視線が痛い。早く通り過ぎてしまいたいなぁと思いながら歩いていると、彼女は緋色の眸をみるみる驚きの色に染め、思わずといった様子で半身を翻したところでそばにあった手桶に足をとられ――こけた。
からに近かった手桶が派手な音を立てる。
ええっ? 瞬く間に視界から消えた少女を雪瀬は戸惑いがちに眺めやった。桜は茂みに顔を突っ込んだまま微動だにしない。振り返りもしない。なんだか放っておいてほしいという空気がそこはかとなく漂っていた。やっぱりここは見なかったふりをして立ち去ったほうがいいんだろうか。
しばし悩んでみてから、さりとて倒れている少女をほったらかすことはさすがにできず、雪瀬は仕方なく桜のかたわらにかがみこんだ。
「……大丈夫?」
「ん、」
差し伸べようとした手から逃れるように桜は自分で身を起こして、顔をそむけた。
「だ、……」
桜は一緒に転がって水をぶちまけてしまった桶を見やって少し落胆してから、吐息ともつかぬか細い声を漏らして、何かを口にしようとする。
「……う、ぶ……」
つたないを通り越して言葉になってない。
それは本人も十分理解しているらしく、結局ぽつりと二音を口にしたきり、沈黙を耐えるように目を伏せて俯いた。華奢な肩口から黒髪がこぼれて落ちる。はずみ、首筋にうっすらと残る赤い痕を見つけて雪瀬は眸をすがめた。染みひとつない肌理細やかな肌であるからそれはよりいっそう際立って見えてしまう。柚葉に叱られるのも道理で、なんだか妙に扇情的だ。
少女の首筋に指を這わせながら、ああせっかくならもう少し見えにくいところに付ければよかったと雪瀬はなんとなく思った。
「……そ、」
「ソ?」
「い」
「い?」
桜がブツ切れの言葉を発するので、いったい何が言いたいんだろうと雪瀬は少女の顔を覗き込む。目が合うと、桜は緋色の眸を揺らして顔を背けようとし、ぎゅっと目を瞑った。身体は小刻みに震え、眦にうっすら涙が滲む。はたから見れば、恐ろしい化け物にとって食われそうになりでもしているみたいな怖がりようだった。
雪瀬は地味に傷つく。傷つきはしたのが、また泣かれて一昨日の二の舞を踏みたくはなかったので、仕方なく手を下ろし、彼女の肩にかかっていた羽織を引きやって首筋を隠すと、腹いせまじりにぴんと少女の無防備な額を指で弾いた。
ひぁ、と小さな悲鳴を上げる少女をよそに、転がっていた手桶を置き直してきびすを返す。
枝折戸が軽い音を立てて閉められた。じぃんと傷む額を押さえて桜は目をぱちくりさせる。おずおず首に手をあてがい、それを左胸へと移す。そしてさながら夏の日照りに眩暈を起こしたがごとくふらりとその場にへたりこんだ。
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