四章、花嵐
九、
「お取り込み中―……でした?」
開け放たれた襖の先に立っていたのはひとりの青年だった。彼は壁を背にぺたんと座り込んでいる桜とその手首をつかんで覆いかぶさるようにしている暁とを交互に見比べ、すぐにひとつの結論に達したらしい。
「でしたね。お邪魔しました。――あぁどうかわたしのことはお気になさらず思う存分続きを」
へらりと笑って襖を閉める。
思いも寄らない闖入者に桜と暁は開け放たれたときと同じ体勢のまましばらく固まった。暁は舌打ちし、問いただす気も失せたという様子で桜の手を離す。
と同時にまた襖が開き、いけないそうだったそうだった、と青年がひょこっと顔を出す。暁は面食らった様子でたたらを踏んだ。先ほどからわざと仕掛けているのではないかと思えるくらいの絶妙の間である。
「暁さん、ですよね。お呼びでしたよ、薫衣さまが」
「ああ……、それはどうも」
調子を乱されて戸惑っているのか、暁の返事はそっけない。軽く頭を下げ、ちらりと牽制するように桜を一瞥してから彼は部屋を出て行った。
畳の上にへたりこんだまま、桜はそれを見送る。ひとまず一難去ったのだとわかった。けれど力が抜けて四肢が動かない。指先が冷たい。体温が根こそぎ奪われてしまったかのようだった。
「ふふふお嬢さん、腰が抜けてしまったの?」
柔らかな、丸く包み込むような笑い声が耳をくすぐり、桜はのろのろと顔を上げた。すぐかたわらにさっきの青年が跪いている。暁を行かせたあと、彼はこちらのほうへと残ったらしい。
「顔が真っ青だ。貧血でも起こされたかな」
青年は桜の額に手を当てて顔色をうかがい、うんうんとうなずく。桜は焦点の定まりきらない眸で茫洋と青年を見つめ返した。苦笑する気配があり、こちらの腰へと両手を添えてひょいと猫でも扱うみたいに抱き上げられる。
「……っひゃ、」
身体を持ち上げられたとたん、散らばっていた意識・感覚が急速に収束し、強い眩暈がした。光に目がくらんで視界が閉ざされ、きぃんと鋭い耳鳴りが起こる。
桜は両耳を手で押さえた。こめかみを疼くそれがひどくなるにつれ、何か、雑音のようなものが途切れ途切れに混じり始めた。寄せては返す、潮騒のような。
――まるで水の中にいるみたいだ。
そう思った瞬間、下方から足をつかまれ、ずぶずぶと沈められていくかのような錯覚に囚われる。おもい。身体がおもい。
桜は泳げない。水の中じゃ溺れてしまう。
ぱたぱたと手足をばたつかせ、桜は新鮮な空気を求めて何度も息を吸い込む。
だめ。空気が胸に届かない。
冷たい海水がすぐ近くに迫ってきた気がした。暗い、黒い、闇と同じ色をした海水である。爪先を浸し、水は足首へ、膝裏へ腿へ腹へ心臓へとせり上がってくる。冷たい。身体が凍って、死んでしまう、
「はいはい、大丈夫。ここは陸の上ですよー。海じゃないですよー」
「……いや、陸、ちが、うみ……、」
「違わないです」
「い、いやっ、」
青年が身じろぎしたので桜はぎゅうっとその首にしがみついた。
今手を離されたら、まっさかさまに海へと落ちてしまう。
「嘘じゃないですよ。ほら」
「い――……っ」
いや、と叫びかけたところで。
ぺた、と足が畳につく。
慣れきった藺草の、少しささくれ立った感触に桜は目をぱちくりとさせた。
「たたみ、だ……」
「ほらね。言ったとおりでしょう」
「うん」
「おとなしくなったね」
だって畳だったんだもの。
おかしいな、と桜は足元を二三度慎重に踏んでみた。――やっぱり畳だ。くねり曲がって桜を飲み込んだりはしない。
「確か雪瀬さまのところのお嬢さんだね。連れて行って差し上げる」
「……、」
今雪瀬のところに連れて行かれるのは嫌だ。そう思って首を振ろうとしたが、きちんと動作になった感覚がなかった。飛沫を上げて迫る波音は消えてなくなったものの、未だ頭の中は内側から揺さぶられでもしているようで、正直、身じろぎするだけでお腹のなかのものが逆流でもしてしまいそうなのだ。
桜は仕方なく自分を抱き直した青年の肩に頬をくっつけ、眸を閉じる。
彼は軽く桜の背を叩いて歩き出した。
「――……あ、」
その仕草にふと懐かしいものを感じて、桜はうっすら目を開く。
肩越しにいつもよりはぐんと遠くに感じる廊下を眺める。
そんなことが以前にもあった。
まだ秋も浅い、ちょうど雪瀬が家で怪我の療養していたときのことだ。あのとき、お見舞いに来てくれた真砂もこんな風に有無を言わさず桜をひょいと抱え上げて部屋まで運んで行ってくれた、……ような気がする。
――わからない。真砂の記憶なんてどれも定かじゃないのだ。
けれど次の瞬間にはおろしておろしてと騒ぐ自分の声が容易に蘇る。
ばたばたと暴れる自分に、うるさい、静かにしましょうね、というようなことを彼は笑顔で言った。晴れ晴れとしているぶんだけいっそ身の危険を感じる笑顔である。
しかしそう言いながらも真砂が桜を本当に見放したことは一度だってないのだ。そう、雪瀬に木鈴がもらえず途方に暮れていたときも、毬街に連れて行ってくれた。
――真砂は強引で、すごくうるさいけど、嫌いじゃない。
時にこちらの胸を抉るような言葉を平気で口にするけれど、怖くはない。ちゃんと優しいの、わかるから。
そういえば真砂はどうしたんだろうな、と桜はぼんやりと思った。病気だって聞いて分家に何度も行ってみたけど、会えなかった。大丈夫、なのかな。会いたいな。簪、壊しちゃったけれど、また意地の悪い皮肉り方をされるかな。毬街に、また遊びに行きたいなぁ……。
*
新入りの衛兵――と桜は勝手に決め付けているのだが、とにかく新入りらしき見覚えのない青年はしかし驚くほど迷いのない足取りで広い屋敷をすいすいと進んでいく。しばらくすると体調が落ち着いてきたので、桜は青年に頼んで床に下ろしてもらった。
「何か精神的なものだったのかな」
いまいちわからず、桜はううんと首をひねる。
心なしふらふらしているこちらを心配してくれたのか、手を貸しましょうかと訊かれたが、それは断った。歩こうと思えばもう歩けるのだ。
青年の背中を数歩後ろからとことこと追いかけながら、桜は彼の羽織に振りかかった亜麻色の髪を見つめ、それからやたらと派手な髪飾りへ視線を移した。すごい色だなぁと思う。あいにくと美的感覚のよしあしは桜にはわからなかったが、とにかく派手な色だ。
自分の眸の色よりも若干明るいその色に見とれつつ歩いていると、飯炊き娘たちとすれ違った。彼女たちもまた桜に先立つ彼を見やって少し不思議そうな顔をする。髪飾りに驚いてもいるようだったが、どちらかというと見知らぬ人間に対する不信感にその表情は近かった。だが、それもつかの間のこと。青年が微笑をたたえて会釈をすると、みな納得したような顔つきになって歩き去って行った。
五人、六人とそんなことを繰り返すうちに、桜の中に妙なもやもやが湧き上がりだした。
だってこのひと、何かおかしい。
さっきからこの家の中にひとりも知り合いがいないではないか。そのくせ、十年二十年勤めていた古参の者のような馴染み方はなんなのだろう。みな自分だけが知らないのだろうという顔をして過ぎ去っているけれど、これでもう七人、八人目だ。桜を含めると九人。いくら新入りであっても、九人もの人間がひとりも青年の顔に思い当たらないなんてことがあるのだろうか。
「――はい、ここからはもう。歩いていけますよね?」
前を歩いていた青年がふと足を止める。
優しく細められた紅鳶の眸を桜は少し眉をひそめて見つめる。ためらった末、口にしたのはたった一言だった。
「――だれ?」
彼は驚いた面持ちでこちらを見返す。
「だれ、と申しましてもねぇ……、宗家に勤めている者のひとりですが。まだここに来て日が浅いから見覚えがないかもしれないけれどね」
桜はふるっと大きく首を振る。
そんなことが聞きたいのではない。
桜は彼に“誰か”と訊いているのだ。宗家に勤めているとか、ここに来て日が浅いとかいうのはどっちかというと、“ナニ”のほうだ。馬の名前を聞いたのに、葦毛だとか月毛だとか孕み馬なのだとかそんな話をされた気分だ。
「……存外、お嬢さんは鋭いのかもしれないな」
それまでは捉えどころのない微笑の湛えられていた表情がふと定まり、何かこちらを愉快がるような色が載った。
「わたしの名前が知りたいの?」
「う、ん」
「ならお答えしようか」
彼は長身を折って、そっと耳打ちした。
桜はひとつ眸を瞬かせる。
「すすぎ……?」
その名前にはやはり心当たりがない。
すすぎ、と桜が覚えこむように繰り返していると、間近にあった紅鳶の眸がらんと光る。紅がかかった茶色の眸。不思議な色だ。
「そう、“すすぎ”。じゃあ名乗った代わりにお嬢さん、ひとつ頼まれてくださいませんか」
「たのむ?」
「ええ。ちょうどあの用心深い堅牢をどう落とそうか悩んでいてねぇ」
青年は懐から一枚の紙を取り出した。
「これをお嬢さんの大好きなひとに渡してくださるかな?」
「わたす……、それだけ?」
「それだけです。ただし、わたしの名前は言っちゃだめですよ」
人差し指を口元にあてがって彼は微笑む。
軽く背を押され、桜は戸惑いながら数歩歩く。
「……あ、でも“大好き”、」
大好きって具体的に、と訊こうとしたのだけれども、振り返ったとき、――すでにそこに青年の姿はなかった。
*
それにしても大好きなひと、というのは何とも抽象的で難しい。
以前なら間違いなく、何のはばかりもなく雪瀬の部屋に向かっているところだが、いや、今だってやっぱり雪瀬のところに向かっているのだが、いざ渡す段になったら何て言えばいいんだろうと桜はそのことばかりを考えていた。
大好きなひとに渡してくれと頼まれたのだから、そう素直に打ち明けるのが一番なのだろうけれど。――なんだろう、この払拭しがたい気分の重さは。気持ちに呼応するように足が一歩一歩重くなっていく。
ほぅと物憂げに息をつき、桜は雪瀬の部屋の前に立った。
最初に思いついたのは部屋に誰もいなければいいなぁということだった。そうしたら手紙だけをこそっと置いて何も言わずに立ち去ることができる。そうだ、そうだといい。どうかいませんように、どこか遠くへ行ってますように、と願いながら、桜はすすすと恐る恐る襖を開く。
果たして雪瀬は、いた。
――いたが、文机に突っ伏して見事なまでに爆睡していた。
羽織のずり落ちかけた肩が規則的に上下を繰り返している。
喜んでいいのか少し微妙な線だ。
だけどもこれで話さなくて済む、と桜はひとりうなずき、文机に突っ伏す雪瀬のかたわらにちょこんとかがみこんだ。紙を置いて去ろうとしてから、落ちかけた羽織に気を引かれて足を止める。
よいしょと羽織を引き上げ、寝冷えなどしないようにかけ直してあげると、文机の端っこに腕を乗せて、眠る少年をしばし眺めた。もともと気配に聡いひとである。桜が来ても眠り続けているなんて、よっぽど疲れているんだろうか。
桜はためらいがちに手を差し伸ばし、宵闇のせいで漆黒に近い色に染まっている濃茶の髪を撫ぜてみた。さらさら、というよりはふにゃふにゃしている。無名とは異なる、柔らかい髪の毛。いつも自分がしてもらっているみたいに指で丁寧に梳いてみて、桜はほんのりご満悦の表情になった。
しかしあいにくとこの少年を相手にそんな幸せな時間が長く続くわけもなく。
「くすぐ…ったい。何?」
桜の置いた手の下で雪瀬が小さく身じろぎし、うっすら濃茶の眸を開いたのである。自分でさっき言ったではないか。“気配に聡い”と。雪瀬がおとなしく髪を撫ぜてもらい続けているわけがなかった。
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