四章、花嵐



 十一、


 紙には流麗な字でこう書かれていた。
 ――深追いはするな。私ならば今すぐ葛ヶ原を出て行くことをお勧めするよ。
 
「何が“お勧めするよ”、だ」

 馬鹿馬鹿しい。いまどきどこの悪党だって使いそうもない古風な脅迫状である。雪瀬は懐紙を丸めて屑入れにぽいと投げ入れ、不快感をあらわに大きく息をついた。かたわらの灯台が儚く揺れる火影を手元に落とす。いびつな花蕾のようなそれを目で追っていると、とたとたとたと雨だれにも似た小さな足音がいずこよりか聞こえた。目を上げると同時にちゅう、と細く開いた障子戸からねずみが顔を出す。鼻を震わせてあたりをうかがい、あとは一目散にこちらのほうへ駆けてきた。

「あー、とび」

 膝元にちょこんと乗った砂色のねずみを見て、雪瀬は皿に載せてあらかじめ用意しておいた油揚げを畳の上に置く。ねずみは黒いつぶらな眸をぎらっとさせ、油揚げに食いついた。

「報告は?」

 がつがつがつがつと油揚げに貪る音だけが室内に響く。

「とーび」

 がつがつがつがつ。あたかも野生の本能に火がついたがごとくの食べっぷりを見せるとびを前に、声をかけることを諦め、雪瀬は油揚げの置かれた皿を無言で、かつ容赦なく取り去った。
 ――かくしてとびに語らせたことには、柚葉は雪瀬と別れたあと衛兵や使用人たちの住まう場所に足を運び、その部屋のひとつに忍び込んだらしい。どこの部屋かと尋ねると、わからないと首を振る。ついでに途中でひとりの女の子に会い、親交を深めようとしたところ、別の男が現れて彼女を連れて行き、さらにそこへまた別の男が現れ、最終的にその男が女の子を連れていなくなったと語った。
 雪瀬はねずみと真面目に親交を深めそうな“女の子”をひとりしか知らない。たぶん桜だ。だけども男がふたりというのは? そして柚葉はいったいどの部屋に忍び込んだのか。

「使用人ねぇ……」

 ちゅうっ、と油揚げをたらふく食べてねずみは満足げな鳴き声を上げた。きらきら光る眸を見やり、なんか動物じみてきたなぁと雪瀬は複雑に思った。小さな砂色の毛玉を抱き上げ、濡れ縁に下ろす。

「じゃあ明日もよろしく」
「ちゅう」

 ねずみは手を振り、ててててっと暗い濡れ縁を走り去っていく。闇に紛れて行く小さな影を見送り、雪瀬は障子戸を閉める。書きかけの書状の置かれた文机に戻ろうとしてから、思い直し、屑入れの前にかがみこんだ。さっき捨てた紙くずを丁寧に広げて、見覚えのないその字を今一度とっくり眺める。

「使用人か……」

 おそらく今もこの屋敷に平然といるのだろう送り主。敵であろうか味方であろうか。はたまたただの愉快犯に過ぎぬのか。さて、どう見定めればよいだろう。




 ところで、今年の葛ヶ原は暖冬だ。
 雪がてんで降らない。いつもならば、晩秋には初雪が降り、終月(しまいづき)の今頃はそこかしこ雪で覆われているというのに、今年はいつになっても雪が降る気配がないのだった。そういえば、少し前に兄から桜の枝が届けられたこともあった。今年はどうやらいささか気候がおかしいらしい。
 長老たちはこれを凶兆と囁きあう。その証に都に植えられている常緑の橘の葉が朽ち、色褪せ始めていると。常緑の橘――二百年前、光明帝の時代に国の繁栄を約束して植えられたと伝えられる樹である。以来、不変のまま国を見守り続けた、と言われているのだが、この点、雪瀬の解釈は長老たちとは若干違っていて、橘の樹も国と皇族を見放したのではないかと思っている。

「――……さま、雪瀬さま」
「ん。あー、うん」

 つらつらと考えているうちに目的地にたどりついてしまったらしい。暁の控えめな呼びかけに気づき、雪瀬は改めて視界に広がる情景を見てすごいな、と苦笑した。見渡す限り、土蔵から出された木箱やら書物やらが散乱している。放たれた土蔵から使用人が大きな桐の箪笥を運んでやってきた。晦日が近いので、家の者が蔵の整理を始めているのだった。中ではいつもは飯炊きをしている娘たちが雑巾と箒を持って掃除に励んでいる。

「おおかた物は出し終えました。こちらが先々代の私物、あちらが先代の私物、代々伝わる物や書物のたぐいはあちらに。――そうそう、雪瀬さま。初代華雨さまの愛用した煙管なんてものも出てきたのですよ」
「へー? それはなかなか粋な」
 
 煙管といえば、当時はまだ珍しかったはずである。それを愛用していたとは噂に違わぬ奇特な当主だったのだろうか。雪瀬は考えながら、品々を見て回る。不在の兄の代わりにいるものといらぬものを分けるというのが雪瀬の仕事だった。宗家の蔵に入っている以上、たとえ腐った蜜柑の皮だろうと彼らは勝手に捨てることができないのである。
 腐るどころか干からびている草餅を拾い上げながら、雪瀬はなんともいえない顔をする。いったい誰が食べたんだ。

「あの、雪瀬さま」

 それぞれいるもの、いらないもの、売るもの、により分けていると、娘たちに指示をしていた暁がおもむろにこちらに近づいてきた。いらないものと分けられたがらくたの中から小刀をひとつ拾い上げ、こちらへ見せる。

「これですが……。もしもお捨てになるようでしたら、私がいただいてもよろしいでしょうか?」
「あぁ別にいいけど、」

 気安く応じかけ、雪瀬ははたと口をつぐんだ。暁の手の中に納まっている刀。飾り気のない黒塗りの鞘に収まったその小刀は忘れようもない、父である橘八代が大刀と一緒に常時懐に差していたものだった。
 雪瀬は暁の真意をうかがいきれず、眉をひそめる。

「でもどうして?」
「……八代さまの形見をいただきたく」
「ふぅん……」

 ほんの少し考えてから、そう、と雪瀬はうなずいた。

「いいよ、あげる。大切にするといい」

 とたん暁は蕩けるような笑みを綻ばせる。ありがとうございます、と恭しく頭を下げ、青年は刀を大事そうに握り締めた。




「――律儀な男だな」

 蔵のほうへ戻っていく青年とちょうどすれ違いに、箒を肩に担いだ男が出てきてぽそりと呟く。その頭に巻かれた可愛らしい千鳥柄の手ぬぐいを見やって、雪瀬は思わず吹き出した。男の灰の眸が剣呑そうに眇められる。

「何だ」
「いやいや。千鳥柄、お似合いですね」
「……」

 無名は自分の頭へ目を向け、何も言わずにそれを取り去った。くしゃくしゃに丸めて懐にしまってしまう。……うわぁ、と思った。ここまで嫌われたのはじめてかもしれない俺。

「……あなたこそ律儀なもんだよね。宴の酒代のために無償で働いてるんだって?」
「悪いか?」
「悪かないよ」

 これいらないあっち置いておいて、と命じつけながら、雪瀬は隣に置かれた巻物を手に取る。

「あ、そうだ。無名」
「呼び捨てにするな」
「無名サマ。んーと、これ。この字、覚えある?」

 雪瀬は懐から文を探り出し、男へ見せた。文面にさっと目を走らせ、無名は顔をしかめる。

「何だこれは」
「内容はこの際放って置いて。使用人の誰かでこれに似た筆跡のひといなかった?」
「さてな。……まだここに来て日も浅いからわからん」

 投げやりな言い方のわりには真剣そうに眉間に皺を寄せてきちんと考え込み、無名は首を振った。

「そっか。ありがと」

 雪瀬はうなずき、文を畳んだ。
 呼び捨てにするな、と突っぱねたそばから真面目な顔でこちらの問いに答えようとするのだから何とも律儀な奴だと思う。この男、これでいて存外面白い。一言交わして、気持ちのいいほど素直な奴だと思い、二言目でそれは「面白い」へ、三言目になる頃にはたいそう気に入っていた。性質に扇とどこか通じるものがあったからかもしれない。

「ね。せっかくだからこのまま葛ヶ原に居ついちゃったら?」
「結構だ。言ったのがお前でなかったら爪の垢ほど考えたかもしれんが」

 本当に吐き捨てるように言う。ずいぶんと嫌われたものである。

「俺はわりと馬鹿真面目って好きなんだけどなぁ」
「そうか。俺は小賢しい餓鬼は大嫌いだ」
「小賢しい上餓鬼で失礼。従順な魯鈍のほうがお好みでしたか無名さまは」

 男のこめかみがぴくりと引き攣る。しまったと思った。ほとんど掛け合う形で返してしまったが、こういう言い方をするとこの男の機嫌を損ねるのは一目瞭然であったのに。自分も思いのほか学習能力がないらしい。
 不愉快そうにそっぽを向いてしまった男のかたわら、弱ったなぁと他人事のように考え、雪瀬は萎縮した心持ちをまぎらわせるように足元にあった刀を拾い上げた。添えてあった折り紙には名刀・白雨、とある。――白雨。なんだか嫌な名だ。それによれば、何でも初代華雨が帝から下賜されたそれこそ宝物中の宝物らしい。
 鞘をすらりと抜き、雪瀬は鏡のような刀身をしばし眺めた。へーと呟く。確かに、鍔の透かし彫りの繊細さといい、刃の反り方といい、綺麗な刀ではある。

「名刀だな」

 一瞥した男が言った。

「やっぱりわかるもんなの?」
「そりゃあ。年代は光明帝の前後。職人はおそらくお抱えの刀鍛冶……水無月の後期の作だ。違うか?」
「いや、合ってる。ご名答」

 紙に書かれたことをすらすらと言ってみせるものだから、少しばかり感心してしまう。さすが武器商人といったところか。

「どこで見分けるの、そういうのって」
「これはわかりやすい。透かし彫りに花鳥ではなく、流水紋が入っているだろう? この紋は水無月のみが技術を持っていて、また好んで使ったものだ。奴の刀にはどれも雨の名がつくのも特徴なんだが、これは」
「――白雨」
「夕闇に降る時雨か。成程」

 ご満悦といった風情で口端に笑みを載せた男を見取って、雪瀬はひっそり微笑む。それに気づいたらしい、無名は我に返った様子で笑みを消し、透かし彫りを指していた指を下ろした。ばつが悪そうに舌打ちをする。

「そんな嫌そうな顔しなくてもいいのに。なぁなぁもっと聞きたい。水無月はどうして雨の名前をつけたの? あ、あと流水紋を好んだのは何で?」
「知らん。第一何故お前なぞに、」
「でも刀は好きなんでしょ?」

 にっこり笑って返してやれば、無名はひとつ瞬きし、ほんの少し顔を赤らめてふんと目をそらした。図星だったらしい。

「……わからんな」

 沈黙ののち、無名は視線を他方に向けたままでぽつりと呟く。いろいろと持て余した風に首に手をあて、荒々しい所作で頭をかいた。

「お前というものがわからん」
「……?」
「――それ。手」

 男が横目を寄越したので、雪瀬はいぶかしげに刀を持っていた自分の手のひらを開いた。まめがあり、あるいはまめが潰れ、固くささくれた皮膚がある。理由なんて見ればわかる、と無名は言った。

「日々たゆまぬ努力を続けているというのなら。何故真剣を持たず、あんな棒切れなどを持つ?」
「……だからあのとき斬り付けてきたの?」
「中途半端は嫌いだ」

 そうもはっきり断じられれば、もはや苦笑せざるを得ない。

「中途半端か……」
「中途半端だろう。あれでは討つべき敵は討てず、また守るべき者も守れまい」
「“守る”、ね」
「なんだ?」
「――刀はひとを守るものですか」

 そこに淡い光明とそれよりは遥かに濃い暗闇のようなものを感じながら雪瀬は問うた。視線が一時交わる。対する無名の答えは実に簡素なものであった。

「ひとを斬るものだろう武器なのだから」
「……」
「なんだ、落胆でもしたか」
「べっつに」

 こちらに目をやるとふぅと無名は面倒そうに息をつき、雪瀬の手にあった刀を取った。大儀そうに持ち上げ、古びた鞘に載った埃をひと撫ぜして払う。

「何故だろうな。ひとは何かと正解や解答といったものを知りたがる。だが、刀は答えない。刀は問う」
「……何を?」
「何を望み、何を捨て、あるいは何を厭い、何に殉じるのか。武器が問い、持ち主が答える。外にはない。答えは常に己の内にこそある」

 無名は弄っていた刀を雪瀬に渡した。

「――だから俺はお前を中途半端だと言ったんだ」

 厳しい声。受け取ったそれは思いのほか重い。
『刀は問う』
『何を望み、何を捨て、あるいは何を厭い、何に殉じるのか』
 ――……俺の望みはなんだ。
 雪瀬は鞘を両手で握り締めた。

「雪瀬さま!」

 そのとき土蔵のほうから雑巾を持った娘が顔を出してこちらを呼ぶのが見えた。あーと我に返って雪瀬は腰を上げる。刀を置いてきびすを返そうとした背を、おいと無名が呼び止めた。

「さっきの話。万一俺から一本を取れたらお前の下で働いてやってもいいぞ」
「……真剣勝負で?」
「ああ。命を賭けた勝負だ」
「ふぅん…」

 そっけない返事で雪瀬は男の持っている刀へ一瞥をやる。茶の眸に測りがたい複雑な色を載せ、それから薄く笑った。冬の陽が射して眸の色を柔らかなものにする。

「そのうちね」




 柚葉は爪先立ちをして瓶(かめ)の中をのぞきこみ、仄かに馨ってきたぬか漬けの臭いに顔をしかめて蓋をした。

「やはり見当たりませんね……」

 腕を組んでううんと唸る。
 よもや銃が白菜と一緒にぬか漬けにされているとは柚葉とて思わないが、暁の寝室、蔵、栗毛の馬がずらりと並ぶ厩、雪隠、どこを探しても目当てのものがないのだ。しまいには台所のへっついの中や瓶までひっくり返してみたのだが影も形も見当たらぬ。

「暁が持っていたの、あれは本当に銃だったんでしょうか……」

 宴の夜の記憶を反芻し、柚葉は深々と息を吐く。こうまで見つからないと段々と自信がなくなってくる。見間違いであったら、という思いもある。あのときは暗かったし、また自分も酔っていた。
 ――だが。
 柚葉はぶんと首を振り、立ち上がった。結論づけるのはまだ早い。とことん調べて調べ抜かなくては真相がわかるものか。こぶしを握って気合を入れると、柚葉はずらしてしまった瓶の位置を戻そうと側面に手をかけた。

「――柚?」

 とたん息が止まる。肩が跳ね上がった。

「……く、薫衣さま…、」
「何してんの? 探しもの?」

 土間の入り口からひょこっと顔をのぞかせた薫衣は柚葉の手元を見て、いぶかしげな顔をした。腕一杯に持った書物を抱え直し、あたりを見回す。まずい、と柚葉は思った。この聡明な方だ、聞かずしてよもや何か感づいてしまうのではないかと、

「ああ。なんだ、ぬか漬けが食いたかったのか」

 ちゅう、と、幻聴だろうか、可愛いねずみの声が脳裏に響いた気がした。

「……え、ええ、そう。そんなところでございます。やはりぬか漬けは白菜に限りますよね、――あ、お持ちしますお荷物」

 早口でその場をとりなし、柚葉は土間を出て薫衣の抱えた書物を半分受け持った。半開きになっていた戸を閉め、廊下を歩き出す。

「すごい本の量。調べ物ですか?」
「あーうん。ちょっと皇族について。暁にも半分手伝ってもらうんだけどね」
「皇族?」
「んー。燕……私の伯父上から少々気になる情報が入ってな。何でも都の朱鷺(とき)皇子が南方の網代(あじろ)一族のもとへ発ったのだとか」
「朱鷺といえば、亡き皇后杜姫(もりひめ)の第一子、――皇太子でございますね」
「そう。南海沿岸はもう何十年と網代一族が海の民と抗争を続けているだろう。その助けの出兵と表向きにはなっているが……、実際にはどうなんだろうな。私は内部に廃太子の動きがあるんじゃないかと見てる」
「でございますか」

 あの老帝の子供が廃嫡になろうが他の皇子が立太子しようが、柚葉にはあまり変わりのないことのように思えた。自然つれない返事になってしまうと、薫衣はそれを察したか、くすりと苦笑する。

「ともあれ都が少し騒がしいってことかね」

 肩より少し長くなり始めた淡茶の髪を邪魔そうに耳にかけ、薫衣は柚葉の手から書物を受け取った。廊下はふたつに分かれている。柚葉が向かう方とは反対の廊下を取った薫衣は、しかし少しも行かないうちにふと足を止め、そういえばさ、とこちらを振り返った。

「暁さぁ、どうした?」
「――といいますと?」
「や、なんか目くまひどいし。疲れてるっぽいし。あれかな、銃声の夜からかなぁ?」
「あぁ、銃声の……」

 真砂がいなくなった夜のことだと考えながら柚葉はうなずく。

「さっきは桜抱えて雪隠に駆け込んでる雪瀬を見たし。たちの悪い病でもはやってんのかね。扇もくしゃみしてたし、そういや伯父上も」
「――待って薫衣さま。桜さま、ですか?」
「恋患いを発症中……あぁうん? 桜だったよ、ちらっと見ただけだけど」
「確か銃声の夜、暁のそばにいたのも桜さまですよね?」
「……あー、そうだったかな。お前あそこにいなかったっけ」
「ええおりませんでした。そう……そうですか、だから桜さま……そうか…」
「柚?」
 
 探るように顔をのぞきこまれ、柚葉ははっと独語を止めた。自分よりも背の高い少女を振り仰ぎ、その手をつかむ。

「薫衣さま!」
「おう。な、何?」
「私、大事な用事を思い出したのでもう参りますね。では!」

 感謝の意をこめて薫衣の手を大きく振ってから離すときびすを返し、しゅたたたっと柚葉は廊下を走っていく。と、少し行ったところで別のことを思い出し、またしゅたたたたっと薫衣のもとへ戻ってきた。

「と、忘れておりました。薫衣さま、これ」

 懐から小さな匂い袋を取り出し、柚葉はそれを薫衣へ差し出す。余った布を縫って巾着型にし、馨り高い草花を詰めたものだ。

「よく眠れないときはこれを枕元に置かれるとよろしいかと。異国に咲く花でございましてね、その香り高さから名を薫衣草と呼ぶのです」
「薫衣草……」
「凛とした香り、薫衣さまにとてもお似合いだと思いまして」

 宴の夜に酔ったこのひとが兄の名前を口に出したことは言わずにおいた。下手な気遣いを見せると逆に薫衣は機嫌を悪くしてしまう。どうぞ、と匂い袋を握らせると、薫衣は一時ぽかんとしてみせてから、慣れない所作でそれを口元に持っていった。

「ん。いい香り」

 伏し目がちにはにかんだような笑みを見せる。眸を優しく細め、薫衣はありがとうと言った。

「――ありがとう柚、可愛いやつめ!」

 風が不意に和らいだような。そんな自然さでいつもと変わらぬ明るい笑顔が戻ってくる。くしゃくしゃと髪をかき回され、そのくすぐったさに首をすくめながら柚葉はひそやかに微笑った。このひとの笑顔が好きだ、と思った。このひとたちのためならわたしは何にだってなれると思った。


 だから。だからね、大兄さま。
 私の為そうとしていることは間違ってはおりませんよね?