五章、椿



 三、


 ――噂というのは嫌いじゃ。くだらぬ。
    兄上が廃嫡されたなど嘘じゃ。

 宮中は朝から南海地方へ旅立った朱鷺皇太子の噂で持ちきりだった。第二子の陰謀だのなんだのとひそひそ下世話な推測を交わしあう女官たちの中を蝶はきつくこぶしを握り締めながら歩く。冬の冷気に乾いた衣擦れの音はよく響く。蘇芳の表着に身を包み、皇族の特徴である白銀の髪を緩く結い上げ、数本の簪と一緒に椿の花をひとつ飾った白の姫君の立ち姿は今日も息をのむほど艶やかだった。そこにはさながら真冬に咲き誇る椿のような、高貴さすら漂わせる凛とした美しさがあった。自然、話を止めて集まる視線をしかし意にも介さず、蝶はともの女官たちを連れて通廊を歩く。

「――これは白の姫君」

 前方からやってきた少女がつと蝶を認め、道を開けた。濡れ羽色の艶やかな髪に夜の昏さを思わせる切れ長の双眸。薄氷の色をさらりと着こなす女官は件の氷の君、――氷鏡藍であった。

「このたびは朱鷺殿下のこと、お祝い申し上げます。さりとて蝶姫さまにとっては同母の兄上。お悲しみもさぞ深いかと――」
「白々しい」

 蝶は翠の眸を眇め、少女の口上を一蹴した。
 
「ひ、姫さま、」

 縞の制止を振りきり、蝶はずかずかと藍に歩み寄ると、怒りを湛えた眸で彼女を睨め上げた。

「お前であろう、兄上を南方へ飛ばしたの」
「さて、何のことやら」
「ぬけぬけとかような口を利くか……!」

 少女の胸倉に手を伸ばしかけたところで、「姫さま!」とさすがに縞がふたりの間へと分け入る。

「邪魔をするな縞!」
「いーえ邪魔をいたします。姫さまはこの格式高い宮中で御自ら狼藉を働くおつもりですか!」
「うるさい。縞の目は節穴か? 蝶の兄上は南の蛮族のひしめく場所へと飛ばされたのだぞ!?」
 
 それでも女官ふたりがかりで羽交い絞めにされ、蝶はついに動くことができなくなった。離せ!と髪を振り乱して暴れる姫君を藍は我関せずといった風に冷めた目で眺める。

「蛮族と申されますが――」

 今の騒ぎで蝶の髪から落ちた椿を拾い上げ、藍はそれを差し出しながら薄く笑った。

「かつて海の民が治めていた南の地を侵略し、土地を奪い、金を搾取し、しまいにはその姫を后としたのは先々代のほうでございましょうに。なるほど後宮で花よ蝶よと育てられた姫君は潔癖であらせられる」
「――……っ」

 でかかった反論を飲み込む。それが見え透いた皮肉であることは蝶とても理解できた。潔癖――。藍は故意でなかったとはいえ南の民を蛮族と罵った蝶を批判したのだ。確かにそのとおりであって、南海地方を侵略したのは蝶の曽祖父だし、略奪した姫君を己の后に据えたのもまた曽祖父だ。南の民からすれば皇族こそが蛮族の名にふさわしかろう。羞恥にうっすら頬を染め、蝶は俯く。詫びの言葉は発せられなかったが、気位の高い姫君としては最大の譲歩であった。
 黙りこんでしまった蝶を一瞥し、藍は小さくため息をついた。こちらの幼さを皮肉るような冷淡な挙措だった。かっとなって顔を上げようとした蝶の視界端でぱさりと衣が翻る。

「それでは失礼仕る」
「……っな、姫さまの御前で……!」
「いっかいの女官ごときがなんと無礼な……!」

 騒ぎ立てる蝶の取り巻きたちをよそに藍は平然と姫君を追い抜かして去っていった。遠ざかっていく足音を聞きながら蝶は悔しさに唇を噛む。藍からすれば、老帝の末の姫君の怒りなど恐るるに足りないのだ。皇族など、恐るるものではないのだ。それがわかるから悔しくてたまらない。かつて光の一族とまで言われたすめらぎの血統はもはや廃れ、帝の権威は急速に傾き始めていた。時待たずしていずれ地の底へと落ちよう。今とて宮殿は一部の一族と黒衣の占術師に牛耳られるばかりなのだから。
 ――わたしたちはもはや滅びる一族でしかないのだろうか。
 蝶の胸に諦観じみた冷たい思いが広がっていく。それは身を凍りつかせる絶望にも似ていた。
 と、庭先にひらりと舞った雪に気付いて、蝶は顔を上げる。広廂から見渡せる中庭はいつの間にか白雪に覆われ始めていた。そこにまた天から花のような雪片が降る。さながら草紙の中がごとき光景を眺めながら、かような日は嫌いじゃ、と蝶は思った。こんな雪の降る寒い日には亡き母、杜姫のことを思い出す。杜姫が儚くなり、ひとり雪の中で泣いていた自分を思い出す。そして雪の中に消えた、ひとりの少年を。



『ねーねーねーねー、俺がいなくなると寂しい?』

 ――寂しい? 蝶、と。
 朧なる月明かりの下、少年は小首を傾げるようにして蝶の顔を覗き込む。泣き腫らした目を見られたくなくて顔をそむけようとすると、顎をとられ無理やり目を合わせさせられた。その強引な仕草が気に食わない。蝶は負けじと少年の手を振り払い、そっぽを向く。少年が顎を引く。そっぽを向く。それを五、六度飽くことなく繰り返したところでようやくあちらが折れ、くつくつと喉奥から忍び笑う声を漏らした。

『面白いなぁ姫君。すげぇ面白い。俺生まれてからこんな変な生き物に出会ったの初めてです』
『なっ、何がじゃっ。どこがじゃっ』

 こいつはひとの気も知らずに。
 勢い込んで叫んだ蝶をよそに、少年はのんびりと椿棚に咲き綻んだ椿を摘み取っている。はいどーぞとそれをこちらへ差し出した。いらん、と蝶がまた顔をそむけると、そう言わずに、となだめるように少年はこちらの胸に花を押し付けてくる。

『いらぬ、と申しておるではないか』
『ええー強情だなぁ』

 もうお別れなのに、と少年はぽそりと呟いた。その声に感慨らしきものは一切含まれない。どころか相変わらず、何かを楽しがるような笑みを口元に湛えて彼は蝶の髪に椿の花を飾るのだった。

『そう寂しそうな顔をなさいますな。いくら大好きな俺と別れるからってさっ』
『ふ、ふん。うぬぼれるでない。ようやくうるさい虫がいなくなって蝶はせいせいしておるところじゃ』
『へぇ、そうなの姫君?』

 言い返されるかと思ったら、逆に問われてしまった。予想外の応酬に蝶は戸惑い、たじたじとなって少年から視線を逃がす。そうじゃ、とつとめて平然を装って呟いたが、心なし声が震えたのが気付かれてしまっただろうか。へぇそうなんだ、と彼はくつくつ笑って無造作に蝶の肩に降り掛かった髪をひと房引いた。

『じゃあもしも、万が一、姫君の御心がお変わりになったらの話をするけど』
『心配するな、無い』
『まぁまぁそう仰らずにさぁ。話はみなまで聞けってタマに教わらなかった?』

 蝶付きの女官の名を当たり前のように呼び捨てにしくさり、少年はふぅと一拍間をためた。淡い風がざわめき、濃茶の髪をさらさらと揺らす。前髪の下の双眸が笑ってなかったので、蝶は妙な居心地の悪さを覚えて自然身構えた。もしも――とややあって少年は口を開く。

『もしもこの先、姫君に困ったことがあったら。すごーくすごーく困ったことがあったら。…あるいは』

 そこで彼の眸にいつもの意地悪い光が載った。

『俺さまが恋しくて恋しくてたまらなくなりましたら? ――東の果ての地を目指すといい。名を葛ヶ原という』
『くずがはら?』
『広いぜあそこは』

 少年はにやりと笑ってその先を続ける。

『ここと比べ物にならないくらい広い。でも俺きっとどこかにいるからどうにか見つけ出してね。すごーく骨が折れるだろうけど、せいぜいガンバッテ。もしも再びあいまみえた暁には不肖このワタクシ、麗しの姫君に一生変わらぬ愛と忠誠とついでに貞操を誓って差し上げましょう。しあわせにする』

 愛と忠誠と貞操って。なんだそれは、と蝶は眉根を寄せる。この期に及んでこいつときたらお得意の戯言ばかり、心にもないような空言ばかり。憮然となって、蝶はすっと息を吸い込む。

『ええいうるさいっ、知るか馬鹿! 幸せになんぞお前にしてもらわずとも自分でなるわっ。わかったらさっさといね!』

 勢い込んで言ったせいで息が上がる。じわりと眦に涙が滲んできた。蝶はそれを乱暴に少年の上着でぬぐい、ついでにちーんと鼻もかんでおく。嫌がらせだった。まぎれもない嫌がらせだった。
 彼は肩をすくめ、やれやれと頭をかく。

『素直じゃないねぇ白の姫君』
『……う、うるさい』
『うるさいばっか。そういうの語彙が少ないって言うんですよー?』
『うるさい馬鹿っ』
 
 つい反射で返してしまってからしまったと思う。少年はにんまり笑って、固まる蝶の両頬を引き寄せた。吐息がかかるほど顔が近くなる。

『そんじゃあね、蝶』
『――……』

 俯く蝶へ唇を触れ合わせるだけの口付けが落ちる。雪が舞う中でのそれはただただ冷たかった。

『なっ!?』

 な、な、なっ、と口をぱくぱくさせて蝶はみるみる頬を紅潮させる。唇を奪われた! 蝶の唇を奪われた! 声にならない奇声を上げると、ごしごしと袖で口元を拭って蝶は怒りのままにこぶしをぶんと振る。だがそれはあいにくと紙一重でよけられてしまった。やったーもうけーと笑い声を響かせながら少年は脱兎のごとく身を翻す。

 ――そんじゃあね、蝶。

 降る雪が少年の足跡を消していく。それが別れの言葉だったことを気付いたのは椿の庭にひとり残されたあとのこと。去り際に唇まで奪っておいて。とんだひとでなしじゃ、と蝶は呟いた。ともすればこぼれ落ちそうな涙を天をまっすぐ仰ぐことで堪えて、唇を噛む。凍えた頬を撫ぜる風だけが優しかった。



「――東の果て、なぁ……」

 口にしてみてから、蝶は慌ててぶんと首を振った。くだらない。くだらない。何故この自分がかような薄情者を追いかけねばならぬのか。第一蝶の貞操は皇子さまに捧げると誓っていたのに、ああくそ。
 蝶は大きく息をつくと、廂から高い冬空を仰ぐ。雪曇りの空は厚い雲が立ち込め、この胸を晴らすどころか閉塞感を膨らませるばかりだ。

「遠いものよなぁ……」

 空に手を伸ばし、何かをつかみとるようにこぶしを作る。開いた手のひらに落ちた雪はほどなく溶けて水となり、肌を滑って消えた。






 金糸雀(カナリヤ)が啼いている。
 朱塗りの籠の中で、金色の美しい小鳥が啼いている。
 床に置かれた籠へ藍が目をやると、小鳥の首元を撫ぜていた男がふと手を止めた。月の光を思わせる長い銀髪は今は結われることなくしどけなく漆黒衣に流されている。はらはらと散る髪も、その身体の線も、男を形作るものはすべて繊細で、触れればその瞬間砕け散ってしまいそうな玻璃にも似た危うさを持っていた。美しい、美しい、面立ちをしたひとだ。

「――藍か?」

 黒衣の占術師・月詠(つくよみ)は振り返らずに問うて、朱塗りの籠にまた指を差し入れた。藍は衣を裁いて、男のかたわらに腰を落ち着ける。囀る小鳥の歌声に耳を澄ませ、愛らしいその姿にほんの少し愁眉を開いた。

「……月詠さまのものですか」
「いや」
「では、どなたの?」
「老帝だ。いらぬ捨てよというから引き取った。近頃は虫も鳴かぬからな。徒然の慰みくらいにはなろう」

 月詠は玲瓏とした――けれど感情というもののそぎ落とされた平坦な声で言い、籠から指を離した。報告を求めているのだろう。長年の勘のようなもので悟って藍は姿勢を正す。

「すべては首尾よく。あなたさまのご計画の通り」
「気づいた者は?」
「噂は流れておりますが、もっぱら皆の目は第二子や四子に向いておりまする。ただ、」
「ただ?」
「白の姫君が。先ほどつかみかかってまいられましたね」

 怒りに頬を染める姫君を思い出し、藍は薄く笑った。

「白の……。末子皇祇の双子の姉か」

 男は片眸が紫になった眸をつぅと眇める。――今は亡き人形師空蝉と同じ彩の眸である。左右異色の眸は男の稀有な風貌とあいまって、いっそう異端な、ある種妖艶ともいえる空気を彼にまとわせていた。

「あれは愚の者であるからのちのちと考えていたが……、どうであろう。血統を考えれば早々に排除すべきか」

 思案げに月詠は籠を爪で弾く。
 白の姫君、蝶姫には同じ日、同じ時刻に生まれた双子の弟がいた。皇祇という、上から数えて十九番目の皇子だ。蝶姫自体は騒ぎ立てたところでたいした影響力を持たないが、それが皇祇の耳に入ってしまうのはまずい。皇祇はまだ齢十三といえど、何しろ朱鷺を抜かせば唯一皇后杜姫の腹から生まれた皇子。側近の数は第二子や四子には到底及ばないが、代わりに実直と名高い賢臣・稲城が守役としてついている。皇太子朱鷺がいなくなった今、どの勢力が台頭するかは未だ測りがたいものがあった。

「――そうだ、藍。俺はしばらくここを留守にするぞ」
「……は、」

 つらつらと物思いにふけっていた藍は男の予想外の言葉にわずかに反応を鈍らせた。

「この時期に? いったいどこへ参られます」
「所用があって毬街へな」
「毬街……」

 毬街といえば、葛ヶ原が近い。そして葛ヶ原を治めるのはかの橘一族だ。彼らの件と関わりがあろうことは容易に想像がついたが、それにしても今まではすべて藍や十人衆を赴かせていたというのに、今になってこのひと自ら足を向けるとはいったいどういう風の吹き回しだろう。

「橘に何か、仕掛けまするか?」
「さぁ、仕掛けるのは俺ではないゆえな。しかし藍。ともすれば今年の年越しは橘の子供と仲良く盃を酌み交わしながら迎えることになるやもしれないぞ」
「……ご冗談を」

 まさかと思って藍は一笑する。対する月詠は小鳥の首を撫ぜながら眸を細めるばかりだ。その表情に尋常ならざるものを感じて、背筋に冷たいものが駆け抜ける。よもや、本当に?

「月詠さま? あの……、」
「何だ」

 ぶつ切れの言葉を口にすれば、男が笑みを湛えて意地悪く聞き返す。己を見据えるふたつの眸から逃げるように藍は目を伏せた。

「……た、橘に何を致します」
「気になるか?」
「……」
「なんならまた命乞いでもするといい。聞いてやらぬこともないぞ。あのときのように、……次は何をしてくれるのだろうな」

 こちらをからかいでもするような口ぶりだった。小さく首を振って、藍はきゅっと衣を握り締める。

「月詠さま。お願いがあります。毬街へはどうか私も、」
「――お前は宮中に残れ」

 みなまで言わせず、突っぱねるような答えが返ってきた。

「……どうして」
「どうしても」

 食い下がってみるも、男の横顔は頑なで、藍の言葉など聞き入れる気がないことはようと知れた。細く息をつき、藍はぽつりと呟く。

「宮中は嫌いです」
「奇遇だな。俺も嫌いだ。――藍」

 先ほどとは違う、どこか甘やかさを含んだ声が耳朶を撫ぜた。月詠は小鳥から目を上げると、藍の頬にかかった髪を耳にかけ、こめかみに手を差し入れた。さらさらと指の合間をこぼれる髪を丁寧に梳かれ、それから閉じた瞼をしっとりと吸われる。幼子をなだめるような、優しい口付けであった。薄く眸を開けると、眦をまた啄ばまれる。――知っているのだ。このひとが藍を見るとき、ほんの少しだけいとおしげな表情をすること。桜の――鵺の面影を藍は持つから。月詠はほんの少しだけ藍を愛してくれる。藍は、そうそれは水に飢えた花のようにその情にすがる。この男がいなくては藍は生きていけない。たとえそれが偽りの情であっても、倒錯した愛情でしかなくても、藍はそれなしには生きていけないのだ。
 ――だってここには誰もいないのだもの。

「手はずは整った。今宵だ」

 身体を離し、月詠は一瞬くゆり立った甘い香りをかき消すような冷たい声音で命じた。立ち上がる黒衣を眺めながら、それでもこのひとは決してわたしを抱きしめてはくれないのだ、と藍はふと思う。このひとが愛するのは現の女ではなく、知恵のない、清らかな、美しい、鳥の亡骸だけである。むなしい、と藍は思った。




 鏡台の前に立つと、洗い立ての髪を櫛で丹念に梳かして結い上げる。淡く化粧をほどこし、唇には薄く紅を佩いた。香を焚き染めておいた表着をはおっていれば、ほどなく迎えの女官が現れる。女官のあとに続いて藍は長い通廊を歩いた。行き先は帝の寝所。“手はずはすでに整っている”とは、つまりそういうことだ。

 灯台のぼんやりと照らされた部屋にはすでに几帳を隔てて僧と女官がひとりずつ控えていた。藍は白い御帳を仰ぐ。中からしわがれた手が伸び、ひらりとこちらを招いた。
 ――さぁ始めるのだ、この狂った宮中で繰り広げられる狂った調べを。
 藍は目を伏せ、御簾内へと赴く。灯台の炎がぼうと揺れて消えた。


 それは年明けを間近に控えた冬の、白い晩のこと。
 まだ誰にも見えぬ形で小さく何かが脈動し始めていた。