五章、椿



 六、


 走った。逃げるように、走った。
 後ろを振り返れば、得体の知れない恐ろしい“何か”に足を絡め取られてしまいそうで、桜はただひたすらに、襲ってくる暗闇から逃れるようにその場所を目指して走る。次第に息が上がり、凍えた心臓は破れんばかりに痛んだ。苦しくて、少しでも多くの空気を取りこもうとするのだけど、それは喉のあたりで空回るばかりでうまく胸の奥のほうまで届いていかない。

 だから、その場所に着く頃にはかなり呼吸が乱れてしまっていた。
 桜は冷や汗ともつかない汗をぐっしょりかき、膝に手をついて大きく息を吐く。
 眼前にたたずむのは、橘分家のお屋敷だった。

 顎を伝う汗をぬぐって、俯いていた顔を上げるなり、ささやかな違和感が脳裏に燻る。考えて、ああと桜はすぐに気が付いた。門から門衛がいなくなっているのだ。

 守るひとのいなくなった門を押して、桜は中へ足を踏み入れる。
 乾いた木枯らしがひゅうと吹きぬけた。右手に広がる庭に植えられた木々が弱々しく枝をしならせるが、それだけで、それらを手入れをする庭師もいなければ、厩に馬もいない。申し訳程度に設けられた池は水が涸れて干上がってしまっている。そこにはどこか生活臭というものが欠けており、まるで屋敷全体が無人であることを主張しているみたいだった。
 ――そんなわけがない。誰もいないわけ、ない。
 桜は眼前に広がる光景から顔を背け、玄関のほうへ目を向ける。門と同じように扉が閉められていたので、濡れ縁のほうから屋敷に上がった。

「……真砂、いる?」

 たくさんある部屋のどれがかの青年のものであるのか、桜はよく知らない。なので、屋敷の内側全体に向けて呼びかけてみたのだが、声は奥のほうへ吸い込まれたきり、しんとした静寂が返ってくるばかりだった。

「いないの?」

 あたりを見回す。勝手に上がりこんだ上、あまつさえ声を響かせているにもかかわらず、使用人が駆けつける気配はなかった。屋敷はうっそりした静寂に包まれている。
 まだ少し上がっていた呼吸を整えると、桜ははじからひとつひとつ部屋の襖を開いて中をのぞいていった。

「誰か、いる?」

 返答はなく、色褪せた畳と障子のふたつきりで構成されたつまらない光景が続く。たまに違う手ごたえがあったかと思うと、それは書物の詰まった棚であったり、ただの厠であったりした。
 部屋をひとつ過ぎるごとに、次こそはというほのかな期待とそれを打ち砕かれた落胆とが交互に訪れ、焦燥が胸の中で膨らんでいく。
 やっぱり、真砂はもう本当にどこにもいないんじゃないか。頭の片隅の冷えた部分が言い、桜は泣きそうになりながら何度も首を振った。
 どうして出てきてくれないのだろう。いつもは頼まなくても勝手に現れるのに、何で今日だけ。喉をついて出そうになる嗚咽を噛み殺し、桜は口内で呟く。はやく出てきてよう……

 微かな異臭を嗅ぎ取ったのはそのときだった。
 伏せがちになっていた目を上げて、桜は唖然とする。
 そこは、今まで見てきたどこの部屋とも異なっていた。
 鼻を刺す、独特の墨の匂い。本などが積まれて雑然とした部屋の中は壁から天井、畳など至るところに蚯蚓ののたくったような文字や落書きが綴られている。
 天井に書かれた文字へ首をめぐらせ、桜は細く息をのんだ。
 あ、と直感する。
 これ。真砂の。

 ふらふらと引き寄せられるように壁へ歩み寄り、そこにのたうつ乱れた落書きのひとつに触れる。
 金魚の尾ひれのような不思議な形の花弁。周りを彩る字は汚いのに、俯きがちの花は少しびっくりするほどうまい。なんていう花だったかな、と桜は花弁をなぞりながら考える。確か爪を赤くするのに使うからツマベニソウ。またの名を――。
 
「鳳仙花」

 続いた声に桜は目を瞬かせる。




「――っていうんよ、それ。面白いだろー?」

 薄紅の花弁はいつの間にか滑らかな感触を持って手におさまっていた。
 青空と、強い太陽の光。
 足元の影に重なるようにくっきりと濃い、長身の人影が落ちる。
 驚いて桜が顔を上げれば、そのときには声のぬしはすでに隣にかがみこんでいて、説明をしながら筆で青空へ向けて“鳳仙花”という字を書き記してみせているところだった。無造作に束ねられた長い濃茶の髪が動きに伴って背中で揺れる。

「別名は……はて? 爪紅草だったかな。鳳は不死鳥の名、仙は生きる神、つまりはとっても縁起がよい花なのだっ」

 そんなに楽しそうに言われても、と。ふぅん、とそっけない反応を返すくらいしかできない桜に、ふぅんって、と青年は何だか物足りなそうな顔になって口を尖らせる。それから、ずずいとこちらへにじり寄ってきた。

「……あのね、お嬢さん。ちゃんと覚えてます? アナタの目の前にいるこの見目麗しい男はな。聞いて驚け! 橘一門分家嫡男にして当主の、」
「まさご……?」

 勢い込む青年を遮って、桜はか細い声を上げた。
 懐かしい名前を口にすると、さんざん泣き腫らした眸からまた飽きもせず涙が零れ落ちる。

「――ってあれ。なんだ、覚えてたん? 鶏頭がめっずらしー」

 飄々と軽口を叩きながら橘真砂はこちらを振り返り、おやっと笑みを消した。調子を崩された風に頬をかいて、首の後ろに手をやる。なんでこいついきなり泣いてんだ、とでも言いたげだった。

「……ああ、そりゃあね。俺ってこの通り感涙もんのウツクシサですし? 見ただけで涙が出ちゃうのもわからなくもないけどさ」

 本人は至って真面目に悩んでいるようだったが、それはとても的を外した推理だったので、とりあえず軽く首を振って、感動もしてなければ美しくも思ってないことを伝えておく。桜は手の甲で目をこすりながら、もう片方の手で青年の袖端をきゅっと握り締めた。
 きちんと手ごたえがあるのを確かめ、次におそるおそるその頬を触った。それはうら若い男女の情があまり感じられない、陶芸家が陶器の出来具合を調べるような手つきであったので、触られた青年は気分を害した様子で蝿でも追い払うように手を振る。その手を今度は握り締める。あたたかかった。

「ほんもの、だ……」

 夢じゃない。真砂だ。本当に、嘘みたいだけど、真砂だ。
 それまで張っていた緊張がぎこちなくほどけていくのを感じて、桜はひゅっと嗚咽とも吐息ともつかない声を漏らす。堰を切ったように言葉が口をついて出た。

「どこ、行ってたの? ……なんで、ずっと、どこ……、」

 しゃくりあげて言葉を切る。
 桜は真砂の自分よりずっと高い位置にある胸に両手でとりすがった。
 
「探してた。ずっと、どこ行ってたの?」

 返答を待つ。真砂がちらりとこちらを一瞥したので、きっとまたいつものちょっと気圧されるくらいのお喋りが始まるのだろうと身構えたのだが、返されたのは奇妙な間だった。沈黙。あれ、と桜は首を傾げる。

「――……真砂。聞いてる?」

 無言。

「真砂?」

 普段はものを喋らない自分が一生懸命言葉を連ねて言い募る一方、いつもは饒舌な青年はこちらの声なんて聞こえてないみたいにぺしぺし鳳仙花の葉を筆先でつついて遊んでいる。なんだか自分だけが空回っているような気分になって、桜の胸にふつふつとさっきまでとは別の感情が沸いてきた。端的に言えば、腹が立ったのだ。どうにかしてこちらを振り向かせたくて、桜は青年の肩にかかっていた髪を思いっきり引いた。痛っと片頬を歪めて真砂がようやくこっちを見る。

「……ナンですか」
「どうして、言葉かえさないの?」

 じっと睨んで、桜は腹立ち紛れにまた濃茶の髪を引っ張る。ぐいぐいぐいぐいと引っ張る。変な手ごたえがあって、気付いたらぶちっと数本抜けた髪の毛が手の中に。

「あ」

 わざとではなかったので、びっくりして色素の薄い髪の毛へ目を落とす。どうしよう。上目遣いに真砂をうかがうと、彼は驚愕に目を見開いてから、なー!?と耳をつんざくような叫び声を上げた。

「おまっ俺の! 俺の御髪になんてことしやがる!」
「ミグシ」
「か・み! あのなぁ知らないだろうけど橘一族って六十過ぎると総じて禿げ上がるんだからな! 大切なんよ髪は! 命の源なんよ! ああくそ返せ、そのぶん返せっ」

 答える間もなく頭髪を鷲づかみにされる。痛い痛いともがくが、まったく手加減なしに引っ張られ、しまいにぶちっと数本抜き返された。目の前が一瞬白くなる。とんでもなく痛い。

「へっへっへ、目には目を、髪には髪をってな」

 抜いた髪を地に捨てながら腕を組んで笑う青年は悪人以外の何者にも見えなかった。ひっく、と喉が震える。眦に涙が滲んでくるのを感じて、桜は眉根を寄せた。それを見て、真砂が小馬鹿にしたように肩をすくめる。

「こんくらいで泣くなんてお子様デスネー。喧嘩は泣いたら負けなんですぅー」

 意地悪く言われて、桜の嗚咽はますますひどくなった。止めようにも逆にむせて咳を繰り返す始末。――真砂はひどい。桜より四つも年上なのに、力にものをいわせるなんてずるいではないか。少なくとも雪瀬は絶対桜の髪を引っこ抜いたりしない。意地悪で、めちゃくちゃで、本当に、このひと、キライだ。
 しゃくりあげながら桜は昂ぶる感情がもうどうにもならなくなってしまって、だって、と弱音をこぼす。

「だって、真砂が言ったのに……」
「ハイ?」
「おれが呼ぶまで目瞑ってって。どこにもいかないって。言った、の真砂なのに、ずっと、どうして、」

 どうしていなくなっちゃったの。
 思いのままに紡ぐ言葉はだんだん相手をなじる風を帯びてくる。
 わたしはこんなことが言いたかったんだろうか。こんなことを思っていたのだろうか。よくわからなくなってきて、俯き、口をつぐんでしまうと、それまで桜の言葉を聞くともなしに鳳仙花をいじっていた青年が不意に喉奥からくつくつと笑い声を漏らし始めた。

「ああそれ。その話。ふっふーん? ほんと甘いねぇ桜サンたら」

 桜は眉をひそめ、あまい?と真砂の言葉を鸚鵡返しにした。

「ええそれはもう。甘い、甘い。すっげぇ甘い。アナタときたら、まるで俺というものがわかっていらっしゃらない」

 やれやれといった風に首を振って、真砂はきょとんとする桜の鼻先に筆先を突きつける。

「なんだっけ、どこにもいかないだぁ? ――そんなもん知るか! だって俺、嘘吐きだもんっ。約束なんか全っ然守んないもんっ。いやぁ健気に信じるだけ無駄でしたなぁ! 桜サンったらかわいそーに、正直者は馬鹿を見るっていうかね、あっはっは!」

 けたたましい笑い声と一緒に、ぴんと不意打ちで額を弾かれ、桜は少しよろけた。熱を帯びた痛みが額に伝わる。それがまた涙腺を刺激し、止まりかけていた涙がこみ上げてきた。
 苦しい。
 真砂は笑っているのに、涙が止まらなかった。馬鹿にされているのに、悲しくってたまらなかった。
 だって、わかってしまった。真砂は桜たちのもとへは帰ってこないんだって、わかってしまった。目の前が真っ暗になる。微かな望みを断ち切られたような気分になり、桜は必死に嗚咽を殺そうとすることしかできなくなった。笑い声が、つらくてたまらなかった。

「って、おや? 何、その柳の下に立っている幽霊みたいな陰鬱きわまりない上みすぼらしさ倍増の気味が悪い顔」

 口元を抑えている桜をひょいっと見やって、真砂は少し何かを考えるように言葉を切った。すぐ近くにある琥珀の眸がふっと細まる。

「へぇ。そんなに俺が恋しい?」

 下からのぞきこむようにして問う。
 だけど、投げかけられた言葉のほうはちっとも真剣ではなくて、ただこちらの反応を愉快がっているようにしか聞こえなかった。せめてもの抵抗とばかりに桜はふるふると首を振る。そのたび、涙が空に散り、それを見られるのが嫌で目元を手で覆った。

「なーに、恥ずかしがるこたぁないんよ」

 うずくまってしまった桜を相変わらず筆先でほれほれとつつきながら、彼はこちらの気持ちなんて一切無視した、馬鹿みたいに明るい声で続ける。

「むしろ胸を張って言いたまえ、橘真砂最高と! いやーもてる男はつらいねぇ。まぁそりゃ雪の字の情けなさを目の前にしたらこの機知と美貌と才能の三点を備えたもはや人を超えちゃってる俺さまが光を背負って見えるのもわからなくはないですがー? うん、俺もさ、常々思ってるんよ。俺がもし女だったら、絶対俺と結婚していたな……、って」

 そこで急に寂寥感を帯びた笑いを浮かべ、真砂は芝居がかった仕草で胸に手を立てた。でもそれも寸秒のこと。すぐに表情を切り替え、くるっとこちらを振り返る。

「まぁでもごめんね桜サン。その気持ちには深く共感するけど、俺生涯を誓い合ったひとがいるんで、お気持ちだけアリガタク。あ、なんなら記念に熱い抱擁でも交わしあう? 長くてふかぁい接吻でも結構ですよ。それともいっそイケナイことする? どうするどうする、ほれほれほれ」

 筆先で額や鼻先をくすぐられて、桜は逃げるように顔を背けた。だが筆の攻撃は止まないばかりか執拗に自分を追ってくる。――もう、嫌だ。筆を押しやって、身をよじろうとする。それを後ろから腕をつかんで阻まれた。振り返れば、にやりと嗜虐的な笑みを浮かべる青年の顔が目に入り、それから目の上に手のひらをかぶせられる。両目が塞がれると、視界は暗く閉ざされた。

「……や、やだ。離、」

 さっきからいったいなんだというのだ。
 添えられた手を引き剥がそうと暴れるも、自分より大柄な青年はびくともしない。それでもしばらく無意味に手を振ってみてから、疲れてきてしまって桜は仕方なく抵抗を止めた。

「……ホウヨーは、いらない」

 もちろんセップンもである。

「ああ雪の字にやってもらうまでたいっせつにとっとかんとね」
「……」

 返ってきた真砂の言葉に存外生々しい想像をしそうになったので、軽く頭を振り、桜はすっと真砂の手のひらに自分の手を重ねた。桜の小さな手では覆うことのできないくらい大きな手。
 不意に毬街の賑やかな大通りの声が耳奥に蘇った。
 以前、この手は強引に、ここ以外にもまだ楽しい場所はたくさんあるんだとでもいうように、桜を外に連れ出してくれたのだった。慣れない場所へ引っ張っていかれるのがそのときの桜は怖くて、それでいてどこか新鮮だった。猿芸はつまらなかったけれど、しゃぼん玉は綺麗で、買ってもらった簪は今も大切な宝物である。
 わたし、としばらくしてから桜はぽつりと言った。

「……私、真砂のこと、キライじゃなかった、よ」

 一拍間が空いたあと、すぐにへぇぇぇぇー?と興味深そうな相槌が返ってくる。

「そう。ようやくこの神々しさすら感じる俺さまのミリョクに気付きましたか。いやー遅すぎたくらいじゃないの」
「うるさくて嫌だったけど」
「うん俺も可愛くない餓鬼大っ嫌い」

 すかさず辛辣な応酬が返され、けれどそれよりもずっと柔らかな苦笑が耳朶に触れる。大きくて、温かい、この手のひらがずっとどこにもいかなければいいのに、と思った。手のひらを通して伝わる青年の存在が、微かな息づかいが、体温が、消えてしまわなければいいのにと思った。だってもっと、話したら。もっとたくさん話したら。桜は真砂のことを、スキになれたかもしれないのに。もっと、ずっと、好きになれたかもしれないのに。

「これから三つ数えます。桜サン、三つ数えたらそこは光でいっぱいなんよ」
「う、」
「嘘じゃない。今度は。だからもうそのうざったらしいイジイジはおしまいにしましょうねー。はい、さーん、にーぃ、いち、」
 
 ぱっと手が開かれる。刹那、ふつりと真砂の気配が消えた。
 喉奥で笑う彼独特の声が耳を撫ぜ、気がつけば桜は部屋の中にひとりでいた。




「鳳仙花」

 声がして、桜は目を瞬かせる。
 ――恐る恐る振り返ると、そこにはひとりの老人が立っていて、「――でしょう、その落書きは」と優しく笑いかけてきた。見知ったひとではない。不思議そうに瞬きを繰り返す桜とは対照的に、老人は部屋の中に勝手に上がり込んでいた桜にも別段驚いた風でもなく、手に持っていた花籠を畳に置き、少し埃の積もった文机を濡れた手ぬぐいで拭き始める。

「……あの、」

 いったいこのひとはどこの誰なんだろう。桜が意を決して声をかけると、老人はああと今しがたそれを気付いたようにうなずいた。振り返らずに言う。

「すいませんね、怪しい者ではないんです。この家に長く仕えていた者です。――もう、少し前になりますか。他の使用人たちには暇を出したのですが、わたしはなんだか気になってしまって。たまにこうしてこちらへ足を運んで掃除をさせてもらっているのです」

 少し髪の薄くなった後頭部をつるりと撫ぜ、老人は穏やかな人柄がふっと透けるような笑みを浮かべた。一通り柱や棚の上を拭き終えると、ようやく人心地ついたのか改めて桜に向かい合う。

「あなたさまは確か、橘の」
「……さくら」
「そう、桜さまですか」

 相槌を打ち、老人は持ってきた花籠を机の片隅に置こうとした。それから思い直した様子で、桜のほうを振り返る。

「綺麗に咲いたでしょう」

 竹で編まれた簡素な花籠には深緑の葉と大きな赤い花が生けられていた。まだ刈り取られたばかりなのか、葉の色はみずみずしい。だけど、花は。
 表情を曇らせた桜には気付かない様子で老人は続ける。

「この家のあるじは、椿をこよなく愛していたのです。落ちた花の形がひとの生首のようじゃと多分に忌み嫌われる花でもあるのですが、如何せん変わった方なのでそこを好んでいた。――曰く、『死とは醜くみすぼらしくあっけのない、なるほどこの花の散りざま通りではないか』と」

 挿してあった花を取ってこちらへ差し出すと、老人は皺の寄った眦を柔和に下げて微笑った。

「妙な話をして申し訳ありませんね。でも、お嬢さんの黒髪にはよくお似合いだと思ったのです。それが、嬉しかったのです」

 差し出されるがままに花を受け取り、桜はその赤い花に目を落とす。
 痛みきって茶色く変色し始めた赤い花弁をつと涙が弾いた。それを頬にすり寄せて、桜は細い喘ぎ声を漏らす。そうすると、もう、止まらなかった。表情が崩れる。やだああああああと声を上げて桜は泣き出した。泣き止むことなんて、できるわけがなかった。できるわけがない。泣いても泣いても狂うほど泣いてもそれでも治まらない衝動のはけ口など、あるわけがなかった。
 どこにもない、と椿を抱きしめて桜は思った。