五章、椿



 五、


 鴉がひときわ鋭く鳴いた。
 河の両岸にある堤の補強を眺めていた雪瀬はふと何かに弾かれたように空を仰ぐ。まもなく青い空に滲み出すように白い点が現れ、こちらへ一直線に向かってくるのが見えた。差し出した腕へひゅっと軽い風音を立てて白鷺が止まる。

「なんだ? 急に呼び出して」
「あーちょっとね。……扇今暇?」

 というのはこの白鷺に雪瀬が頼みごとをするときの切り出しの定型句であったので、扇はすかさず首を振った。

「暇じゃない」
「へぇそう。――それで、瓦町のことなんだけど、」

 だがそこは付き合いの長い雪瀬である。まるで何事もなかったかのように扇の言葉を無視をして、話を続けた。

「ゆきがさぁ、まーだ帰ってこないの。期限の五日、今日で経ったのに。気になるから、扇見てきてくれない?」
「帰ってこない奴のことなんか知るか。第一、なんで俺が」
「ゆきが山で遭難してたらどうしよう」
「……う、」
 
 そんなことを言われたら先を続けられない。ちっと舌打ちし、半ば押し切られる形で扇はわかったよとうなずいた。

「瓦町だな?」
「うん。まず颯音兄のほうへ行ってみて。普通ならもうたどり着いているはずだから」

 扇が割合すぐに了承したからか、雪瀬は機嫌がよさそうに目を細めて扇の首もとの白い羽毛を撫ぜる。その手に少し頬をすり寄せてみて、心配性だなぁお前はと扇はなんとなく呟いた。

「いーや、俺性格悪いからもしもゆきが俺たちを見捨てて都に行ってたらどうしようって疑ってるんです」
「嘘つけ。――何もないならもう行くぞ」

 透一に二心ないのは誰の目から見ても明らかだ。不毛な応酬に付き合ってやる気はなかったので、扇は羽を広げて雪瀬の肩を蹴った。いってらっしゃい、という声がそれを追う。

「気をつけて。ゆきに会ったら、橘雪瀬は非常にお怒りです、って伝えといて」
「りょうかい」

 こいつもつくづく素直でない。扇は少し笑うと、小さくなる雪瀬から顔をそむけ、代わりにぐんと強くなった太陽の光に目を細めた。


 次第に小さくなっていく白鷺の姿を見送ると、雪瀬は堤のほうには向かわず足を返す。夕方に長老が来年の治水のことで訪ねてくるといっていたので、それまでに宗家に戻っていないといけないのだった。馬に乗れない雪瀬はぶらぶらと休耕地の間の畦道を歩きながら堤、治水、瓦町、と考えるべきことを頭の中で整理する。
 そうして一通り考えをまとめ終えて屋敷が近くなってきた頃、門から駆け出してくるひとりの少女が見えた。ぱたぱたと揺れる銀髪のお下げを見て、あれ、と雪瀬は呟く。

「沙――」
「橘!」

 急に頭上から聞き覚えのあるだみ声が飛んだかと思えば、間髪入れず空からわら人形が降ってくる。雪瀬はうぇとかうみゃとかそういうのが交じり合った奇声を上げた。べたんと顔にひっついたそれをのけようと力任せに引っ張っていると、「待ぁ―て待て待て、どうどう、俺の話を聞け、落とすな落とすなー!」とわら人形が必死に手首にすがりついてくる。

「――……何?」

 でも結局落としたわら人形をせめてもの慈悲で摘み上げながら雪瀬は問うた。そこへ息をぜいぜいと上がらせた沙羅が追いつく。

「だから! あなたのとこの妹が私の桜を連れてって土蔵に閉じ込めてるんですー!」







 あかく。あかく。あかく。目の前が染まってゆく。

 ――アツイ。
 壁にもたれて座り込んだまま、桜はぼんやりと考えた。あつい。熱い。どうしてこんなに身体が熱いんだろう。手も、足も、何から何まで。まるで身体中の血液が沸騰しているみたいだ。
 けつえき、と呟き、桜はおずおず自分の手のひらに目を落とす。……ああ、真っ赤だ。わたしの髪も頬も手も足もぜんぶ真っ赤だ。それに着物がぐっしょり濡れていて、きもちわるい。視界もなんだか朧だった。桜は血がこびりついた手の甲で目をこする。血が目に入ってしみた。イタイ。

 ちくちくした部分を何度も執拗に手でこすっていると、すっと眼前で黒い羽織が身じろぎをする気配があった。それで顔を上げる。目元を覆う手の間から畳にうずくまる青年の背中がかいま見えた。
 その背には今、彼にはそぐわぬ刀が深々と突き立てられている。あたりには多量の血が広がって真新しいはずの畳を真っ赤に染めていた。
 ――“青年”というけれど、否、目の前の“それ”はもはやほとんど青年の原形をとどめていないのだった。彼が桜の知る縫であったのは最初の一太刀だけであって、あとはまるで人形のように何度も何度も男に刺され、いたぶられ、なぶられるがままになっていたのだから。鮮血が吹き出し、肉片が飛び、何だかわからないぐちゃぐちゃになった液があたりにばらまかれる。最初に悲鳴を上げたきり、ぽかんとした表情で桜は静かにそれを見ていた。生温かい血が身体に降りかかり、飛び散った肉片が頬を掠めても、叫び声ひとつ上げずただ呆然と青年であったものを見つめ続けた。

 ――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 桜は血で濡れた手のひらを眺めながら考える。
 わたしが、縫だなんて呼んだからだろうか。こんな、“ないた”、くらいのことで取り乱して、彼を呼びつけてしまったからだろうか。いつものように、一夜ちゃんと我慢できてればこんなことにはならなかった? こんな恐ろしいことは起こらなかった?
 次々に降りかかる問いから逃げるように桜は首を振った。腹の底から何がしかがせり上がってくる。桜は吐いた。うああ、ああ、とか細く喘いでうずくまる。心がみしみしと音を立てて壊れそうだった。――アツイ。イタイ。くるしい。かなしい。いたい。いたい。いたい。いたい。いたい。こんな。――こんな辛くて苦しいことが現実なら。耐えられない。耐えられないよ。

 段々と緩慢になっていく自分の呼吸の音を聞きながら桜はぼやけた視界に黒衣の男の背を映す。刀がまた一太刀畳にうずくまる青年を貫き、瞬間その身体が灰に変わった。痛めつけられた命が潰えた瞬間だった。天井から舞い落ちる白い、粉雪のようなそれを見ながら、あ、と桜は呟いた。目を落とすと、青年の身体はすでにどこにもない。彼が人形であることをそのときの桜は知らなかったし、人形が死んだら灰になるのだということもまた知らなかった。ただ、きえた、と思った。
 ――そうか。
 そうかこれはこわいゆめだったのだという考えがつと桜の頭に浮かんだ。とても怖い夢で、でもただの夢で、終わったらまた縫が優しい声で起こしてくれるのだ。なんだ、そっか。夢なんだ。よかった。よかったぁ……
 血と灰と吐瀉物でぐちゃぐちゃになった部屋の中で、まるでしあわせそのものの表情で少女はゆるやかに微笑み目を閉じた。





 桜は今、目を大きく見開いている。
 何かを探し求めるように天井を振り仰ぎ、それから狂ったように泣き始めた。いやだいやだと喚き、とめどなくかぶりを振る。驚いた柚葉が思わず桜を囲っていた腕を離してしまえば、その隙にそこから逃げ出して桜は扉へ向かった。
 何度か転びかけそうになりながらもなんとかたどりつくと、分厚いそれに手をかける。押して、その戸を開けようとするのだが、どうしてか扉は動いてくれない。桜はますます混乱した。扉にとりすがって、だして、とほとんど喉を嗄らした声で叫ぶ。
 だして、こわいよ、たすけて。
 嗚咽交じりに漏らされるその声はあまりに細く、だから戸の内はおろか、外までなど届くわけがなかったのだけども。ずるずると扉にとりすがったまま崩れ落ち、冷たい床に座り込みながらも、なおも桜は叫ぶ。

「だして、……おね、が、……出、」

 冷え切った頬を涙が伝った。桜は泣きながら扉を叩く。もはや息の仕方もわからない。声の出し方もわからない。四肢の動かし方もすべてがわからない。冷たく暗い闇に身体が飲み込まれていく。

「やっ、いや、――……きよせ…っ…」

 そのとき、がたんと、それまでどれだけ叩いても沈黙していた扉が動いた。生まれた微かな隙間から射し込んだ光を、桜は見た。



 開けなさいいいえ開けませんと騒ぐ衛兵と沙羅、空蝉をよそに忍び足で土蔵に近づき扉を開けば、果たしてそこには埃だらけになって泣き腫らした少女の姿があった。濡れた緋色が眩しげに射し込んだ光を見やる。こちらの姿を認めると桜はふらりとおもむろに立ち上がった。差し伸ばされた指先が羽織を捉え、ほとんど倒れこむようにして華奢な体躯がもたせかかってくる。

「って。え。何、」
 
 予想外の桜の行動に雪瀬はきちんと受け止めるのも忘れてその場に立ち尽くした。だが、そんなこちらの動揺に構う様子もなく、桜は雪瀬の上着にとりすがって胸に顔をうずめてくる。その身体は小刻みに震え、言葉になりきらない嗚咽が時折混じった。

「……どうしたの」

 震え続ける彼女を見て、雪瀬はそろりと埃と涙でぐしゃぐしゃになった頬に手のひらをあてがった。ためらいがちのそれに桜は一生懸命頬を寄せようとする。それでもまだ足りない様子で額を胸にこすりつけた。少しでもこちらの体温が欲しいらしかった。
 けれど、いったい何がどうしてこんなに怯えきってしまっているのか。はかりかねて雪瀬が視線を上げれば、蔵の中からちょうど出てきた柚葉と目が合った。とたん柚葉はしまったというような表情をし、唇を噛む。

「――……兄さま。その子を私に渡してください」
「わたして、って」

 説明などを一切すっ飛ばした物言いにさらに困惑し、雪瀬は桜へと視線を下ろす。腕の中で嗚咽に喘いでいる少女は到底普通の精神状態とはいえない。ここまでひどい怯え方をした桜を雪瀬は見たことがなかった。
 こんな、抱き寄せても腕に余るくらい小さいのに、震えて、泣いて。それでも懸命にこちらに向けて伸ばされた手を離せるわけがない。そんなこと、できるわけがない。雪瀬は桜を自分のほうへ引き寄せて、柚葉から目をそらした。

「……いやだ…」
「そうですか」
 
 返ってきた声は無情そのものだった。
 刹那、ぱしん、と鋭い音が鳴る。柚葉が桜の腕をつかんで引き立たせ、その頬を叩いたのだ。

「な、」

 何をするのだ、と言いかけたこちらの頬を柚葉がまた叩く。ぱしん、どころかばしんという音だった。桜よりも容赦というものがなかった。

「いい加減になさい!」

 きょとんとして、頬に手をあてがうこちらを射殺しでもするように柚葉が睨みつける。

「まだおわかりになられませんか。あなたがしているのはね、兄さま。優しさなんかじゃありません。ましてや慈しみや愛情などでは。あなたはこの子を甘やかしているんです。この子の弱さから一緒になって目をそらし、体のいい同情と憐憫でごまかしてあなたは自分自身をも甘やかしているんです!」

 ゆ、柚葉さま、と驚いた風に間に分け入ってきた衛兵を「お前はすっこんでなさい!」と一喝して追い払い、柚葉は若干及び腰になったこちらへつかつかと歩み寄った。

「訊きますが。あなたは、――そんな風に抱きしめていることであなたは、その子を救えるんですか。どうなんです兄さま。あなたはそうすることで今までその子を苦しみの淵からすくいあげることができたのですか。――そうなのだと、本気で兄さまが、本当に、本気で、そうお考えになるなら、いいです。もう何も言いません。ずっと抱きしめていたらいい。ずっとずっと一生、抱きしめていたらいい。兄さまなんか骨と皮だけになって灰になるまでその子だけ抱きしめていたらいい!」

 雪瀬は言葉を失う。愕然となって柚葉を見つめると、彼女はおそらく頬など叩かれたことがないせいで同じように放心している桜へ向き直った。

「答えて、桜さま。あの夜あの場所で、真砂さまは死んだのですね?」

 桜は緋色の眸をゆっくりとひとつ瞬かせる。それから怯えたように首を小さく振った。目尻に滲んだ涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

「桜さま」

 近づいた柚葉から後ずさり、桜は助けを求めるようにこちらを振り返る。不安げに、ぎこちなく、まるで儚い糸をたぐるように握り締めてきた手を、雪瀬は握り返してやることができなかった。彼女から逃げるように俯いたきり、その肩を引き寄せてやることも、その頭を撫ぜてやることもできなかった。
 ――わからなくなってしまったのだ。雪瀬はひとのこと救えたことなんかない。悲しませたことしかない。苦しませたことしかない。なのに、どうして、どうやって泣いている彼女を助けるというのだ。わからなかった。全然、わからなかった。どうしたらいいんだろう、どうしたら彼女をまた笑わせることができるんだろう。ぐるぐると自身を追い立てるように問いが回り、しまいには何をしてもすべて間違っているような気がしてきて身動きすらとれなくなる。……自分には、何ができるのだろう。

 くいくいと指を引っ張って、袖端を引っ張って、それでも雪瀬が動こうとはしなかったので、桜は眸を大きくしてまるで親に捨てられた子犬のような表情をした。するりと手のひらをつかんでいた指先が解けて落ちる。その小さな身体が離れ、逃げるようにして消えていくのを雪瀬はただ見ていることしかできなかった。




 ええと、と柚葉は呟く。

「……平気、ですか」

 微妙に気まずい沈黙のあと、こほんとひとつ空咳をして柚葉は衛兵に持ってこさせた濡れた手ぬぐいを渡してきた。それを受け取りつつ、雪瀬は濡れ縁に腰を下ろして息をつく。衛兵に下がるように言って隣に座ると柚葉はおずおずこちらの顔を覗き込んだ。そしてなんだかほっとした風に愁眉を開く。

「――よかった」
「……何?」
「泣いてたらどうしようって思ってたんです」
「泣くか。叩かれたくらいで」

 吐いて捨てたものの、それでもじんじん痛む頬に手ぬぐいを押し当てて、雪瀬はふぅともう一度深く息をついた。

「……ごめん。俺が悪い」

 冷静になってみれば、柚葉の言うとおりであった。
 あそこで泣いている桜を抱きしめていったい何が変わるというのだ。そんなの、一時の気休めにしかならない。真砂のことが事実である以上、目を覆い耳を塞いだって綻びは訪れるし、底に沈めた記憶は浮き上がっては彼女を苛み続けるんだろう。何の救いにもならない、と思った。 そもそも、雪瀬の背負うものが雪瀬のものでしかないように、桜が背負うものもまた桜だけのものなのだから、それをどうこうしてやろうと思うこと自体、間違ってるんじゃないのか。

「そう気を落とされますな」

 柚葉は苦笑して、こちらの頭に手を伸ばす。

「兄さまが『そう』なのは、私、兄さまがひとの痛みを理解できるからだと思います。そしてそれはきっと一番大切なことだと思うんです。あなたは、ひとを幸せにする力を持っている」

 そんなたいそうな力があるならわかりやすく刀の形にでもなって出てきてくれればいいのに、と雪瀬は思った。それから妹に頭を撫ぜられている自分に気付いて憮然となり、身をよじって目を伏せた。