五章、椿



 九、


 雪待ち椿に、松重ねに、いろは文。
 数え上げたら、着物の色柄はきりがない。
 
 その日の毬街は桜の想像を上回っておおいに込み合っていた。
 年の瀬が間近い。新年に向けた準備に皆追われているのだ。
 そこかしこで売り買いがなされるしめ縄や松、餅や味噌を物珍しく眺めながら歩き、そこでふと前を歩く雪瀬との距離が開いてしまったことに気付いて、桜はからころと下駄足を速める。
 歩幅の問題もあるのかもしれないが、雪瀬は歩くのが早い。今みたいに距離が開いてしまえば止まってきちんと桜を待っていてくれるのだが、それも今日は仕方ないからといったかんじが滲み出ていてなんだか気持ちが萎縮してしまう。桜が追いつくと、雪瀬は足を返した。

「あ、待、……雪瀬、」

 翻る袖端に手を伸ばす。

「何?」
「え、と、」

 間をおかず尋ねられたせいで桜は怯んだ。
 ためらってから、結局手を離してふるっと大きく首を振る。
 雪瀬はしばらくこちらを見ていたが、それ以上は追求せずにまた歩き始めた。

 ――もう少し足をゆっくりにしてもらえないだろうか。
 桜は群青の上着を見失わないよう気を配しながら、今しがた口にできなかった言葉を胸の中で呟く。いったいそれがどういうときにもたらされるものなのか、いまひとつわからないのだけども、雪瀬は時折急に手のひらを返したようにこちらを拒絶するそぶりをとることがある。
 否『拒む』というよりは断絶、といった言葉が近い。普段かろうじてこちら側に架けられている橋がある日突然川底へ叩き落とされてしまうみたいなかんじだった。こうなると、もはや桜は雪瀬が何を考えているのかまるきりわからなくなってしまう。
 ……もしかして、怒っているんだろうか。
 柚葉のことや真砂のことや、思い当たる節は山ほどあった。だから、『面倒』だなんて言うのか。夢現の中、柚葉に対して雪瀬が漏らしていた言葉を思い出すと、胸がちくんと痛んだ。面と向かって告げられないだけに、その言葉は余計真実味を増す。
 雪瀬は自分と関わるのが面倒なのだろうか。
 桜は唇を噛んで、影法師を見つめる。




「不眠と、食欲不振?」
「うん」
「いつからだ?」
「うん」
「うん、じゃないだろ。いつ頃からだ?」
「うん」
「……雪瀬。俺の話を聞く気はあるのか? それとも拳で一発殴ってやったほうがいいのか?」
「うん」

 文机に頬杖をつきながらあらぬ方向へ視線をやっていると、突如頭上から男の拳が降りてきた。雪瀬は慌ててすいと身を引く。

「あ、ぶなっ。何?」
「拳で殴っていいか、と訊いたらお前がうんとうなずいたからだ」
「そんな自虐的な趣味はございませんよ」
「なら、ひとの前でぼうっとするな」
「別に、」

 ぼうっとなんか、と返しかけたが、実際拳で殴っていいかと訊かれた覚えがまったくなかったので、雪瀬はしぶしぶ口をつぐんだ。

「どうした?」

 天秤で薬を量りながら、瀬々木はやってきた患者のひとりでも相手にするように気安く尋ねてくる。別に、と本日早くも三度目か四度目になりそうな台詞を短く返して、雪瀬は金魚鉢の中で眠っていた小亀を抱き上げた。仮住まいをしていたときからまったく大きくなっていない亀の甲羅を指でつついて遊んでいると、見ていた瀬々木が大きくため息をつく。

「あのなぁお前、いい加減にしろよ。なんだその辛気臭い顔は。『別に』ならちゃんと『別に』という表情と言動をしろっていうんだ嘘吐き一族。お前がそんなんだから、桜が困って出て行くんじゃないか」

 しかも、お茶を淹れてくるなどと見え透いた嘘をついて、である。そう言ったときの彼女の不安そうな、それを懸命に繕おうとする表情を思い出すとなんとなくつまらない気持ちになり、雪瀬は腹いせ混じりに首を出した亀をえいと指で押す。

「……どこまで話したんだっけ。まぁ最初説明したとおりなんだけど。桜のことよろしく。二三日預かってやって」
「ったく。ここは託児所じゃないんだがなぁ……」
「最近は桜も少しは手伝えるよ」
「ほーう。ならどんな茶を淹れてくるか見ものだな」

 口端を上げる瀬々木にさぁどんなんだろうねと投げやりに言って、雪瀬は腰を上げた。後ろに折りたたんでおいた羽織に腕を通していると、襖が開いて、件の少女がひょこと顔を出す。上着を羽織っているこちらを見て、「あ」という顔をする。

「かえる?」
「帰る」

 うなずいて雪瀬はお盆に載せられた湯飲みのひとつを取る。
 桜は瀬々木のそばにお盆を置き、出て行くこちらの背を追った。




「あのさぁ。お茶は急須に葉っぱを入れてそこに湯を注ぐものだから。湯飲みに直接水を入れて葉っぱ浮かべても勝手に沸騰したりしないから」

 結果として。
 桜の淹れた『お茶』は湯飲みのふちからこぼれんばかりに湛えられた水とそこに山と浮かべられた茶葉とで構成された、本来の茶とは似ても似つかぬ飲み物だった。
 ぶちぶちとけちをつけながら、それでもぜんぶ飲みきった湯飲みを水切りしてもとの場所に戻す。小言がこたえたのか桜はへっついのそばでしゅんと丸まっていた。袴で手を拭いながらその横を通り過ぎようとすると、何やら物言いたげな視線が追いすがってくる。

「……何?」

 仕方なく足を止めるが、桜は目が合うとぱっと気まずげに顔を伏せてしまった。ためらった風に口を開いたり、閉じたり。痺れを切らして雪瀬は少女の前にかがみこむ。

「何」

 俯きがちの顔を覗き込むと、とたんびくっと細い肩が跳ね上がった。背後の鍋に頭をぶつけかねない勢いで桜は顔を上げ、それから何度も首を振る。
 どうやら例のびくびく病は未だご健在らしい。
 雪瀬ははーと息を吐いて、疼いてきた眉間のあたりを指で押した。それに気付いたらしい桜が視界端で身じろぎする。

「今めんどう、な気持ち?」
「……えー、…え?」

 不意打ちで胸中を言い当てられて、雪瀬は若干たじろいだ。
 視線を下ろすと、じっと息をひそめて緋色の眸がこちらをうかがっているのがわかる。べつに、ととっさ嘘を口にした、無意識のうちに。
 緋の眸が淡くさざめき、睫毛がふっと降りる。
 直感的に今自分がよくない答えを返してしまったのだと雪瀬はわかった。長い沈黙の末、おもむろに差し伸ばされた指がぎこちなく頬に触れる。指先がやけに冷たい。それで、ああと思った。桜が冷たいんじゃなくて、こっちの頬が腫れているんだ。柚葉は容赦がないから。辛気臭い顔、と瀬々木が揶揄したのを思い出して、そういうことかと雪瀬は思った。

「……ごめん、なさい」

 か細い声。
 不安で不安でたまらなそうに、言う。そういう表情で言う。
 対して雪瀬はどんな表情を浮かべたらよいのかわからない。

 正直なところ、とばっちりを食らって柚葉に頬を叩かれたことに関してごめんなさいと言っているんだったら居心地の悪いことこの上なかったし、明け方まで彼女を探して走り回っていたこちらの労をねぎらっているんだとしてもそれは同様だった。……もし、そうじゃなくて、真砂のことまで含めて言っているんだったら、雪瀬は。謝られる資格からしてない。
 だって、桜の変化を知っていて放っておいたのは雪瀬だ。彼女があの夜現場に居合わせたのであろうことに気付いていながら、面と向かって問いただすことができないで、そのままにしておいたのは自分だ。

『あなたがしているのはね、兄さま。優しさなんかじゃありません』
『ましてや慈しみや愛情などでは』

 柚葉の言ったことは本当にそのとおりであって、雪瀬は桜と向き合おうともせず、一方的な感情を押し付けていたに過ぎなかった。

 ――感傷である。
 これほどに自分に当てはまる言葉も他にあるまい。

 雪瀬はずっと不思議だった。自分のような淡白そのものの人間が何故、取り立てて何に優れているというわけでもない、むしろすべてにおいて劣っているような少女にこだわって、時に執着を見せたのかと。
 不思議だった。それが恋情なのだといったらそれまでなのだけども、桜の幼い、まっしろい内面はある種の欲をかき立てこそすれ、人間として恋い焦がれるにはまだ足りない。
 だから最初はそれによく似た顔の幼馴染に、藍に、重ねているんだろうかとも思った。その面影ゆえに重ねてしまっているんだろうかと思った。あるいは、凪かもしれないとも思った。彼女に対して愛情を注ぐことで、不毛な贖罪をしたつもりになっているのかもしれないとも思った。

 でも、そうではなかった。
 雪瀬は最初から、桜に、自分を見ていた。
 もう何年も前、それまで当たり前のように享受していた平穏から突然切り離され、放り出され、ひとりぼっちで、とても傷ついていて、言葉を操るのも億劫で、表情を作ることすら面倒で、ただ丸まって時が流れていくのを待っているしかなかった自分を、そこに重ねていた。
 おそらくそのときの雪瀬は頭がおかしくなるくらいの切実さで自分へ手を差し伸べてくれる誰かを、そういう存在を、求めていたのだ。こうなったのはぜんぶ自分のせいなのだから、そう思うこと自体おかしいとわかってはいたけれど、だから善意で差し出されるたくさんの手を懸命に振り払ったのだけども、やっぱり心のどこかでは思わずにはいられなかった。たすけて欲しかった。どうして自分ばかりがこんな思いをしなきゃいけないのかわからなかった。本当はころしたくなんてなかったのに、ぜんぜんころしたくなんてなかったのに、こんな重いものなど背負いたくはなかったのに。そう思っていた。と同時にそういう自分を、離れた場所からどこか冷ややかな目で見てもいた。

 あの日、あの長い日々、雪瀬は確かに自分を見殺しにしたのだろう。次第に弱り、壊死していく自分の中の一部を、誰の耳にも届くことなく消えていく呼び声を、息を殺してじっと見ていたのだろう。

 だから路地裏でぐったり倒れる少女を見つけたとき脳裏によぎったのは、藍でも凪でもなく、他ならぬ自分であったはずだ。彼女を無視できなかったのは、それが自分の呼び声であったからだ。彼女といると不思議と満たされたのは、自分の欠けた部分が埋まるような気がしたからだ。


「――……雪瀬?」


 無反応になってしまったこちらをいぶかしんだらしい。頬に触れていた指先がかすめるように肌を撫ぜて下ろされた。心配そうに、桜がこちらをうかがっている。その頬へ軽く手をあてがって、雪瀬は桜の身体を引き寄せた。ひゃ、と驚いて身じろぎをした少女の身体をそれでも構わずぎゅうっと抱きしめる。
 桜は雪瀬の腕に余るくらいに小さくて、体温が少しだけ高くて、心音も少し早い。きつい薫物の匂いはしない。ただ微かな薄荷のような香、薬湯のせいで移った淡い香りだけがする。しっとりとしたすべらかな黒髪に口付けて、それから雪瀬は桜の薄い肩に額を押し当てる。

「『ごめん』、俺のほうだった。……ごめん。ごめん」

 桜はいつも雪瀬を見ようとしていたのに、どうして自分はそんな風にしか――枠にあてはめるようにしか彼女を見ることができなかったんだろうと思う。桜は雪瀬とは違う生き物で、もっとずっと一生懸命生きようとしていて、今日だって雪瀬が探し回らなくたって自分の足で屋敷に帰ってきた。そういう力を、桜は持っている。生きようとする力をちゃんと持っているのだ。
 雪瀬は桜の肩に額を押し付けたまま固く目を瞑った。
 体温が変な風に下がっているのがわかった。子どもが発熱したてたときみたいだった。細く息を吐いて、とっくに軋みを上げているはずの肩をさらに強く抱きしめる。じゃないと、何かおかしくなってしまいそうだった。

「……雪瀬、」

 腕の中の身体が緊張で強張ってくるのがわかる。
 おびえているのだと思った。何か言わなくてはと思うのだけども、喉は不自然に張って低い呻きをこぼすだけでまったく役に立たない。ただぐっとどこかから湧き上がってくる衝動に耐えていると、ふと髪に何かが触れてきた。ためらい、ためらうような間があってから、そろりと背中に手が回され、二三度ぎこちなく往復する。行ったり来たり。桜が動物に触るときと一緒。おそるおそるの撫ぜ方。

 雪瀬は、小さく笑った。つい、笑ってしまった。
 それが考えて考えて、悩んで悩んだ末に出てきた仕草だとわかってしまったからだ。それから別のことに気付いて、肩から少し顔を起こして桜を仰ぐ。頬にすだれかかった髪を少しのけると、緋色の眸はきゅうっと閉じられていて、でも眦から抑え切れなくなった涙がいくつもいくつもこぼれ落ちていた。口元に背中に回ってないほうの手が添えられている。声を殺して、桜は泣いていた。
 身体を離して、濡れた頬に手をあてがうと、緋色の眸がうっすら開く。
 表情が歪められて、彼女は必死に嗚咽を飲み込もうとする。白い喉が苦しげに震えた。目をこする手の甲から涙がいくつも伝う。その手に自分の手を重ねて顔から離すと、雪瀬は嗚咽を繰り返そうとする少女へ口付けた。
 息が微かにこぼれて、泣き声がぴたりと止まる。
 涙でしとりと濡れた唇はしょっぱい。そういう味しかしない。でもそれでよかった。そういうものが、雪瀬は欲しかった。

 軽く唇が触れ合うだけのそれを何度か繰り返し、吐息ごとのみこんで唇を啄ばむ。髪に手を差し入れ、さらに深くへ押し入る。最初ぎこちなかったそれはだんだん互いの体温が溶け合ってなんだかもうよくわからなくなった。背中に添えられていた手が擦って落ちる。それを指が折れるほど強く握りこんだ。
 だけどもこうして唇を重ねたって、雪瀬は桜の心を推し量ることはできない。もっと深くを求めたってやっぱりわからないのは同じなんだろう。でも、それでも、それなら、せめて知りたかった。雪瀬は桜を知りたかった。本当にそう思った。

 唇を離すと、か細く喘ぐような吐息が漏れる。肩をせわしなく上下させ、桜はおずおずこちらを仰いだ。緋色の眸からはらはら涙が散る。ほんのり上気した頬、時折思い出したように瞬く緋色の眸をしばらく眺めているうち、雪瀬は気まずくなってきて視線を下方へそらした。あ、また泣かした俺、と思う。

「……長老会、帰る、葛ヶ原」

 何故か目の前の少女以上になってない片言喋りになった。
 意味をはかりかねるような間があったあと、桜はそうなのか、というようにひとつうなずく。うん、と言って雪瀬は袴を裁いて立ち上がった。それを後ろから伸びた手が引き止める。

 なにと肩越しに目をやるが、俯いているせいで桜の表情は見えない。
 袖から手を離したと思うと今度は指を握り直され、雪瀬はますますいぶかしげになった。決して触り心地がよろしくなさそうながさがさした指を握って、握り直して、さらに両手で包む。
 
「……ふ、文、のこと、なんだけど、」
「文?」

 脈絡もなく言葉が飛ぶのは忘れていた彼女の癖である。
 しばし考え、雪瀬はあああの妙な脅迫文のことかと思い出した。

「本当はあれは、雪瀬にって言われたんじゃなくて。でも、う、空蝉と、同じで、空蝉が沙羅にしかああいうこと、言わないのとおんなじで、私、文を雪瀬に渡そうと思って、」

 とても真剣そうな顔で告げられたものの、いまひとつ要領を得ず、雪瀬ははてと考え込んでしまった。あの文は雪瀬宛てだったと聞いたが、だのに違うのか。第一何故ここで空蝉や沙羅の名前が出てくるのか。

「……そうなんだ?」

 よくわからなかったが、ひとまずうなずいておくと、桜はこくっと首を振った。でもまだ何かを待っているらしい。緊張した面持ちでこちらを見ている。

「ああ。ありがとう?」

 なんだ褒めてほしかったのか、と思って雪瀬はえらいえらいという風に桜の頭を撫ぜる。桜は一瞬んん?と難しそうな顔をしたが、そのうち考えるのに疲れたらしく愁眉を開いた。頬にかかった髪を耳にかけるのと一緒にさらさらと指で梳く。くすぐったそうに緋色の眸を細められ、そして淡く淡く、かたくなだった蕾が綻び、花ひらくようにあどけない微笑がこぼれた。
 それまであった胸のつかえがほっと抜ける。久しぶりに。本当に久しぶりに。雪瀬は桜の笑顔を見ることができた気がした。






 三つ数えたらそこは光でいっぱいなんよ。
 いやいや、嘘じゃない。嘘じゃないって今度は。
 はい、さーん。にぃーい。いち――

「――筆?」

 尋ねた船長(ふなおさ)に、「ええ」とまだ若い船子が答える。
 
「この前、沖まで漕ぎ出た帰り、岩場に引っかかってたんですよ。なんかやたら使い古した感のある筆」
「ふぅん。いったいどこから流れ着いたんだかなぁ。まぁ玉(ぎょく)ならともかく筆じゃあ金にもなんねぇがな」

 特に興味を引かれた風でもなく、船長は日に焼けた太い腕を組む。走ってきた別の船子に何かを命じて、自分もそちらへ行ってしまおうとするので、慌てて若者は続けた。

「いえね、それだけだったら俺も気になんか止めないんですけど。気味が悪いことにその筆、毛先が赤黒く干からびていたんです」
「赤黒く?」
「そう。まるで血で染めたみたいに。ちょっと怖いっしょ。それで顔を上げると岩場に奇妙なものが――」

 間を計ったかのように船がちょうど止まる。
 そこに張っておいた網を引き上げに向かいながら、ああこれだこれだと若者は中でもひときわ大きな岩を指差して言った。船長は呆気に取られて、ぽかんと口を開いている。

「……なんだこりゃ……」
「ね、意味がわからんでしょう?」

 いつもは動じることのない船長の間抜けた顔が見られたため、若者は少し得意げだ。馬鹿、威張るんじゃねぇ、と若者の頭を軽く小突くと、船長は髭の生えた顎に手をあて、ううむと唸る。その眼前にある岸壁には大きく、赤黒くかすれた悪筆で、


 橘真砂 ここに在り
 救助 求む


 と書かれていた。
 件の筆はもはや用済みとばかりに足場に転がっており、近くには火を起こしたあとらしい燃えさしや魚の骨などが残っていた。しかし、在り、とあるにもかかわらず、左右を見回してみても人影のたぐいは見当たらない。

「っつーことは、これを書いた奴は……」
「力尽きて海に流されたか。はたまた奇特な誰ぞやが――」

 笑って、若者は遠く水平線上に漂う一艘の大きな船を眺める。
 南方特有の黒塗りの船は白い軌跡を描きながら大海原を進む。海鳥が太陽の下を横切ってぐんぐんと空の彼方へ翔けていった。


 寂れた屋敷がある。
 冬の凍えた空気がある。
 さりとてその花は赤く咲く。みすぼらしく、あっけなく、誰にも見向きもされず首を落とすことを知りながら大地に根を張り、空に向かって花ひらく。
 しなやかなる命、不在のあるじの愛する花。その名を――