五章、椿



 一、


 ――その少年の面影はすでに追憶の彼方にある。

 それは都・紫苑(しぞの)にこの冬初めての雪が降った日のことだった。
 白い雪に覆われ始めた庭の真ん中で少女はひとり泣いていた。
 その日はとても悲しいことがあったのだ。少女のまだ幼い胸をちりぢりに引き裂くような、悲しいことが。
 喪服に身を包んだ少女は降りしきる雪にも構わず、くすんくすんと赤くなった眦を手の甲でこすってしゃくり上げる。白銀の髪に粉雪が舞い落ち、涙に濡れた手の甲へもまた雪華が落ちる。嗚咽まじりの白い息をこぼしながら、少女はか細い声で切々と泣き続けた。あたりには人どころか獣や鳥の類すら見当たらぬ。雪は降り続け、次第に少女の足跡をも消していった。

 がさり、と目の前の椿棚が揺れたのは頭や肩にずいぶんと雪が積もった頃だった。少女はつと目元を覆っていた手を離し、がさがさと激しく揺れる椿の枝を注視する。赤い、さながらひとの血のような花をつけた椿棚の奥は深緑の葉が重なり合って、得も知れぬ陰鬱な闇を作っている。どうしてなかなか禍々しい。
 ――まさかあやかしのたぐいではあるまいな。
 幼心に怯えて身構えていると、暗い茂みからひょこっと茶色い頭だけが飛び出した。少女はさらに驚き、後ずさる。

「〜〜っ〜〜っ」

 それは少年であった。
 どうやら椿棚から出られなくなっているらしい、葉っぱから上半身だけを突き出した状態で何かとてつもなく汚い言葉を吐きながらもがもがと身をよじってる。こちらに気付いている風ではない。少女はしばしためらった末、おっかなびっくりといった様子で少年に手を差し伸べた。その手を引いて、庭へ出してやろうとする。

 だが、抜けない。いくら引っ張っても少年の身体はびくともしない。まるで下半身に漬物石でもくくりつけているようだ。んんん、と少女は頬を薄紅に染めながら両手で力いっぱい少年の腕を引く。――と急に重量感が消えた。これは少女にとってまったくの不意打ちであり、必然勢い余って足を滑らせ、次の瞬間には少女の身体は宙に投げ出されていた。ひゃあああだとかうわぁだとかいう悲鳴が絡み合い、どすんと大きな音がしてあたりに細かな雪が舞い散る。

「――……っううう、」

 呻き声が口をついて出る。気付けば、自分は雪面に突っ伏しており、自分より大きく温かい身体の下敷きにされていた。ぶつけた腹がじんじんと痛む。
 うわぁいってぇ、と少年は彼女の聞いたことのないような、もはや蛮族としか思えない言語でぶつくさと言い、身を起こして腕にこさえた擦り傷に息を吹きかけた。それから雪に倒れたままのこちらに目を向け、悪い悪い、と気軽な調子で手を差し出す。
 その手は汚れ、見れば少年の頭や肩、額や頬、衣に至るまでが葉っぱや泥まみれになっている。こんな汚いものを少女は生まれてこの方見たことがなかった。まさかひとではなくて獣の子なんじゃないだろうか。そう考えると恐ろしく、少女は差し伸ばされた手をぺんと払って、自分で身を起こすと、またくすんくすんと泣き始める。
 目の前の少年が怖いこともあったし、それに後宮深くで育てられた少女はこの突発的な事態にひどく混乱していた。加えて地面にぶつけた身体がひどく痛んだのでびっくりしてしまったのだ。

「そんなに痛かったの?」

 すとんと少女の前に腰を落ち着け、若干呆れ混じりの間延びした声で少年が訊いた。少女はこくこくとうなずく。痛いのだ。背中と腹と胸の奥が痛いのだ。
 ふぅん、と少年はそっけない返事を返して腕を組んだ。
 こちらをしげしげと見つめ、額と額がくっつくほど顔を近づけてくる。白い吐息が頬にかかった。

「――なぁそれ、」
「それ?」
「違う違うそれ。水。俺そんなにぼたぼた目から水出す奴初めて見たっ。なーなー。なーなー。お嬢さん泣くの好きなの? 目から水出すとたのしい?」

 どうやら涙のことを言っているらしい。表情を強張らせたまま少女はぶんぶんと首を振る。好きだのと訊かれても、己の意思とは関わりのないところでとめどなく溢れてくるのだから答えようがない。とても悲しくて、だから勝手に溢れてくるのだ。そう考えると、少年の無邪気な問いがひどく無遠慮なものであるように聞こえた。

「す…っ、好きで、……泣い、てるわけじゃ……、」

 泣き濡れた眸できつく睨みすえる。少年はおやといった表情をして、そーなの?、と首を傾げた。
 ほんの少し考え込むようにしてから、彼はふと何か思いついた様子で足元の雪に今まさに落ちようとしていた椿の花を摘み上げる。少女の頭にそれを載せ、白銀の髪にかかった雪を丁寧に払い、花の位置を直し、よしよしと満足げにうなずいた。
 ――なんだ? 慰めてくれているのか?
 少年の行動の意図が読めず、少女はぱちぱちと目を瞬かせる。少年は少女の肩に零れた白銀の髪を引いて、おもむろに、そうそれは柔らかな風が吹くかのごとくの自然さで、涙のたまった眦に唇を寄せた。涙を吸って、はい泣き止んだ、とすごくめちゃくちゃなことを言う。驚きすぎて本当に涙が止まってしまった。なんだ、この変なひと。

 濃茶の髪に濃茶の眸。
 そして強い花嵐を引き連れるかのような不思議な少年は。
 今は追憶の彼方にいる。




 東の果ての葛ヶ原からははるか離れた西の内陸に位置する、都・紫苑。
 そのまこと美しき椿棚から、椿殿と呼びならわされる老帝の末の姫君の庭ではつい先日早咲きの椿が花を綻ばせたばかりだった。

「“春は桜、夏は菖蒲、秋は菊、冬は椿。これ天上の花園に咲き誇る四季の花なり”」

 雪華と称えられる白銀の髪を緩く結い上げた姫君は幾重にも重ねられた鮮やかな衣に埋もれるようにして部屋におわした。草紙を読みふけりながら玲瓏とした声で、春は桜、夏は菖蒲、の箇所を音読する。
 長い睫毛に縁取られた翠の眸が視界に広がる庭を眺めやり、悦と細められた。

「やはり冬は椿でなくては。なぁそう思わぬか、タマ」
「姫さま。恐れ多くも申し上げますが、私はタマではなく、縞(しま)でございます」
「おお、そうであったか。すまぬすまぬ。それでタマ、例の件なのだが、」
「姫さま。私のお話は聞いておられたのでしょうか」
「聞いておったよ。タマはシマではなくタマだという話だろう? 今謝ったではないか」

 真面目な顔で言ってくる少女に悪意などは微塵も感じない。冗談を言ってからかっている風でもなかった。しかたなく縞は今しばらくタマになることにした。この姫君のひとの名前をきちんと覚えられない癖は今に始まったことではないし、ついでにひとを変な愛称で呼ぶ癖も生来のものだ。

「しかるに、例の件とは何でございましょう」
「うむ、だからな。あれだよ、あれ」
「あれ?」
「タマは鈍いのう。あれじゃ、今市井で流行りになっているという朱表紙最新作、人妻の章。買うてきたか?」

 ここは格式高き宮中。
 縞の仕えるこの姫君は今上帝の末子、蝶姫である。今は亡き皇后杜姫の血を引く、この国一高貴とされる姫君。御歳はまもなく十四になり、今はまだ幼さの残る顔立ちだが、あと数年もすれば引く手数多の美姫となろう。
 ――そう、縞が十四で宮中に上がり、亡き杜姫の言いつけで末の姫君お付きの乳母になってからのち、こまごまと手塩をかけて育ててきたこの姫君。教養という教養を身につけさせ、典雅な所作、言葉遣い、作法その他、この国でも最上級の教育をほどこし、毎日菊の朝露をしみこませた綿などを使いながらその美貌に磨きに磨きをかけてお育てしてきたというのに、ああ何故。何故その姫君の可愛らしい花色の唇から、朱表紙などという汚らわしい通俗草紙、色欲草紙の名前が出るというのか。
 縞は眩暈がしてくるような気がした。

「姫さま」

 縞よ、気を確かに。
 己を叱咤すると縞は火桶に手をかざしながら期待に満ちたあどけない視線を向けてくる姫君にきっと向き直った。

「よいですか、姫さま。はっきりと申し上げましょう。そのような本をあなたさまに見せる気はこの縞には毛頭ありませぬ」
「そうつれないことを申すな。貸してやるからそなたも一度読んでみるがよかろう。朱表紙はなぁ、乙女の甘い疼きが凝縮されているのだよ。切ない気持ちでいっぱいなのじゃ。まぁ蝶はどちらかというと人妻よりは姫君の巻のほうが好きなんだがな」

 そう言いながら蝶姫は懐から一冊の読み古した草紙を取り出す。ふふー、とそれはもう花が咲き綻ぶがごとく可愛らしい笑みをこぼし、うっとりと翠の眸を細める。

「タマ。聞け。ゆるりと聞くがよい。いつかな、いつかきっと蝶のもとにも白馬に乗った美しい皇子さまが迎えにやってくるのだよ……!」

 ああ、と縞は眩暈を通り越して卒倒しかけ、亡き杜姫さまに泣きつきたくなった。
 宮中でまことしやかに流れている蝶姫の噂を知らぬ縞ではない。
 曰く――。あの老帝の末の姫君。可憐な宮中の花。ひらりひらりと飛び舞うまさに胡蝶。夢見がちな。乙女な。恋愛草紙好きな。微妙に現実逃避気味な。というか果てしなくめちゃめちゃ変り種の姫。あれでは娶るものもおるまいに。
 嗚呼、この姫君の性格を直す薬があろうものなら縞はいくらでも金子を積もう。




 さて、同じく都・紫苑。宮中。

「――い・や」

 台盤の上に並べられた料理に一瞥をやった少年はぷいっとそっぽを向く。
 雪華と称えられる美しい白銀の髪を緩やかに後ろで結い、薄氷の水干に身を包んだ少年。その横顔はまだあどけないながらも品がよく、あと数年もすればたいそうな美丈夫になるに違いない。
 少年は老帝の第十九子、亡き皇后杜姫の血を引く、この国一高貴とされる皇子のひとり。名を皇祇(すめらぎ)といい、御歳はまもなく十四になる。蝶姫とは双子の弟だ。
 その皇子さまは本日まことご機嫌が麗しくない様子で、

「い・や」

 と柳眉をひそめ、それは可愛らしい声音で繰り返した。

「しかし皇祇さま」
「嫌」
「ですが、皇祇さま」
「やだもん」
「しかしながら、皇祇さま」
「やーだね」
「あのね。後生ですから、そこな胡麻豆腐を食してくださいませと稲城(いなぎ)は申しておるのですが!」

 皇子に仕えて十四年になる稲城は涙ながらに訴え、膳を差し出した。だが、皇祇はちらりとそこに居座る灰色の物体に目をやっただけでまたぷいっとそっぽを向く。

「やだ。俺胡麻豆腐嫌い」
「ではかぶでも結構です」
「かぶも嫌い」
「ならば蒸し鮑でも結構」
「鮑も嫌い」
「それなら、いったい何なら口に入れてくださると……?」

 おそるおそるうかがってきた稲城に、皇祇はにっこり微笑んで返す。

「お菓子。お菓子いっぱい持ってきてっ、稲城」
「だめです」
 
 しかしここは守役を仰せつかって苦節十四年。老臣・稲城は頑なに首を振る。

「お菓子ばかり食していたら、皇祇さまはお身体を壊してしまいます」
「ううん、壊さないよ」
「あのう、失礼ですが、その確固たる自信はどこから……?」
「ふふん。俺をなんだと心得る。皇族だぞ? 皇族はお菓子ばかりを食べたっていいのだ! 神聖だから! 父もそうだった!」

 えっへん、と腕を組んで皇祇は胸を張る。一分の疑念の余地もない、心の底からの深い自信に満ち溢れた顔であった。
 ああああ、と稲城は持病のある心の臓を衣越しに抑えた。
 ――四十の年、亡き杜姫じきじきの頼みで皇祇の守役のお役目をもらい、十三年。代々博士を務める家柄に生まれた己の教養という教養を注ぎ込み、典雅な所作、言葉遣い、作法その他、この国でも最上級の教育をほどこし、お育て申し上げてきたつもりだ。本来ならば、ああ稲城よくぞ我をここまで育ててくれた、さぁお前は安心して国許へ帰るといい、褒賞もたんまり出すぞとかなんとかその麗しい声音を持って労わってもらってもよいところである。二十七になる息子の昇進でも可。

 しかしながら血の因果か、それとも自分の育て方が悪かったのか、この皇子、かなりの暗愚……いやいや。確実に父親である今上帝と同じ道をたどりそうなのだった。実際、皇祇が皇太子でなく普通の皇子に生まれついて稲城は安心してもいる。

「稲城殿」

 と、そこへ蝶姫おつきの女官――縞が入ってきた。
 入ってもいいだろうか、という風にこちらをうかがうようにした縞にどうぞどうぞとうなずいてやれば、しゅるしゅると衣擦れの音がしたあと、白銀の髪の、皇祇と瓜二つの顔をした少女が顔を出す。とたん、つまらなそうに独楽で遊んでいた皇祇が顔を輝かせて立ち上がった。

「蝶―っ!」

 わーい、と華やいだ歓声を上げて皇祇は少女に飛びつく。先の可愛げのなさとは偉い違いである。それもそのはずで、この皇子は幼い頃に母を失くしてから、この姉上だけにはたいそう懐いているのである。

「皇祇。元気にしておったか? 稲城に迷惑などかけておらんな?」
「うん、もちろんだよっ」

 どの口がそれを言う、と叫びたい衝動を堪える稲城の肩を縞が優しく叩いた。この聡い女官には稲城の気持ちが察して余りあるらしい。何せ縞と稲城は変な双子の守役を仰せつかってしまった同盟と称して、この十三年互いに互いを励まし、あちらも頑張っているのだからこちらだってまだまだ、と己を鼓舞しながら共にやってきた。いわば戦友である。

「けれど縞さま、私もう……」

 稲城はほろほろ眸からこぼれ落ちた涙をぬぐい、こうべを垂れた。
 老境の身に皇祇の気ままな振る舞いはことのほか堪える。稲城は残りの命が幾許もない身の上。我が身亡きあとひとり残された皇子のことを思うと、涙がこぼれてならないのだ。
 ええいこれはもはや酒か道ならぬ恋にでも走らねばやってられんわ、と縞の細腕にすがりつこうと稲城はがばりと顔を上げ、――そのときである。
 女官のひとりが朱鷺皇太子の報せを持ってきたのは。

 朱鷺皇子危篤――。
 またか、と思う。実は外で話すのはご法度であるのだが、これは内ではすでに日常と化しているくらいによくある話なのだった。