五章、椿



 七、


 その夜の月はさながら細い爪痕のようだった。

 ゆらゆらと湯気の立ち上る水面を三日月が漂っている。
 息を吹くと、すぅっと月が漣だった。光が揺れて、また、もとの爪痕に返る。ひとしきり無為に水面で揺れる月を眺めてから、柚葉は檜の風呂板に背を預けて目を伏せた。ほつれ落ちた髪が湯の中を海藻のように漂う。
 橘の家の風呂はたいていが薬湯だ。なんでも初代華雨の代の頃からこうなのらしい。つんと香り立つ葉が昼にたまった疲れを解きほぐしてゆき、柚葉はほうとさっきよりも少し軽くなった息を吐き出した。波立った水面へ高い位置にある格子から射し入った光が三日月を描き出す。
 何かに惹かれたようにそれへ手を差し伸ばした。だがつかみとった瞬間に、ゆらりとまた波が立ち、月は泡沫と消える。

「なんとも儚いもの……」

 苦笑し、柚葉はからのこぶしを握り締めた。


 
 湯船から上がると、浴衣に身を包んで柚葉はまっすぐ自室へ向かう。
 何でもかのわら人形夫婦によれば、桜はまだ屋敷に戻ってきてないらしい。その少し前に、治水の話をしに宗家に来ていた長老が用事が終わるや雪瀬さまがどこかへすっ飛んで行ってしまった、と首を傾げていたので、その“戻ってこない桜さま”を探して今頃葛ヶ原を走り回っているのだろう。
 かような寒い夜にご苦労なこと、と柚葉は少し呆れて思う。

 兄は淡白だが、それは上っ面だけの話であって、本当は呆れるほど愛情深いのだ。
 たとえば子供の頃、雪瀬は花や動物を育てるのがとても下手だった。朝顔の種を植えれば水をやりすぎて腐らせてしまうし、猫を飼えば構いすぎて頭を禿げさせてしまう。いつもそうだった。枯れた朝顔の前で途方にくれる兄の姿を柚葉は何度見たことだろう。
 つまり愛情が深いというのは裏返せば愛情が重いということで、そういうのは必ずしも相手に対してよい方向に働くとは限らないのだ。少なくとも、今回はよいほうには転がらなかった。

「それでもやはり、私は言い過ぎたんでしょうか」

 何も桜さまの頬まで張ることはなかったのだろうか、と温めたせいでじんじん疼いてきた手のひらへ目を落とし、柚葉は嘆息する。
 ――正直なところ、少々追い詰めすぎてしまったという自覚がある。
 あのときは真砂の話を聞きだそうと躍起になってしまい、桜のほうにまったく気が回ってなかった。もう少しうまい方法があったかもしれないのに。
 柚葉は疼くこめかみに手をあて、細く、長く息を吐き出した。
 己の気を引き締めるように軽く頬を叩くと、柚葉はもう一度兄と桜を思い浮かべ、心を決める。廊下を早足で駆け、外出用の衣に着替えるべく自室の襖を開けた。
 仕方なかったとはいえ、やはり自分にも責任がある。万が一明日の朝、海に少女の死体が浮かんだりなどしたら寝覚めが悪すぎる。
 だが、そのときの柚葉は気がせぐあまり部屋の中の気配に心を留めてなかったし、誰かが中にいる可能性など考えてもいなかった。
 暗い室内で、かさ、と微かな衣擦れの音が立ち、座っていた人影が顔を上げる。自分が掲げた手燭に照らし出されたその顔を見て、柚葉は息をのんだ。
 桜だった。




「湯冷めしてはいけませんからね。ほら、七輪の近くに来てください」

 明かりのもとで見たそのときの桜ときたらそれはひどい有様だった。
 涙で顔をぐしゃぐしゃにし、さらにはどこをどう歩いて帰ってきたのか埃だらけの泥まみれ。
 事情を知らぬひとが見たら、いったいどうしたのだろうとまず眉をひそめたくなるような状態になっていた少女を、柚葉はひとまず湯殿に引っ張って行き、問答無用で衣をはがしていった。ごしごしと洗って汚れを落として湯船で温まらせ、さらに身体を拭いて髪を拭いてまた自室に戻ってくる。使用人のひとりに夕餉を用意するよう頼み、それから桜と入れ違って未だ冬の葛ヶ原を彷徨っているのであろう憐れな兄を連れて帰るよう無名に命じておいた。
 これらにかかった時間が、約半刻。
 宗家を飛び出した馬が毬街の関所にちょうどたどりつくくらいの時間だ。

 うっすら湯気を立ち上らせている桜の手を引いて七輪の前に座らせると、柚葉はその後ろに回ってまだ濡れている長い髪を手ぬぐいで叩いた。
 ぱんぱんと叩かれる衝撃にぼんやりしていた意識を引き戻されたのか、桜は少しだけ身をすくめる。
 ここまでの一連の流れを桜は何も言わずにほぼなされるがままになっていた。出て行ったときよりは落ち着いている風だったが、如何せんこの少女は無表情になってしまうと何を考えているのか柚葉にはいまいちわからないので、また突発的に泣き出す可能性はあった。

「……兄さまが、もうすぐ帰ってくると思いますから」

 怖がらせないようなるべく穏やかな声を繕って囁く。
 さりとて柚葉が近くにいては怯えが増すばかりだろう。
 どうして自分の部屋に紛れ込んでいたのかはわからないが、そう判断すると、柚葉はさりげなさを装って部屋から出ようとする。だが、その袖をつい、と差し伸ばされた手によって引きとめられた。

「……桜さま?」

 柚葉は目の前の少女の意図をうかがうように首を傾げた。
 桜のほうはというと何やら思いつめた様子で柚葉の袖端を握り締めており、やがて、ふるりと小さく首だけを振った。自分のすぐそば近くの畳を叩く。ここにいてほしい、ということらしい。

 仕方なく促されるがまま桜の前に座り、柚葉は少女を刺激しないよう気を配しながらなんでしょうと目配せを送る。それで柚葉は初めて桜が指先が白くなるほどきつくこぶしを握りこんでいることに気付いた。そのこぶしをさらにもう片方の手で握り締める。白い手の甲にはいくつか赤い爪痕が残っていた。
 さっきの、細い月のような爪痕。
 彼女はそうすることで、――己の肌に爪をきつく突き立てることで、震えそうになる身体を抑えているのだと、少ししてわかった。顔色が悪い。ついさっき湯船で温まらせたにもかかわらず、肌は赤みが射すどころか紙のように白くなってしまっている。

「……桜さま」
「――はなす」

 柚葉が身じろぎをしようとすると、それを跳ね除けるような芯の強い声が返ってきた。緋色の眸が自分を捉える。

「あの夜のこと、話す」

 だから、きいて、と桜は言った。




 途中何度か途切れがちになりながら、桜がなんとかあの夜の顛末をすべて話し終えると、「そうですか」とそれまで黙って耳を傾けていた柚葉がぽつりと呟いた。

「では、あの夜銃を撃ったのは暁で、真砂さまは負傷したのち崖から落ちたと」
「……うん」

 桜はうなずく。

「なるほど……。これで真砂さまの遺体が未だ見つかっていないのもうなずけますね。私たちの最大の失敗はあのとき銃を持った暁を葛ヶ原に入れてしまったことですか」

 呟き、柚葉は何かを考え込むように顎に手をやった。
 それを息をひそめて見守っていると、こちらの視線に気付いたらしい。目を上げて、柚葉はふと真剣そのものだった表情を和らげた。
 
「――お話ありがとうございました桜さま。これで、確証がとれました」
「……ゆず、」

 丁寧に頭を下げられる。
 でも、話はまだ終わっていない。まだとても大切なことを桜は言えていない。
 緊張で高鳴る胸を抑え、桜は頼りなく彷徨わせた視線を柚葉へ定めた。

「……わ、…」

 口を開くも、とたんに気持ちが萎んでいってしまう。そんな自分を叱咤して、桜はぎゅうっと汗ばんだ手をもう一方の手でつかみながら言葉を継いだ。

「わたし。たぶん真砂、逃げれたから、……だからわた、し。……私、の、」

 せい、と吐息がこぼれるようにその言葉は落ちた。桜はついに目をあわせていられなくなって下方へ視線を落とす。『それ』は本当は認めたくなどない感情だった。『それ』を認めたら、桜は足場のない、深い闇の底に落とされてしまう。だけども、必死に目を閉じて耳を塞いでいてもつらいのは一緒なのだった。
 桜のせいだ。ぜんぶ。
 真砂がいなくなってしまったのも、暁を野放しにしてしまったのも、自分のせいなのだ。桜が弱い、せいなのだ。そう思ったとたん、本当に目の前が真っ暗になり、身体が芯から冷えいるような感覚にあう。今にも涙をこぼしそうになるのを抑え付け、桜は奥歯を噛んだ。

 泣くのはだめだと思った。
 泣いて、慰めてもらうために桜はここに来たのではないのだし、それに、桜が泣くと、――雪瀬は。
 雪瀬は、とてもやさしいから、かわいそうに思って、桜を庇う以外できなくなる。たぶん、自分はどこかでそれをわかっていて、ちゃんと気付いていて、いつもあの腕にすがっていたのではないだろうか。
 それは改めて考え直すと、あまりにむごいことだった。桜を庇おうとして頬を叩かれた雪瀬がかわいそうだった。柚葉に叩かれた頬がじんじん痛んでくるまでそういう風に周りのひとに目を向けられなかった自分は、真砂の言うとおり本当に鶏頭だったのだ、と思う。

 もう同じこと、繰り返したくない。
 桜は爪が食い込むほどきつくこぶしを握り締め、胸の奥から沸いてくる泣きたくてたまらないような衝動を押し殺して、精一杯きちんとするよう心がけながら目の前のひとに対峙する。
 柚、と少女に向けて呼びかけた。

「――わたしは、何をすればいい?」
 
 濃茶の眸がふと瞬く。柚葉は桜をうかがうようにしてから、やがて何を思ったのか、手招きをした。桜は言うとおりに膝をつめる。柚葉の手が振り上げられたので、桜はまた叩かれるのだろうと思って少し身をすくめた。だが、いつまでたっても前のような衝撃は来ることがなく、代わりにそっと肩を引き寄せられる。少女の胸に突っ伏してしまい、桜はおずおず眸だけを上げた。

「もう夜も遅いのでお疲れでしょう」

 別のことを言って、柚葉は桜の背に腕を回した。雪瀬とはまた異なる、女のひとらしいしなやかな手が背中をあやすように叩く。何度もそうされているうちに、最初頑なに強張っていた身体から徐々に力を抜けていった。眠っていいですよ、と耳元で囁かれる。

「どうするかは明日お話しましょう。あとはどうか、我ら一族へお任せあれ」

 最後の一言がとても心強い。
 ぎこちなく顎を引き、桜は柚葉の胸に顔をうずめた。
 微かな薬草の匂いがふわりと鼻をくすぐる。優しく丁寧に髪を梳く手に促され、桜は目を閉じた。あたたかい。なんだか、泣きそうになった。
 やがてどっと疲れが押し寄せ、桜の意識はゆるゆる溶けていった。