五章、椿



 四、


 籠を開けると、小鳥はしばしためらうそぶりを見せたあと、用心深く頭を出した。落ちないように手を差し伸べてやる。そこへおずおず足を乗せ、小鳥はしばらく自分の世話をした手のぬしに嬉しそうに頬をすり寄せた。眸を弓なりに細め、桜はおいきと小鳥を促すようにする。名残惜しそうに指を甘噛みしてから小鳥は赤茶色の羽を広げた。足が離れる。冬の白に近い空にぐんぐん吸い込まれていく一点の茶を見送り、桜は緋色の眸を細めた。
 からの籠を抱えて、濡れ縁から部屋に戻ろうとする。

「あら。行商にもらった小鳥、逃がしてしまったの?」
「ったくよ、俺がやめろって言ってるのに聞かねぇの。もったいないよなー」

 部屋の中で林檎を剥いていた沙羅が尋ね、隣でひなたぼっこをする空蝉が応えた。うん、とうなずいて桜は障子戸を閉める。だってきっと鳥は籠の中にひとりきりでいるより外で自由に飛んでいるほうがしあわせなのだ。そう思っていると、はん、と空蝉が鼻で笑った。

「あのなぁ、脳みその少ねぇお前は知らないだろうけどな、どうせ売り物の鳥なんて羽きりされてんだ。少し飛んだら力尽きるに決まってら」
「――空蝉さま。何も今言うこともないでしょう」

 すかさず諌める声が飛んで、わら人形はなんだよお前は桜の味方かよとしょんぼり肩を落とした。ぶつぶつと呟くわら人形と沙羅の前に座って桜はほとりと首を傾げる。

「はねきり? ……鳥、飛べないの?」
「そうそう、ちょうどこのあたりの羽根をな――もがっ」
「いいえー、飛べますとも。大空を舞っていきますとも! 桜は優しい子ねー?」
 
 わら人形の口を塞ぎ、にっこり沙羅が微笑む。

「ひでぇ! なんか最近俺の扱いがひでぇ!」
「何を仰います。今も昔も沙羅は空蝉さまを誰よりも愛しておりますのに」
「え、そ、そうかぁ?」

 ぽりぽりと頬をかき、空蝉は沙羅を見上げた。沙羅が慣れた様子で優しく微笑む。耐え切れなくなった様子でわら人形というか空蝉は沙羅に飛びついた。

「俺だって! この空一お前を愛してるぜ! っああー抱きたい抱きしめたい今すぐその柔肌を赤く染めてやりたい!」
「やぁん空蝉さまったら昼からはしたないんですからっ」

 仲睦まじく接吻を交わし始めたふたりを見やって、いいなぁと桜は微妙にむずがゆくなってきた身体を動かしてみたりする。桜も一度でいいから、この空一愛しているよと言われてみたい。でも残念ながら、そんなことを言う雪瀬は微塵たりとも想像ができなかった。夢の中ですら言ってくれなそうだった。

「あ、ねぇね桜。林檎は食べれる?」

 ふと沙羅が果物の皮を剥く手を止めて、声をかけてくる。“林檎”はたぶん食べたことはないが、でも甘い果物なら好きだ。スキ、と首を振ると、沙羅がほっとした風に息をついた。

「最近食欲がないって聞いてたから心配していたの。でも果物なら食べられるかしらと思ってね」

 膝元によじのぼってきたわら人形を寝かせ、沙羅はまた林檎の皮を小刀でむき始めた。しゅるしゅると鮮やかに途切れることなくむかれていく皮をじぃっと見つめ、りんご、と桜は先ほど聞いた名前を舌の上で転がしてみる。

「林檎はねぇ、“医者いらず”と言ってとーっても栄養のある果物なのよ?」

 最後の一皮をむき終えると、沙羅は白い玉のようになったそれを切り分けて桜に手渡しする。しゃく、と一口かじってみる。爽やかな香りが口の中に広がった。

「……すっぱい、あまい」
 
 感じたままの順序で口にすると、甘酸っぱいね、と沙羅が苦笑する。桜はあまずっぱい、と繰り返した。そも『甘い』というのは身内のみぞ知る、桜の『おいしい』という意味の最上級の褒め言葉である。林檎という果物がすぐに桜は気に入った。もっとちょうだい、という意味をこめて桜は沙羅の袖端をついついと引く。

「やぁねぇそんな物欲しげな顔しなくたっていくらでもあげますとも!」

 何やらとても母性を刺激されたらしい沙羅は林檎を放り出して桜の首に腕を回してきた。いつものことだったので特に驚きもせず、けれど勢い余って危うく体勢を崩しそうになりながら少女の抱擁をなんとか受け止めようとしていると、からり、と沙羅の肩越しに閉められていた障子戸が開くのが見えた。

「――……お取り込み中、でしたら、日を改めますけど」

 戸口に立つ少女は異国の住人と初の接触を果たしたときのような、なんとも複雑な顔をしている。沙羅は桜の身体に腕を回したまま、はたと背後を振り返った。

「あーら? 橘の妹君ではないですか。全―っ然気づきませんでしたわ」

 そこはかとなく嫌味っぽい。生来あっけらかんとした気質の空蝉とは違い、沙羅は未だに橘のひとを快くは思っていないらしいのだ。柚葉は柚葉で沙羅と空蝉に好感を持っているようではなかった。
 そんな背景もあって寸秒、水面下での無言の火花の散らしあいが立ち起こる。

「沙羅」

 見かねたらしい空蝉が見苦しい、と煩わしげに畳を蹴った。小さな音しか鳴らなかったが効果はてき面であり、沙羅は桜の背に回していた腕を解いてしぶしぶ柚葉に向き直る。

「それで? 橘雪瀬の妹がいったいこの子に何の用事です?」
「橘雪瀬の妹の“柚葉”でございますが、あなたさまにお話するいわれはございませぬ。――桜さま、ご加減は?」

 柚葉はぴしゃりと返すと、桜のほうへと視線を寄越す。
 見ればわかりません?、と沙羅が先回りして言うが、桜はふるふると首を振った。大丈夫、という意味である。事実、桜は食欲がないというだけであって、熱があるとか咳をしているというわけではない。

「……それは、よかったです」

 その眉間にふと形容しがたい、ほっとするような、それでいて物憂げでもあるような複雑な色合いが乗ったので、桜は思わず柚葉の表情へ引き寄せられてしまう。じぃっと真摯な視線を注いでいると、柚葉は我に返った風に眸を瞬かせ、障子戸に手をかけた。

「では、桜さま。お話があるので、ついてきてくださいませ。――あぁそれから。大切な銃もお忘れなく」

 物静かな語り口の中で最後の言葉だけが浮き立って聞こえる。え、と聞き返そうとすると濃茶の長い毛先が翻って障子戸の向こうに消えた。




 すれ違う使用人や飯炊き娘には目もくれず、柚葉は内廊下を足早に進んでいく。それを桜は少しばかり戸惑いがちにぱたぱたと追った。
 少女の背から感じる空気は肌を突き刺すような鋭さがある。決意と、覚悟と。並々ならない雰囲気に気圧され、いったいこれからどこに行くのか、自分にどんな用事があるのか、桜は未だ柚葉に訊くことができずにいた。そもそも銃を持って来い、とはどういう意味なのだろうか。射撃の訓練をするでもなし――、桜は手に提げた銃へ視線をやりながら考えた。

 中庭を突っ切り、薪置き場の前を通り、厩を横目に見ながら歩き通せば、眼前に古い土蔵が見えてくる。柚葉は通りがかった使用人らしい男に何がしかを言って錠をあけさせると、そこで初めて桜を振り返った。どうやら入れ、ということらしい。桜は分厚い扉の先にある薄闇へとちらりと視線を向け、一瞬助けを乞うように背後で行きかうひとびとへ目をやった。……無論、ここで都合よく現れてくれる雪瀬ではない。わかってはいたけれど、必然と深まる一抹の心細さを抱えながら桜は中へ足を踏み入れる。それを見取って柚葉はぱたんと後ろ手に扉を閉める。視界がさらに暗くなった。

「最初にお詫び申し上げますね、桜さま。私は今からあなたをとてもとても傷つけてしまいますゆえ」
「傷……、」

 言葉を咀嚼する前に柚葉の手が伸び、桜の銃を奪い取る。驚く桜の前で柚葉はためらいなくその引き金を引いた。


 ずぅんと漆喰の壁を震わせながら銃声が重く響き渡る。温度が一段低くなったような気がした。

「この音に聞き覚えはありますか桜さま」

 桜は軽く眉をひそめた。聞き覚えなら、もちろんあるが。何故そんな当たり前のことを柚葉は訊くのだ。

「……ある、けど、」
「ではこの臭いは?」

 柚葉の切り返しは早かった。桜は言いよどむ。

「臭いは? どうですか桜さま」
「……ある」

 詰問でもするように畳み掛けられ、桜はようよううなずきだけを返す。顎を引き、柚葉は天井に掲げていた銃口を下ろした。

「紅葉月の末日になりますか。夜五ツ頃葛ヶ原西の関所近くで銃声が二発、立て続けに鳴ったといいます。現場にいたのは暁と桜さまあなた。そしてこの夜以降、真砂さまは行方をくらまします。私が聞きたいのはこの夜のこと」

 向けられた視線の冷たさにぞっと背筋に戦慄が走る。心臓がどくどくと激しく撃ち鳴る。ほとんど本能に突き動かされるがまま、背後へ下がろうとすると、漆喰のひんやりした感触がむき出しの踵へと伝わった。ほどなく背が壁へとぶつかる。それでも横へと逃げようとすれば、ついと差し伸ばされた腕がそれを阻んだ。

「最初に言っておきますけど、桜さま。逃げても無駄ですよ。――ここ、私が入ったら鍵をかけるようにとさっき頼んでおきましたから」

 先ほど入る際に柚葉が使用人の男と言葉を交わしていたのを桜は思い出した。

「私が求める答えを言ってもらうまで扉は開けません。絶対に」
 
 厳しい声。これが数日前、苦笑しながら風邪を引くといって羽織をかけてくれたひとなのだろうか。底冷えするような感覚がして桜は柚葉を見つめる。

「そんな怯えた顔をなさいますな。情が移ってしまう」

 ふとこちらへ向けられた視線が和らいだ。うっすら口元に苦笑を浮かべ、柚葉はああもう嫌ですこんなこと、と明るく呟いた。

「……兄さまがやってくださればいいのに。こんなこと、本当、兄さまがやってくださればいいのに。嫌ですね、あのひと一番大事なところだけ逃げなさる。――だけどそういうどうしようもないひとが私の兄なので、しょうがないから、私が代わりに致します。あのひとができないから、私がするのです。妹ですから。私にできないことを兄がするように、兄にできないことは私がする」

 柚葉はそこで独語を止め、ふっと息を吐き出した。ひんやりした呼気が首筋を撫ぜる。怯えて身をよじった桜の胸に手をあてがい、柚葉は言った。

「いいですか、桜さま。胸に手を当ててよぅく考えなすって。あなたさまはあの夜、見たのではありませんか? いいえむしろあなたの目の前で、あのひとは、真砂さまは撃たれたのでは。そしてその引き金を引いた者こそ、暁であったのでは?」
「あ、かつ、……」
 
 途中までその名をなぞってから、桜は口を閉ざす。その顔がみるみる蒼白になった。まるで何か忌みごとでも聞いたように桜はふるふると首を振る。
 ――柚葉は何を言っているんだろう。真砂が消えてしまった? 真砂が死んでしまった? そんなはずがない。だって真砂は病気なのだから。病気でずっと臥せっているって柚葉や雪瀬が言ったんじゃないか。そうだ、あの夜宴で柚葉が言ったんじゃないか。

「いいえあれは嘘。真砂さまはずっと“いない”んです」

 柚葉は首を振って桜の逃げ道を絶った。

「……い、いや、真砂いない、嘘、」
「嘘じゃありません」
「…っ嘘! うそ、うそっ!」

 むきになって桜は強くかぶりを振った。どうしてこんなに必死になって否定の言葉を連ねているのか自分でもよくわからない。息が上がる。空気を吸い込もうとして失敗し桜はむせた。ざ、と耳奥で潮騒が鳴る。いびつに歪んだ薄闇の向こうからこちらに向けて大きな黒い水の塊が迫ってくるのが見えた。またあの水だ、と桜は思う。闇色を写し取ったかのような黒い海水。それはいつも桜の隙を狙ってひたひたと押し寄せてくる。逃げようとして、柚葉に腕をつかまれていたことに気付いた。動けない。逃げられない。――嫌! 
 桜は頭を抱え、ぎゅっと目を瞑った。
 足の裏を波がさらう。爪先から足首へ冷たい水が這い登ってきた。あの晩は、と膝裏に忍び寄る水の気配を感じながら桜は呟く。みず、なんて見てない。みずのおと、なんて聞いてない。潮のにおい、なんて嗅いでない。だって桜はひとりですすきの穂のたなびく道を歩いていたのだから。銃声なんて聞かなかった。誰にも会わなかった。真砂になんか、会わなかった!

 ――よいかね、桜サン。

 ざらついた、聞き覚えのある声が耳朶を撫ぜた。桜は眸をひとつ瞬かせ、伏せていたそれを上げる。ひた、と虚空の一点を見据えた。視界は見通しが悪かったけれど、そこには確かに額に筆を押し付けてくる青年の息づかいがあった。

「……『俺が』……『俺がよいと言うまで目を瞑っていましょう』、」
「……桜さま?」
「……目を瞑って、……じゃないと怖い鬼が捕まえにやってくるから、捕まったら私は家に帰れなくなってしまうから――真砂が言ってた、目を瞑ってって。だから私言うとおりにしなきゃいけなかった、目を瞑ってなきゃけなかった、」

 呟き、桜はぺたんと地面に座り込んだ。
 ――そう。あのとき桜は“真砂に言われたとおり”目を瞑ってなくてはならなかったのだ。目を瞑っていれば、あんな怖い光景を見なくて済んだ。あんな怖い、縫のときのような。光景を。見なくて。済んで。
 するするすると絡まっていた記憶の糸がほどけていく。水の音。潮のにおい。暗い、海。刹那、一発の銃声が脳裏を突き上げた。肩に振りかかった髪を巻き上げるように風が吹きぬけ、背後の鴉が一斉に飛び立つ。はらはらと舞い落ちる黒い羽根の向こうで、ぐらりと倒れるそのひとを桜は見た。見て、しまった。目の前が赤く染まり落ち、崩れ落ち、桜は悲鳴を上げた。