四章、花嵐



 十、


 桜は硬直した。
 『何』と訊かれてもこの状況で返す言葉なんてあるわけがない。機転の利く人間ならともかく、ただでさえ言語能力がつたない桜には到底無理な話だ。雪瀬の頭に手を置いたまま、桜はどこぞのからくり人形さながらのぎこちなさで固まり動かなくなった。

「わたし、」

 それでも律儀に与えられた問いに答えようと試みるのだが、頭はすでにぐるぐると樹海の奥深くに迷い込んでいて、焦燥だけが胸のうちをむくむく膨らんでいく。柔らかな髪に触れる指先が神経が鋭敏になったかのように小さく震えた。体温がどっと上がる。逃げるように手をのくと、桜は俯き、敵と遭遇した小動物のごとく小さく身を縮めた。

「――別に何だっていいけど」

 気まずさがあたりに蔓延して、空気をより悪化させてしまう前に雪瀬は自ら沈黙を破った。

「うわー暗い、もう宵時じゃん」

 独語めいた呟きをこぼしながら億劫そうに身を起こす。寝癖のついた前髪を手で軽く撫で付け、――と、そこで文机の端に置いてあった紙に気付いたらしい。

「何これ」

 いぶかしげな顔をしてそれを手に取った。

「……そ、」
「ソ?」

 またもや寸止まりだ。桜はさすがに情けなくなってきて唇を引き結ぶ。
 少し待ってみてから雪瀬はこちらの返答に期待をかけるのを諦めたらしく、かさかさという音を鳴らして紙を開いた。文面に一瞥をくれるや、ふと剣呑そうに眉がひそめられる。それきり雪瀬は口を閉ざしてしまったので、桜は少し身を乗り出し、横から中身をうかがい見た。
 少し黄みがかった懐紙の中央には流れるような筆致で一文が記されている。漢字が混じっているので判読はできなかったが、“するな”とか“するよ”とかそんなひらがなが見て取れた。
 桜は文から雪瀬の横顔へと目を上げる。眇められた濃茶の眸には怪訝や疑問を通り越して不快とでもいえるような冷めた色合いが乗っていた。

「これ。桜が持ってきたの?」

 文を置き、雪瀬は桜に向き直る。

「……うん。ひとに、頼まれた」
「頼まれた?」
「雪瀬に渡してって」

 口から出任せに微妙な嘘……もとい事実の巧みな隠匿をしてしまった。胸がちくりと痛む。――でもあながち違ってはないはずなのだ。あのひと、桜を“雪瀬さまのところのお嬢さん”と言っていたし、きっとはなから雪瀬の手に渡ると期待して桜に文を託したんじゃないだろうか。

「ふぅん、俺に、ねぇ? それ誰に言われたの?」
「え、と……」

 自分をここまで連れてきてくれた青年の容貌を脳裏に描こうとして、あれ、と桜は難しい表情をした。顔が、思い出せないのだ。さっきまで普通に言葉を交わし、普通に顔を見ていたはずなのに、おかしい、彼の面立ちが何ひとつ思い出せない。記憶を遡るととたん紅色のあの派手な髪飾りばかりがよぎってしまい、肝心な彼の容姿は水面にゆらゆらとたゆとう月の姿のように薄靄がかかっている。懸命に記憶をたどろうとしたものの、どうにもならなくなり、しまいに桜はしゅんとうなだれた。

「……わからない」
「へ?」

 雪瀬は唖然と眸を大きくする。

「覚えてないの?」
「うん」
「全然? まったく?」
「……うん」

 名前はすすぎと言っていたけれど、これは内緒なのだ。

「ええ? 桜そこまで記憶力悪かったっけ。――……もしかして変なまじないみたいなのかけられたんじゃないよなぁ?」

 注意深く手のひらを額に当てられ、すっと目を合わせさせられる。光の入りようで琥珀に近い色合いになったり、果てのない漆黒のようにも変わる眸は今は西日を受けいっそう淡みがかって見えた。こちらの胸の奥底を透かし見るような透徹とした琥珀色である。もしかしたら大好きなひとに渡して、と頼まれた部分も見通されてしまうのではないかと思って桜はきゅっと目を瞑った。

「――何で目瞑るの」
「……目、開けるの、ヤ」
「何で?」
「やなの」
「どうして?」
「嫌なの」

 頑として言い張れば、呆れ交じりの吐息がこぼされるのと一緒に手が離される。

「……わっかんないなぁ。なんだろ」

 思案げに口元に手をもって行きつつ雪瀬はまた文に目を落とす。中に何が書いてあったのか気にはなるのだが、それより桜は一刻も早くここを立ち去りたくてしょうがない。雪瀬が懐紙のほうへと意識を向けている隙にそろそろと腰を浮かせてその場から逃げ出そうとする。
 だが――、あと少しというところでぱしりと腕をつかまれた。

「それ。どうしたの?」

 すぐには何のことを言われているのかわからず、桜は雪瀬の視線をたどって自分の手首に目を落とす。不健康そうな白い肌には手首の輪郭に沿ってうっすら赤い痣が浮かび上がっていた。――さっき暁につかまれたところだ。

「何かあった?」

 いつになく真剣みを帯びた語調に気圧されそうになってしまってから、桜はおずおずと首を振った。暁のことを雪瀬に話してもいいのか、判断に困ってしまったのだ。暁の話をするとなれば、当然柚葉のことも話さなくてはならなくなるし、柚葉が暁の部屋に忍び込んでいたという話はきっと問題になってしまうだろう。

「――桜」

 頭を冷やすような厳しい声で名前を呼ばれる。つかまれた腕ににわかに力をこめられた。目に見えて身体の血の気が引いていくのがわかる。鼓動が激しくなった。桜は眉根を寄せ、ふるふると首を振る。

「桜」

 嫌だ、怖い。
 暁も雪瀬もどうしてみんなして私を責めるの。

「……離っ、…」

 頭の内側がどくどくとまた痛くなってきた。体温が急激に下がって、立っていることもままならなくなってくる。さっきと同じだ。桜は口元を抑え、引っかかりがちのか細い息を繰り返す。

「……さくら?」

 こちらの異変に気付いた様子で、雪瀬が手首を離す。
 どうしたの、とさっきとは違う響きを宿した声が落ち、そっと冷たくなった頬に手をあてがわれる。その手からすり抜けるように桜はぺたんと畳に膝をついた。そのまま傾ぎ、崩れそうになった身体を危ういところで受け止められる。だが、それすらも薄い膜を隔てたどこか遠いことのようで。
 背筋を這い上がる悪寒や脈打つ心音や、内側の感覚ばかりが鮮明で、外側がひどく曖昧だ。何も見えない。音が聞こえない。桜は雪瀬の腕にすがりつくように手を回し、ぎゅっと額を押し付けた。

「………………き、」
「き?」
「きもち、わるい……」

 ようようそれだけを口にすれば、寸秒こちらの言葉の意味を図るような間が空いたあと「……待った吐くな。ここで吐くな。ちょ、瀬々木……じゃない、ええとお手洗いお手洗いお手洗いどこ」と誰ともなしに独語しながらひょいと身体を抱え上げられた。



 顔を合わせたくない、などと思った矢先に。
 そのひとを相手にここまでの乱行を繰り広げてしまってはもはや申し開きのしようもない。具体的に言えば、吐いたりとか吐いたりとか吐いたりとかだ。病人の介抱ならともかく、すぐそばで延々と吐き続けられたら絶対に嫌だろうなぁ、見捨てたりしたくなるだろうなぁと思うのだが、雪瀬はうーうー苦しんでしまいには泣き出した桜を放り出したりはせず、ずっと背中をさすっていてくれた。というか、桜が雪瀬の袖端を握り締めて離さなかったのだが。
 ――だって怖かったのだ。頭がぐるぐるして、気持ちが悪くて、身体がどうにかなってしまいそうで、怖くてたまらなかったのだ。
 お腹の中のものはおおかたぶちまけて、吐くものがなくなってきても桜は泣き続けた。



「落ち着いた?」

 そうしてようやっとひと心地つくと、雪瀬が冷水を注いだ湯飲みを差し出してくる。桜は湯飲みに口をつけた。

「あのさぁ。ほんと、どうしたの?」
「……わか、……」
「うん、わからないね。わかった」

 泣きそうな顔になると、先回りしてうなずかれる。
 雪瀬は文机に腕を置き、はーと疲れた風に息をついた。その横顔を曇らせる色濃い倦怠の気配を悟って、桜は目を伏せる。このひとはわたしといると疲れるのだ、と思うと悲しくなった。

「……ごめん、」

 消え入りそうな声でぽつりと呟く。
 雪瀬がつとこちらを振り返る。微かではあったが、眉根がすっと寄せられた。 差し伸ばしかけた手を寸秒ためらうように空で惑わせてから、結局下ろして雪瀬は軽いこぶしを作る。

「――……」

 早口で何かが短く呟かれた。
 何を言ったのだろうと桜が雪瀬の顔を覗き込もうとすると、その前に目をそらされてしまう。不思議に思ってそぅっと袖端を引っ張ってみる。ためらいがちに二度だけ繰り返すと、暗がりになって見えない横顔から観念したように浅いため息が落ちた。

「……わらって」
「え、」
「わらって、さくら」

 ぽそりと落とされたのは、投げやりなのだかそっけないのだか判別のつかない声。桜はゆったり首を傾げた。

「泣き顔とか困ってる顔とか、俺苦手。――……そういうの、ほんとどうしたらいいかわかんなくなる」

 こちらに背を向けるようにしながら雪瀬は呟いた。
 緩慢な動きで頬杖が崩れる。ぱたりと腕を倒して机にうずくまった背中はそれきり何も口にしようとはせず、ともしたら暮れ行く夕影に淡く霞み出してしまいそうだった。うん、とうなずこうとしたものの声にならず、桜はただわずかに顎を引く。
 小さくこごんだその背を抱きしめてあげたいなぁと思った。ぎゅうって身体いっぱい抱きしめてあげられたらいいのになぁと思った。
 けれど肝心の身体のほうはぴくりとも動かない。今までそんなこと考えたこともなかったので、どんな風にしたらいいのかよくわからなかったのだ。