五章、椿
二、
女官によってもたらされた報せを聞いて蝶は目をみはる。
「朱鷺の兄上が?」
蝶の唯一の実兄、――皇太子である朱鷺が歌会の最中に倒れ、運ばれたというのである。今、医者が駆けつけ、容態を見ているというがしかし。
「――またか……?」
思わずといった風に漏れた蝶の呟きを稲城と縞は複雑な面持ちで聞く。これが別の場所、あるいは別の皇子であったのならば皆が一大事と慌てふためくところであるのだが。
何せ朱鷺皇太子というのはこれまで六回の危篤と十回の大怪我と年平均十二回の昏倒をしているいっそ華々しいまでの病歴の持ち主なのだ。その病弱さ軟弱さは宮中で知らぬひとおらず、近頃では皇太子が倒れたところでもはや日常茶飯事と捉えられてしまっている節がある。騒いでいるのは皇太子付きの女房や重臣たちだけである。
「とはいえやはり兄上の御身は心配じゃ。――タマ、」
幼い時分から培った直感のようなもので、蝶の胸に不安がよぎった。否や袿を翻して兄のもとへ向かおうとする。だが、数歩といかぬうちに行く手を遮られた。眉をひそめれば、縞が険しい表情で首を振り、背後を促す。
「……? 何じゃタマ」
女官の言わんとしていることがわからず、蝶はますますいぶかしげな顔をする。が、さらに一歩進めようとしたところで何か衣に引っかかりのようなものを覚えて、うむ?と蝶は足を止めた。見れば、蝶の衣端をちょこんとつかんでいる手がある。
皇祇だった。幼い皇子は突然の報せに驚いてしまったのだろう、春の若葉の色にも似た翠の眸には涙が今にもこぼれんばかりといった様子で湛えられている。うー、と皇祇は片方の手を蝶の衣に、もう片方で目をこすりながらしゃくり上げ始めた。
「ときー。とき、しんじゃやだぁ……」
「す、皇祇、そんな縁起でもないことを言うでない」
「そうですよ皇祇さま。泣いちゃだめです。男の子なんですから! ね!」
なんだかんだ言ってこの皇子にてんで弱い蝶と稲城はふたりがかりで皇祇をあやしにかかる。幼い――と言っても皇祇と自分は双子なので歳自体は変わらないのだが、とにかく精神的には未だ幼子同然の皇子の頭を撫ぜてやりながら、参ったなぁと蝶は内心ため息をつく。これでは兄のもとへ行けそうにない。
「のちほどあちらの女官に詳しく話を聞いて参りますので」
心得た様子で申し出た縞の言葉を受け、蝶はわかった、というように顎を引いてみせた。ちょうーっとこちらの身体に腕を回してきた皇子を抱きしめ返し、水干の背をよしよしとさする。
「案ずることは無い。無いぞ、皇祇」
何せ兄上はもう五度六度黄泉の旅路から戻られたのだ、と蝶は静かな口調で弟に言って聞かせる。
――兄の容態が落ち着いた、との報せが縞からもたされたのは、泣き疲れた皇祇を寝かしつけ自分の部屋に戻ってきたあとのことだった。
「“突如胸を押さえ、息を喘がせ、倒れる”か」
大殿油の炎が隙間風に吹かれてしなり、開いた書物にいびつな火影を落とす。蝶は褥に横たわり、箱枕に腕を乗せながら散らかした書物をあれこれと読みふけっていた。読みふける、否、調べ物をしているといったほうが近いか。幼い横顔は真摯そのもので、伏せがちの翠の眸には理知的な光が宿っている。
無地の黒い表紙は遠い大陸から入ってきた医学書であった。宮中には入ることのない、市井で出回っている眉唾物と呼ばれている書物のたぐい。これを蝶にもたらしたのも縞ではなく、とある小うるさい蝿のような少年である。もう三年も前のことだ。ちなみに大量の朱表紙を持ってきたのも同じ少年なのだが、これに限っては蝶は今も厚く感謝している。
櫃の奥にしまいこまれていたそれを広げ、ふぅむ、と蝶は難しい顔をする。縞から伝え聞いた朱鷺の様子は“突如胸を押さえ、息を喘がせ、倒れる”というものであったが、これはもしや――、
「毒ではなかろうな……?」
口に出すとそれはひどく恐ろしい言葉へと変わる。
蝶は口元を覆い、ぱたんと書物を閉じた。
さりとてここで怖気づき、褥にこもるような可愛らしい姫君でもない。恐怖と好奇心ならば迷わず後者を取る、それが蝶姫という皇女である。
数日後、蝶は縞を連れて東宮殿に赴き、兄の見舞いがしたいと舎人にのたもうた。最初はあからさまに嫌そうな顔で縞を追い払っていた舎人であったが、そのうち中から何か言い付けられたらしい。兄の侍医らしき恰幅がよく、豊かな口髭をたたえた初老の男とぼそぼそ言葉を交し合ってから、蝶を奥の部屋へと招き入れた。
中は昼であるが少し薄暗い。病のときの名残か、加持祈祷の際に焚かれた香の匂いが濃く漂っていた。その中を、杜姫が一子、側室などもいれれば第八子にあたる蝶の実兄・朱鷺は厚手の羽織を肩にかけ、桐で作った火鉢の前に座っていた。衣擦れの音に気付いたか、深い翠の眸がこちらへ向けられる。
「蝶」
朗らかな笑顔が載った。少しばかり痩せたような気もするが、まぎれもない兄上だ。屈託のない兄の微笑につられて蝶も破顔する。
「兄上。お倒れになったと聞いたけれど、もうよいのか?」
「おう。しこたま黄泉の国を彷徨ったらまたかように返されたのだ。ほら、こちらへ来い、あちらで起こった話をしてやろう」
朱鷺は戸口でたたずんでいた蝶を手招きして、火鉢の近くへと座らせた。
「あちらの話、とな。また不思議な旅だったのか?」
黄泉、という言葉は草紙好きの姫君をほどよく刺激する。さぞや面白きことが起こったのであろうと早くも目的を忘れて蝶は兄にせっついた。朱鷺は翠の眸を柔らかく細めて記憶を辿るようにする。
「そうだな。今回おれの行った国では顔はかまきり、下半身は人間の種族と、手を八本生やした蜘蛛族が九百九十九年に及ぶ内乱を繰り広げている最中だった。おれは蜘蛛族側と手を組み、かまきりを征圧して、このとおり帰国を果たしたというわけだよ」
「かまきりと蜘蛛……! 妖怪戦争のようじゃな、すごいなぁ兄上」
「だろう、兄は強いのだ」
「うん、兄上はお強い」
蝶はうんうんと素直に何度もうなずく。兄の朱鷺というのは幼い頃から病弱――という割にはそういう業を負った者にありがちな影というものがまったくなく、常人とは違う、どこか達観した空気をまとっているひとであった。過去何度も死にかけては心配して見舞いに参った蝶や皇祇に、なーに心配するなまた少し黄泉の国を旅して回っただけのこと、と言ってそのときの話を滔々と語り聞かせてくれるのだった。兄が倒れてしまうのは心配だけども、目を覚ました兄がけろりとした顔で語るお伽話が蝶は大好きだった。
「妖怪戦争かぁ。それもすごいが、蝶はな、やっぱり兄上のお書きになった皇子さまと皇女のさまの物語がいっとうお気に入りじゃ」
「ああ朱表紙のな。白馬の皇子がやってくるという?」
「うん。蝶の憧れだよ」
巷で出回っている幻想恋愛小説の作者は実はこのひとであった。公にはなっていない秘密なのだが、朱鷺の頭文字を取って、『朱表紙』。本人曰く自分の臨死体験を書き綴っただけだと言っているが、真に迫る圧倒的な筆致と細部まで作りの固い構成、異世界に飛ばされても知恵を駆使して帰還を果たす主人公はおおいにひとびとを魅了する。
草紙の皇子さまはかっこよくて優しくて正義感が強くて礼儀正しくて、蝶の憧れそのものなのだと頬をうっすら赤らめて告げると、兄は目を細めて、可愛いなぁ蝶は、と言った。
「蝶の話ではない、白馬の皇子さまの話じゃ」
「ふふん、蝶は白馬の皇子とやらが本当にいると思うか?」
意地悪く聞かれ、蝶はむきになってそりゃあと語気を強める。
「いるに決まっているだろう」
「そういうところが可愛い」
朱鷺は忍び笑って衣端を持って身じろぎした。その病のせいで幾分ほっそりとなった兄の横顔に気付いて蝶はようやく本来の用を思い出す。
「そうだ兄上、今回のことなんだがな」
「――あぁ悪いな、時間切れだ蝶。睡魔の王がおれを呼んでいる」
「すいま? ……何、水魔かっ!? これは直々にはせ参じねばなるまいに」
「そう、今すぐにはせ参じ、討ち果たさねば。蝶、おれは寝るぞ」
「あああ兄上。待った、寝てはならん、」
朱鷺は蝶の膝に頭を横たえて目を閉じてしまうので、蝶はあたふたとその肩をゆすってみたり、頬をつねってみたりと試みる。だが反応はぱたりと途絶え、やがて規則正しい穏やかな寝息がたった。
「しょうのないひとだ」
蝶は苦笑し、つねったせいでうっすら赤い痕の残った兄の頬を撫ぜる。あまり外に出ない兄の頬は日の光を知らないゆえしみひとつなく白磁器のような透明な白さを持っている。こんなひとがかまきりと戦ったのか、と兄の話を思い出し、蝶はおかしくなった。
「なぁ兄上。今回もまた、ただの病であったのじゃな?」
よもや毒やら。そんな恐ろしいものではあるまいな?
母の杜姫がこの世を去ったときのことなどを思い出しながら蝶は呟く。近くにあった箱枕を引き寄せ、兄の頭を自分の膝からそちらに移すと、さらに厚手の着物を引っ張ってきてなよやかに横たわる身体にかけた。
重ねた衣をもって大儀そうに腰を上げ、舎人を呼びつけようとしたところでおおそうだったそうだった、と蝶は思いなおし、兄の櫃を探す。花鳥紋の入った目当てのそれはすぐに見つかった。この奥に兄秘蔵の草紙がたくさん隠されているのである。秘密の宝箱のようなものだ。
心なし浮き足立ちながら蝶は櫃を二階棚の隣から引っ張り出し、虹色の螺鈿細工のなされた四角い蓋に手をかけた。だが衣が引っかかったのか、はずみに近くに置いてあった文箱を倒してしまう。からん、と澄んだ音が鳴った。
「っと、まずいまずい」
慌てて文箱を拾い、中から飛び出てしまった懐紙を手に取る。淡い紅色をしたそれは花弁の文様が薄く散らされており、顔を近づければ甘い花の香がした。ふたつに折り畳まれているが、流れるような柔らかな筆致のひらがなが裏面からも透けて見える。漢語ではなく仮名を使うあたりからして、この送り主、どうみても女性である。
「もしや恋文……?」
だめじゃだめじゃと思いながらも好奇心に勝てず、蝶はそろそろと文を開き、差出人の名前を盗み見た。――ひかがみあい。
ヒカガミアイ、と口の中で唱え、蝶はもう一度末尾にあるその名を見た。ひかがみ、氷鏡か。そういえば覚えがなくもない。確か黒衣の占術師がここに来た際に連れてきた美貌の女官である。朝霧に包まれた薄氷のような、どこかひとを寄せ付けぬたたずまいと名字をかけて、氷の君、と呼ばれる女人だ。そのあまりの美しさから女好きの第三子が求婚をしたという話も聞き及ぶが――、よもや兄上と恋仲だったのではあるまいな。
情事に疎そうなへらっとした兄と氷の君の取り合わせがいまいちぴんと来ず、蝶はむぅと眉根を寄せた。どちらかというと氷の君に手玉に取られている兄といったほうがしっくりくる。何せ兄は皇太子、次期帝だ。
――よもや兄上を食い物にする悪い虫か!
これは見過ごせまい、と蝶は義侠心のようなものに駆られて文面へとさっと目を走らせる。
「と、き、」
ときでんか
なんかいのあじろいちぞくがもとへおもむくというごけつい、
「ちょーう?」
「――っ!?」
文字をたどっているさなか、背後から目隠しをされ、蝶は心臓を跳ね上がらせた。
「ぬあ、な、何、」
「あのなぁ。ひとの文を見てはだめだろう」
あっけらかんとした兄の笑い声が耳朶を撫ぜる。蝶はしぱしぱと目を瞬かせ、兄の腕に取りすがったまま背後を仰いだ。今しがた起き上がった様子の兄は薄く笑んで蝶の手にあった文を取り上げる。何も言わず、火鉢のほうへ戻っていってしまう兄を蝶は若干もたつきながら追った。
「兄上っ。網代一族ってなんだ? ご決意って? というか、なぁ! 氷の君とは恋仲なのか?」
「そう質問を矢継ぎ早に投げかけるな。覚えられない」
朱鷺は苦笑し、文を火鉢の中に投げ入れる。それは瞬く間に燃え上がり、灰燼となって崩れた。蝶はますます不審げになる。
「兄う……、」
「うん、実はな。蝶にだけ教えてやろう。氷の君というのは女官とは名ばかりの亡国の姫君であったのだよ」
「そっ、そうなのかっ」
勢い込んだ蝶へ、そうそう、と朱鷺皇子はにっこり微笑んでみせる。
「じゃあ兄上と氷の君は禁断の……」
「そう、禁断の。だからな蝶。これは皆には内緒だぞ」
眸に悪戯めいた光を載せて、朱鷺は蝶の口元へ人差し指をあてがった。
「さっきのはおれと蝶だけの秘密だ」
「う、うむ……」
「そうだ、それからもうひとつ蝶に言っておきたいことがあったのだった。実はな、兄はこれよりしばらく現の旅に出る」
「旅……?」
突然のことに蝶は眸を瞬かせることしかできない。
「どこへだ? そもそも兄上はお身体が弱いのに旅などと……」
できるわけがない、という言葉を蝶は苦心して飲み込んだ。対する兄はなんということもない様子で飄と構えている。
「なぁに案ずるな。黄泉の国からとて兄はいつも帰ってきたであろう」
「それはそうだが……。兄上、くれぐれもお気をつけて」
「ああ」
うなずき、朱鷺は今にも泣きそうな顔をしている蝶の頭に手を置いた。
「皇祇のこと、頼んだぞ」
「それは……もちろん」
「よし、よい子だ蝶。母に似てきたな」
蝶の頭を軽く撫ぜると朱鷺は優しく微笑い、さてもう一眠りするか、と軽く背伸びをした。
朱鷺皇子が南方の網代一族のもとへ兵を率いて旅立ったのはその半月後のことである。もとより側室腹の第二子、第四子との皇位をめぐった争いの絶えなかった中である。朱鷺皇子は政争に破れ、事実上廃嫡されたのだ、という噂が後宮の女官に至るまで流れた。
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