五章、椿
八、
「――お疲れのところ申し訳ありませんが、兄さま。朝になったら桜さまを瀬々木さまのところへ連れて行ってはもらえませんか」
無名に引きずられて雪瀬が屋敷に戻ってきたのは、もう明け方に近い、空が淡く白み始めた頃だった。部屋の隅で眠っている桜を見るなり雪瀬は脱力した様子で畳にへたり込み、今は寒い寒いと言って七輪に手を当てている。その肩にかけられた上着は冬の冷気から降りた霜が溶けたせいでうっすら湿っていた。
熱い梅こぶ茶を淹れ、渡してやりながら、柚葉が告げると、雪瀬は少しばかり不可解そうな顔をして聞き返す。
「瀬々木のとこって? 何で?」
「どうやら近頃食欲不振の上、不眠の気があるようなのですよ桜さま。だから一度瀬々木さまのところで診てもらってはいかがかと」
ようやく寝付いた桜を起こさないように、極力声を落として柚葉は兄に囁く。話の内容自体には思い当たるところがあったらしく、雪瀬は驚いたり動揺したりすることはなかったが、別のところで何かわだかまりがあるらしい。気乗りしない風にそっと目をそらす。
「……よりによって、何で俺」
「何で、というのはないでしょう。他に誰が連れて行くっていうんです?」
今まであれだけ世話を焼いていたというに。それこそ今さらであった。
だが雪瀬は首を振る。
「俺いい、面倒。無名でいいよ。あとで頼んどく」
「――兄さま」
早く話を終えてしまいたいとばかり、畳み掛けるように言うので、柚葉は顔をしかめた。
「叩かれたからって自棄にならないでください」
「や、やけ、になってなんか別に、」
図星だったらしい。たじたじと語を連ね、しかし自分でも言い訳めいていると気が付いたのだろう。しばらく煮え切らない様子で七輪ではぜる炭火を眺めていたが、雪瀬はしぶしぶわかったと言った。
「連れて行けばいいんでしょう連れて行けば」
「ふふふ、その通りです。聞き分けがよくて結構なことです、兄さま」
くすっと微笑って返すが、雪瀬は実際相当疲れているらしい。いつもなら一言二言悪態をついてもおかしくないのに、今に限っては七輪へ目を落とすだけだった。柚葉が燻る炭を箸でいじっていると、そっと盗み見るように眠る少女へと視線をやる。
桜は今、敷いた布団の上に丸まって眠っていた。深い眠りに落ちてしまったのか、柚葉たちの立てる囁き声にも目を覚ます様子がない。雪瀬はそろそろと手を伸ばし、髪の降りかかった頬についたかつかぬかのところでためらった風に指を落とす。結局その手は少女に触れることなく、ただ布団の端を引き上げただけだった。
七輪の炭が音を立てて燃える。雪瀬は息をついて、視線を手元に戻した。それが、枯らした朝顔の前で途方に暮れている小さな子供の姿を思い起こさせて、柚葉は少し切なくなった。
「柚」
「……はい?」
ふっと伏せがちであった濃茶の眸がこちらを振り返る。それが思いのほか冷然とした色を湛えていたので、柚葉は一瞬反応を鈍らせた。
「桜は、何か話した?」
ぎくりと鼓動が跳ね上がる。
器用なことに、この短い間に兄の中では白が黒に転じるようにすんなり頭の切り替えがなされてしまったらしい。
柚葉が若干調子を崩している隙に、「あの夜のこと」と雪瀬はさらに言葉を重ねる。持っていた火箸を置いて、柚葉はあらかじめ考えておいていた言葉を二度三度脳裏に反芻した。
「……ええ。お話になられましたよ」
「なんて?」
「あの晩、真砂さまはやはり崖から落ちたと。間違いないようです」
「うん」
「ですが、突き落とした当人のことは見えなかったと、そう仰っておりました」
告げると、雪瀬がすっと眉根を寄せた。
「……それ、本当に?」
「私が兄さまに嘘をつく必要がどこにあります?」
柚葉はにっこり笑って返す。
我ながら白々しい笑顔だと思った。
*
『――兄さまはどうしたんでしょうか』
そう尋ねたときに颯音が見せた表情を、今も柚葉ははっきり思い出せる。
それは、柚葉の目線が今よりぐんと床に近く、畳の目や、壁の染みや、障子の穴といった取るに足らないものたちが自分の世界で大きな位置を占めていた頃のことだった。その日柚葉が色とりどりのお手玉を持って二番目の兄の部屋に遊びに行くと、中が空っぽになっていた。軽く目を瞬かせ、柚葉はあら?と首を傾げる。――兄さま、いないのか。
もともと二番目の兄というのは家の中よりは外で遊んでいることのほうが多いひとで、何日も家を空けてしまうということだってままあった。今回もまたどうせそうなのだろうとそのときの柚葉はあまり深く考えずに思った。
しかしながら、そのあと三日が過ぎ、五日が過ぎ、十日が経っても雪瀬は戻ってくることがなかった。
「兄さま。いますか?」
半月が経とうとしていた。
その日も柚葉は雪瀬の部屋に足を運び、中に人影がないのを確認するや、しょぼんと肩を落とした。――本当に、兄さま、どうしてしまったんだろう。上の兄に訊こうにも最近忙しそうでこちらもろくに会えていない。
名残惜しげに今一度部屋を振り返り、それで柚葉ははたと目を見開いた。障子のところに微かではあったけれど、小さな影が映っている。見覚えのある影形だった。
「にいさま、いたー」
障子戸を引き開け、柚葉は見つけた濃茶の頭に向かって呼びかける。
果たして雪瀬はそこにいた。膝を抱えて丸まるようにして、濡れ縁に座っていた。
その姿に、一瞬胸のあたりを爪でひっかかれるような違和感を覚えたが、久しぶりに兄に会えた喜びのほうがそのときの柚葉には大きくて、自然笑みが口元にほころんでいく。
「あのね兄さま、柚、兄さまがいない間にお手玉みっつできるようになったんです。ねぇ、すごいでしょう?」
それは柚葉にしてみれば、とても誇らしいことだった。見て見て、とお手玉を取って兄を仰ぐ。だが、反応が返ってこない。雪瀬は膝に突っ伏したきり微動だにしない。その背には柚葉個人に対する拒絶というよりは、外界との繋がりがぷっつり切れてしまったような、まっさらな空虚があった。
「兄さま?」
心配になって柚葉は雪瀬の腕を手で引く。はずみに膝からお手玉が転げ落ちてしまった。中に入った小豆がしゃらしゃら音を立てる。それが足の指にぶつかるに至ってはじめてこちらの存在に気付いたらしい。雪瀬がのろのろと顔を上げた。濃茶の眸を眩しそうに眇めて柚葉を見る。
「……ああ。ゆず」
その声はざらざらとかすれていて、もう何日もひとと話さなかったせいで喉が慣れていないひとみたいだった。
「兄さま、具合が悪いんですか? 柚、大兄さまを呼んできましょうか?」
つかんだ腕がやけに心もとなくなっているのに柚葉は気付いていた。どうしたのだろう、何かあったのだろうかと思って言い募ると、兄はいらないとでもいうように軽く首を振った。かたわらに目を落として、お手玉を拾い上げる。それを柚葉の膝の上に一個一個乗せていき、拾い終わると、今度は柚葉の頭に手を乗せた。ぎこちない仕草で髪を梳く。柚葉は物心ついてから二番目の兄に頭を撫ぜられたことなどほとんどなかったので、呆気にとられてしまった。
「三個、ごめん。また、こんどね」
ざらざらした声で振り絞るように言って、雪瀬はふと霞むように淡く微笑った。柚葉は大きく目を開く。
「兄……」
そのあとはもう怖くて口を開くことができなかった。
どうしたのだろう。兄さまはどうしてしまったのだろう。
だって兄は柚葉に優しく笑いかけてくれたりなんかしない。こんな風に髪を撫ぜてくれたりもしない。いっそ憎らしいほど、いつも柚葉をぞんざいに扱うのだ。こんなの兄さまじゃない。
恐ろしくて恐ろしくて、柚葉はお手玉が廊下にぽとぽと落ちていくのにも気を止めず、上の兄のもとへ走っていった。
「大兄さま!」
自室で文机に向かっていた颯音を呼んで、柚葉はその胸に飛び込む。濃い墨の匂いがした。大兄さまのにおいだ、とほっとしたら堪えていた涙が溢れて止まらなくなってしまった。柚葉はなんだかわけのわからない衝動に流されるがまま、兄さまがおかしくなってしまった、兄さまがどうかしてしまった、と上の兄に訴える。
「おかしくなってもないし、どうかなってもないよ」
颯音は苦笑して、ぐずる柚葉を膝に抱き上げる。
柚葉の手に一個だけ残ったお手玉を見てある程度状況を察してくれたらしい。颯音はきゅっと上着にしがみついた柚葉の背中に手を回して、そのままのんびり柚葉の嗚咽がおさまるのを待ってくれた。
柚葉が“藍さま”や“黎さま”や“凪さま”の仔細を颯音から聞かされたのはこのときが初めてである。雪瀬が家を空けていたのは遊びに行っていたのではなく、長老会の審問を受けていたからだ。すべては柚葉のあずかり知らぬところで進み、終わっていた。
柚葉は傷ついた。勝手に子供扱いをして何も教えようとしてはくれなかった周りに対して怒ったのかもしれないし、あるいはのほほんとお手玉遊びをしていた自分に嫌気が差したのかもしれない。
「雪瀬は今は元気がないけど。少ししたらきっともとに戻るよ。そんなに弱くないし、心配することはない」
安心させるように颯音は柚葉の頭を大きな手で撫ぜる。
――そうだろうか、と、けれどこのとき、柚葉は生まれてはじめて上の兄の言葉に疑問を抱いた。もとに、戻ることなどあるのだろうか。だって柚葉は知っている。小さな切り傷はすぐに治って元通りになるけれど、深く、血肉を抉るくらい深く負った傷は治るのにとても時間がかかるのだということ。たとえ表面上は血が止まっても、醜い傷痕が残ってしまうということ。柚葉はきちんと知っている。
「……柚、兄さまを元気にして差し上げたい」
ひとしきり泣いて、涙が止まってきた頃、柚葉はぽつりと呟いた。
颯音が少し意外そうに目を瞬かせる。
「元気になるのを手伝って差し上げたい。大兄さま。柚は、もっとおねえさんになりたいです」
目元に残った涙をごしごし拭いて告げると、颯音は今度は明確にはっとした顔つきになって、何故か寂しそうな、あるいはとてもとても懐かしそうな、複雑な笑みを浮かべた。強い子だね柚葉は、と呟き、それから思いなおした風に苦笑する。――ああ、きっと母親に似たんだ。呟く声が耳をかすめる。
『母親』。
柚葉を生んでしばらくして死んでしまった、顔も見たことのないかあさまになぞらえられたのがそのときの柚葉にはなんだか誇らしかった。
その夜、柚葉は大切だった人形もお手玉もおはじきもぜんぶ、箱に詰めて押入れの奥にしまった。さようなら、と呟く。さようなら、ちっちゃい柚。朝になったら、柚葉は上の兄さまに負けないつよい子になる。
夜が明け、まだ鶏の鳴く前に起き出した柚葉はひとりで身支度を整え、厩で馬の世話をしていた暁のところへ行った。驚く彼ににっこり微笑む。
「おはようございます、暁。『わたし』、今朝はひとりで起きられました。偉いでしょう?」
*
遠くで明け六つの鐘が鳴る。
冬至が近いのでまだ完全に日は昇っていないが、まもなく夜も明けよう。
部屋を出る前、雪瀬は「そういえば砂色のねずみ見なかった?」と柚葉に妙なことを訊いてきた。首を振って、さらに、ねずみなら夕暮れ暁が屋敷に毒団子をまいてましたよ、なんでも汚いねずみを見つけたそうで、と言い添える。すると雪瀬は面白いほど表情を変え、慌てたそぶりで部屋を出て行った。廊下を早足で駆ける音がだんだんと遠のいていく。
「――柚葉さま」
それとちょうど入れ違いで外から呼び声がかかり、褥からはみ出した桜の手を布団に入れなおしていた柚葉はつと顔を上げた。どうぞ、と促せば、襖がすっと音もなく引き開けられる。
「朝早くからすいませんね。――暁」
「いえ」
頭を下げると、暁は袴を裁いて部屋の中に入ってくる。それにもうひとり、暁を呼ぶときに使った白川という男が続いた。
「……わたしは下がったほうが?」
暁と柚葉とを見比べて、白川は少し首を傾けるようにする。
すでにきびすを返しかけている白川を「いいえ」と柚葉は引き止めた。
「ちょうどいいです。お前もついてきなさい」
「はぁ」
腑に落ちない表情ではあったが、白川は言うとおりにその場にとどまる。柚葉は羽織を肩にかけ、自分についてくるようふたりの男へ告げて外に出た。
夜明け前の空気は凍えるように冷たい。白い息を吐き、柚葉は羽織の衿をたぐり寄せる。母屋から衛兵たちが寝泊りする長屋の横を通り、昨日桜を閉じ込めた蔵の前を過ぎると、やがて人気のない、柵で囲われた古びた館が見えてくる。背後で暁が息をのむのがわかった。
「入りなさい」
「ここに、でございますか?」
「そうです」
命じると、彼は青色の眸を不安げに揺らして柚葉を見つめた。のろのろとした足取りで中へ入る。だが、『それ』が見えてきたとき、いよいよ暁の表情が強張った。愕然と目の前にたたずむものを見つめる。
それは、錠のつけられた木格子だった。牢だった。柚葉は足元に落ちていた縄を拾い上げると、それを白川へと差し出す。
「この男を縛り上げ、中に閉じ込めて」
「……っ柚葉さま!」
驚いた様子で暁がこちらを振り返った。その手首へ白川がてきぱきと縄を巻いていく。暁は腕を振り回してもがき、柚葉さま!と今一度叫んだ。それを一瞥し、なんですかと柚葉は平坦な声で問う。
「理由に心当たりがないとでも? ――いいえ、そんなわけがない」
「……ゆずは、」
「今宵開かれる長老会で私は事の仔細を明らかにし、お前の処断を求めます。おそらく葛ヶ原でもっとも残酷な刑が言い渡されることでしょう。それまで、この暗い牢でひとりきり、己の愚かさを悔いながら、沙汰を待っているといい」
手と足とを縛られた男を牢の中に入れ、柚葉は扉を閉めた。さらに丁寧に鍵をかける。普通なら慌てるそぶりくらい見せそうなものであるのに、白川は特別口を挟まずただ状況を傍観しているようだった。見かけは優男風であったが、存外肝が据わっているのだろうか。考えているうちに錠がしまって、かしゃんと音が鳴る。
ゆるゆるとどこか心もとない所作で暁が顔を上げた。その表情は、裏切りを働いたというにはあまりに力ない。憔悴しきり、疲れ果て、もはや投げやりになっている風ですらあった。
「……何ゆえ、ですか?」
柚葉は訊いた。そうするつもりなどなかったのに、たまらず訊いてしまった。
「おわかりになりませんか」
「ええ、わからない」
間髪入れずに返すと、暁の顔にうっすら乾いた笑みが浮かぶ。虚ろな眼窩に睫毛が紗がかかるように降りた。――たとえば、とややあって暁は血の気のない唇を開く。
「桜さまと雪瀬さまが川で溺れかけていらしたら、そして、もしもどちらかおひとりしか助けることができないのだとしたら、あなたは迷わず雪瀬さまの手を取る。普段どんなに可愛がっていても、いとおしんでいても、あなたは迷わず桜さまではなく雪瀬さまの手を取る。それは、どんなに手厳しく接していても冷たくあしらっていても、あなたにとっては雪瀬さまのほうがはるかに根深く、重たい、かけがえのない存在だから」
「――……つまり、こういうことですか」
言葉に隠された意図を探り、柚葉はつぅと眉根を寄せる。
「お前にとって私たちは切り捨てるほうの存在であったと?」
俯いたまま、暁は答えない。それが暗に是だと告げているかのようで、柚葉は知らず歯噛みする。何故だろう、唐突に目の前の男を思うがままなぶってやりたいような残酷な衝動に駆られた。怒ったのではない。否、この上なく腹が立ってはいるが、それは彼が彼の言う根深く、重たい、かけがえのない存在――八代と、柚葉たちを秤にかけて選ばなかったからではない。
柚葉はむしろ。むしろ、その選択のあまりの不毛さに怒っていた。
八代に殉じてこの青年はいったい何を得る。何を得るというのだ、いったい何を。
「溺れた人間の片方が屍であってもお前はその手を取るのですか。そうしなければならぬのですか」
「屍であるのなら、なおのこと――」
暁は青の眸に燃え滾るような何かを宿らせて言った。
「なおさらに、見捨てるわけには参りますまい」
どうしてなのだ、と柚葉は叫びたい気持ちでいっぱいになった。
どうして、そのように皆が皆、己を己の手でがんじがらめにする。
「私なら……、生きている者を生かすことを選びます」
「そうでしょう。あなたは、正しく美しい。私とは違う」
それをこの青年が自嘲混じりに口にしたとき、柚葉の中で燃え上がっていた何かが終わった。必死に伸ばした手を振りほどかれ、叩き返されたかのようだった。この男と柚葉はすでに深い、戻ることのできない深い部分で断絶してしまっている。そう思った。
「――わかりました」
互いの心を探るような長い沈黙の末、柚葉はうなずき、暁から視線を解いた。その場に控えていた白川に暁を見張っておくよう命じて、足を返す。
長い濃茶の髪が戸口を翻って消える。
暁はしばらくの間柚葉のいなくなった方角を見つめていたが、やがて糸がふっつり途切れたかのようにその場に座り込んだ。
それらを見届けると、残された白川ススギ【百川諸家 法ノ家 百川漱】はひそやかに紅鳶の眸を細め、張り巡らされた計略の口火を切るべく動いた。
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