四章、花嵐
八、
ううう、と呻く。呻いたのは自分でも自分を持て余してしまったからである。いわば、――そういわば、心の臓の叫びといってよい。桜の臓腑はおおいに叫んでいる。ううう。ううう。この心臓をぎゅうっと鷲づかみにされるような痛みは何なんだ。
イタイ、と胸を押さえながら桜はとぼとぼと屋敷の内廊下を歩く。
雪瀬に指で弾かれたのは額であるのに、痛むのは胸のほうなのだからひとの身体ってよくわからない。左胸をぽむぽむと叩き、徐々に収まりつつある動悸について考えあぐねていると、いつの間にか景色が変わり、廊下は行き止まりになっていた。
「……?」
あたりを見回して、桜は眉をひそめる。
廊下や襖の配置に見覚えがない。自室に戻ろうとしていたはずなのに、別のことに気を取られているうちにてんで見当違いの場所に入り込んでしまっていたようだ。
宗家の屋敷というのはとても広い。ひとりで歩いていると迷子になってしまうということもしばしばあった。これまでも雪隠に行くつもりが何故か颯音の寝室にたどりついてしまったり、水を飲みに行くつもりが書庫へたどりついてしまったりと迷子体験を重ねてきた桜だったが、しかし記憶が正しければ、このあたりにはまだ足を踏み入れたことがないはずだ。
少し惑うてから足を返し、振り返った先に広がる景色の見覚えのなさにまたたじろぐ。どうしよう、誰か知っているひと、出てきてくれないかな。
「――あ」
しかし今日の桜はついていた。
寸秒と間をおかず、桜の前方をひとりの少女が横切ったのである。
「ゆず……、」
ほっとして声をかけようとしたものの、少女の横顔に浮かぶ表情の険しさにためらった。その間にも柚葉は角を曲がり、屋敷のさらに奥へと消えていってしまう。どこへ行くんだろう。心細さも手伝い、桜はとことこと柚葉の背中を追い始めた。
角を曲がった先にあったのは、左右に並ぶ大部屋だった。
廊下に沿って五、六人は寝泊りできそうな部屋がいくつも並んでいる。半開きになった障子戸から敷かれたままになっている布団やいびきをかいて寝ている男が見えたので、家人や住み込みで働いている衛兵たちが使っている部屋なんじゃないかと桜は推測した。
だけども、何故こんな場所に柚葉が来たのだろうか。
何か用でもあるのかなぁ、と考えている最中、ふと眠っている男の中に顔見知りの青年――無名を見つけた。桜はしぱしぱと目を瞬かせる。二、三日で毬街に帰ると言っていたけれど、まだ滞在してたんだ。どういう心変わりなのか不思議には思ったが、とにかくこれで帰り道を教えてもらえる。桜は胸を撫で下ろした。柚葉は何だか忙しそうであったからどうしようかと思っていたのだ。
「無名」
桜は眠る男のかたわらに座り、硬そうな黒髪の毛をついついと引いてみた。
起きない。
もう一度ついついと引いてみる。
ううんと不機嫌そうな声がして蚊を追い払うがごとく手でしっしと振られた。
起きてくれない。
――たよりにならない。無名は頼りにならない。
むぅと頭を抱え、桜は仕方なく外に出る。
その頃には柚葉はかなり奥まった場所まで進んでいた。おもむろにひとつの部屋の前で足が止まり、さっと左右を見回してから部屋の中に入る。部屋の主に入れてもらったというよりは明らかに忍び込んだという風だった。いいのだろうか。
あまりいいわけないような気もしつつ、桜はとっさに隠れた柱から顔を出してそちらへ向かった。柚葉の入った部屋の外には木の札がかけられており、かざしま、しきい、あかつき、と名がある。
ということはここは暁の部屋なのだ。
でも暁の部屋で柚葉は何をやっているんだろう。
――声、かけてみようかな。
考え、障子戸に手を伸ばそうとする。
だがそれを遮るように、ちゅう、と足元で何かが鳴いた。見れば小さな砂色のねずみがじっとこちらを見上げている。
ちゅう、と首を横に振るねずみに、ちゅう?と桜は首を傾けた。ちゅう、とねずみが鳴き、ちゅう、と桜が答える。お互いの間に奇妙な親近感が生まれた。
たかたかと近寄ってくるねずみにそっと手を差し伸べようとする。
そのとき背後で微かな足音が立った。
遠くからこちらに向かってくる人影。暁だ。
桜はねずみに手を差し伸べたまま固まる。
これは――、ううん、どういう状況なのだろう。
暁の部屋にたぶん柚葉は忍び込んでいて、そこへ当の本人である暁が今まさに戻ってこようとしている。まずいんじゃないだろうか。どちらにとってまずいのかいまいち判然としないまま、桜はひとまず中にいる柚葉にそのことを知らせようかと考える。だけども、柚葉がそれを知ったところで暁がまもなくこちらにたどりつくのは明らかで。ますます状況が混乱するに違いない。
ねずみが心配そうに桜の指先に鼻面を押し付けてきた。
「しぃ」
桜はねずみをよいしょと抱え上げて遠いところへ置くと、返す足で暁のほうへと向かっていく。別に柚葉を庇い立てするわけではないのだけど、暁は引き止めておいたほうがいいと思ったのだ。
「……あかつき、」
桜が駆け寄ると、青年はおやといった顔をした。
「桜さま。こんなところで、何を?」
こちらに目線をあわせるように腰をかがめながら問われる。
その青い眸に一瞬冷たい色がよぎった気がして、桜は言葉に詰まった。はっきりとした正体はつかめないものの、何かを疑われているような気がした。
「……道に、迷った」
嘘は言っていない。
「ほう」
「……帰り方、わかる?」
そういう風に言えば、この場から離れられるんじゃないかとなけなしの頭を総動員して考える。暁はにっこり笑って、桜の頭に手を置いた。
「ええ、わかりますとも」
「ほんと?」
「案内して差し上げましょう」
優しく撫ぜられ、桜はほっと笑みを綻ばせた。
そのまま手を取って歩き出そうとするも、暁はふと何か気を引かれた様子で桜の頭越しに、今は柚葉のいる部屋のほうへと探るような視線を向ける。桜は慌てて青年の手を引いた。早く行こう、という意味である。
「あぁ、申し訳ありません。隅にねずみがいたので」
「……つかまえる?」
「そうですね。あとで毒団子を置いておきませんと」
温厚そうな顔でさらりと怖いことを言う。
早くお逃げ、と桜は胸のうちで祈った。
「それにしても桜さま」
暁は繋いだ手を振って、こちらを振り返る。
廊下に置き去られたねずみに目をやっていた桜ははっとして暁を仰いだ。
「……うん?」
「先ほどから私の部屋の中、ずいぶんと気にしておられるようですけど、何故ですか?」
「――……」
何故、どうして気付いたのか。桜は息を呑む。
その表情を見取って、「やっぱり」と暁が冷笑した。しまった。今のは平然としているべき、表情を変えるべきじゃなかったのだ。
「何を隠しておられます?」
「……べつに、何も」
「嘘はつかないほうがよろしいですよ」
「嘘じゃ、ない」
「そうですか」
頑なに言い張れば、暁はふぅと細く息をついた。
「おかしな方だ。素直に忍び込んだといえばいいものをこうするほうがお好みか」
「ひゃ」
突然後ろ髪を力任せに引っ張られたかと思うと、身体を引きずって行かれ、空き部屋のひとつに投げ込まれる。ぶざまに尻餅をつき、桜は顔をしかめて後ろ手に戸を閉める青年を仰いだ。その顔に表情はない。――とても怒っているのだと、理解する。よくわからないが、桜の言動か行動がこの青年の逆鱗に触れてしまったらしい。
ぽかんとして見つめることしかできないでいる桜をよそに、暁は表情を変えず畳に膝をついた。
「私の部屋で、何をやっていたのです?」
静かな声で問われ、桜はどうやら暁が柚葉ではなく桜が部屋に忍び込んだのだと勘違いしているらしいことに気付いた。
ふるりと首を振ろうとする。だが、その所作を遮るように顎をつかまれ、目を合わせさせられた。
「銃を探そうとしていた? それとも銃弾? それらを見つけ出して、いかがするつもりです? 雪瀬さまに報告でもしますか。長老会へと私を突き出しますか」
いったい何の話をしているのだ? 銃なら桜の部屋の文机の引き出しの中にあるし、銃弾だってそこに入っている。何故それを暁の部屋で探す必要があるのだろうか。そして桜がいったい雪瀬に何を言い付けるというのだろう。
問われている意味がわからず、桜はもう一度首を振ろうとする。けれど、がっちり暁に顎をつかまれているせいで身じろぎできない。痛い。離して、という意味をこめて暁の腕をとんと叩けば、ほんの少しだけ力を緩められた。
「素直にお言いなさい。痛い思いをするのは嫌でしょう」
それはそうだ。痛いのは嫌に決まっている。
しかし桜が口を引き結び、言葉を口にしかねていると、おもむろに右手首をつかみとられ、背後の壁に押し付けられた。ちょうど先日雪瀬につかまれたところと同じだったので思いのほか痛む。
「……らない。知らない」
うっすら眦に生理的な涙が滲んできたが、それでも半ば意地になって桜は首を振る。だって桜は暁の部屋に忍び込んでいないし、また今さら柚葉のことを言うのも告げ口でもするようで嫌だったのだ。
桜が答えない限り、暁は力を緩めてくれない。ぎりぎりと手首をひねり上げられ、もしかしたらこのまま折られてしまうんじゃないかとすら思った。ぞっと冷たいものが身体を駆け抜ける。手首くらいじゃ死なないとわかっていても、痛いのは怖い。痛くされるのは嫌だ。頑なになっていた心はたやすく恐怖に負け、もうどちらでもいいから自分が忍び込んだことにしてしまおうかとも思った。
「……じ、う、しらない。しらない……っ」
桜は空いているほうの手で暁の腕を引き離そうともがく。
言ってみてから、何故よりにもよって考えたことと逆のことを言ってしまったのかと心底悔いた。でももういい。桜はじたばたとあがく。
忌々しげに舌打ちがされたかと思うと、手首に力をこめられ、ぎしりと嫌な音が軋んだ。身体がびくんと強張る。
そのとき、暁の背後の襖が開け放たれた。
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