六章、残月と、雲路の果て
一、
橘颯音をあいした理由?
そんなの単純だ。
強かったから。私の知るひとの中で一番強かったから。
だから惹かれた。猫が虎に屈服するように。
だからあいした。それだけのこと。
*
雨が降っていた。
初夏のぷんと匂い立つ木立の中を、朝からずっと弱い雨が降っていた。
その中を薫衣は使い慣れた番傘を肩に引っ掛け、足早に歩く。雫を宿した夏草が足元で揺れる。水煙に覆われた視界に探しびとの姿を見つけて、薫衣は知らず口端を上げた。いたいた。探すのにずいぶん手間取ってしまったけれど、見つけた。
「さお――、」
刹那、思わず踏み出しかけた足を止めてしまったのは、男が傘を持たず、凛然とそこにたたずんでいたからだ。その真新しい墓石の前に。
もしもそこに立つのが別の誰がしであったのなら、薫衣は気安く声をかけるか、あるいは相手を慮って足を返していただろう。だが、墓地で濡れ鼠になっている彼、というのはあまりに『らしく』なかった。それが自分の手をかけた者の墓の前というならなおさら。こう言ってはなんだが、冗談みたいだった。
見間違いだろうかと男の背中を凝視していると、その背がおもむろにこちらを振り返った。微かな風が吹く。橘颯音だった。雨のせいで表情はよく見えないけれど、橘颯音であることは間違いないようだった。
「あのさぁ」
相手はふっと軽く息をついたみたいだった。
「じっと見てるなら、傘に入れてくれないかな」
「あー……、傘なかったの?」
そんなことは見ればわかる。自分らしくない冴えてない答えを返してしまったと薫衣は内心舌打ちをする。
「うん、忘れた。午後から急に雨が降ってきたじゃない」
薫衣の手から傘を取って、颯音は中に入った。
今はもう夕刻に近い。傘を持つ手は紙のように白く、本来は初夏らしい淡い色をした羽織もぐっしょり濡れて濃い草色になっていた。もうずいぶん長いこと外にいたんじゃないだろうか。もっと早く、探しに来てあげればよかった。
「ふぅん、それで濡れ鼠ですか。ぬかってんね、春ボケしたんじゃないの颯音兄さま」
「……言うね」
「言うよ。あなたに風邪を引かれると困るんだ。私たちが」
私たちが、という部分を強調して言う。
だって実際、颯音が倒れたらその尻拭いに回るのは薫衣たち下の者だ。あるじ殿にはいつだってせこせこと働いてもらわないと困る。
――ああわたしってものすごくヤな女だな。
湿気でぱさっとなった髪をかきやり、薫衣はよそに視線を逃した。背後を顎でしゃくる。
「……何してたの?」
「別に。なんにも」
なんにも。そう言われてしまえば、それ以上の追求はできない。
ふーん、と表面上は何気ないそぶりをみせてうなずき、薫衣はそっと隣を歩く男の表情を盗み見た。さしたる感情の見られない、見事なる無表情。さりとて微笑っていたってそれはそれで妙なのだから、今の話の流れならむしろこれがふさわしいのだろう。濡れそぼった髪は首に張り付いて、毛先からいくらか雫が滴っている。水気を含んだせいでもう黒に近い髪、それが触ると存外ふにゃっと柔らかく指に絡むことを薫衣は知っている。
このつめたそうな身体を抱きしめてみようか。
脈絡もなくそんなことを思いつき、薫衣は自嘲混じりに首を振った。代わりに自分の羽織を脱いで男に押し付ける。
「――ん。あなたがお風邪を召されて、都へ旅立てなくなったら困りますから」
「あぁ心配してくれたの?」
笑って返されたので、薫衣は軽く首をすくめた。ここでむきになって言い返すほど薫衣は可愛らしゅうない。
颯音は薫衣にいったん傘を預けて、濡れた羽織の代わりに渡された羽織を引っ掛ける。それを手持ち無沙汰に見ていると、傘をとるのと一緒にふと湿って額にくっついていた前髪に手が載った。細くて長い指が生え際をかきやる。
「……な、何?」
「んー、ぱさっとなってるなぁって」
「あーっそ。指どおりの悪い髪で悪かったな。雨の日は余計ひどくなんの」
あいにくと、手入れの行き届いた犬の毛みたいな柔らかい髪をお持ちの一族ではないので。
毒づいて、薫衣はぺいっと髪に触る手を払おうとする。だがそれを手首をつかんで止められた。何すんの、と苦情の声を上げようとする前に、ふっと眼前に影が射し、唇を合わせられる。そよ風がかすめるように奪われた。つめたい、氷みたいなくちびる。
ざぁざぁと雨の音だけが響いていた。
あまりにも唐突だったので、身じろぎはおろか言葉ひとつ出てこない。
呆けた表情のまま、薫衣はその場に木偶みたいに立ち尽くした。
「お礼。上着の」
手首を離すと、まるで何事もなかったかのようなしれっとした顔であちらが衿を少し引き上げてみせる。そこに至ってようやく頭に血の気が回り、薫衣は顔を思いっきりしかめた。
「し、信じらんない、何がお礼、どこがお礼。自信家」
「えー誠心誠意真心をこめたのになぁ」
「なら、普通にありがとうと言ってください。お前はなんだ、どこの女郎だ男娼だ」
にわかに頬が紅潮してくるのがわかる。そのことにむしろ羞恥してそっぽを向くと、ふとあちらが優しい眼差しでこちらを見ているのに気付いた。
「……ナニ」
「ん、別に?」
じとりと横目をやれば、いつものいっそ隙のないとすらいえる微笑が返ってくる。薫衣の頭をもう一度軽く撫ぜて男は歩き出した。
「――大丈夫。俺は平気。安心していいよ」
雨に溶けるように、すぐそば近くの肩からその声がしたのを覚えている。
触れ合った唇はあんなに冷たかったのに。
氷のように体温というものがなかったのに。
大丈夫。俺は平気。
安心していいよ。
そう言わせてしまったわたしは、きっと彼の支えになんかなれてなかった。
「んー……」
久しぶりにぐっすり眠ったら、身体の節々が気だるい。
枕元に置いた匂い袋を取り、薫衣はまだ重たい瞼の上に腕を載せる。
外からはしとしとと雨の音が響いていた。肌寒いが、雪ではなく雨が降っているということは冬にしてはまだ暖かいほうなのだろう。眉間の辺りをぐりぐりと押し、薫衣は身を起こす。直前まで見ていた夢――初夏の雨に霞む濃茶の頭を思い出すと、あー……となんともいえない声が出た。
――ついに夢にまで見るとは。
「重症だ……」
がっくりと膝の上に突っ伏す。
男から贈られた桜は今まさにすべての花弁を落とそうとしていた。
*
「今日はよく眠られましたか? 薫衣さま」
畳に正座する少女の顔色は普段よりも幾分よいようだった。
隣に腰を下ろしながら尋ねれば、薫衣は報告書から顔を上げて「ああ」と顎を引いた。
「ぐっすりだったよ。ちょっと、変な夢も見たけど。よい匂いだよなあれ」
「ふふ、お気に召していただけました?」
「うん。薫衣草だったっけ。今度、香屋で探してみようかな」
「毬街でしたら、華月堂などはよく取り揃えておりますよ。『梅が枝』や『せせらぎ』も甘すぎず、よい香です。一度足を運んでみてはいかがかと」
柚葉は帯もとに下げた匂い袋を示しながら教える。
へぇ、と薫衣は珍しそうに鈴のついたそれをつついた。まるで鈴に気を引かれて手を出す猫か何かみたいだ。このひとはいつもは凛と背を張っているのに、たまにかいま見せる仕草が妙に愛らしい。
くすりと笑みを忍ばせて、柚葉は戸口に視線を向ける。
続々と白髪の頭――もとい長老たちが集まり始めていた。十畳ほどの部屋はあっという間にひとでいっぱいになる。昼七ツ、まもなく今年最後の長老会が始まる時間だ。
「――と、あれ? あいつ……雪瀬は?」
未だ空いている柚葉の隣の席に気付いて、薫衣が言った。
あぁ、と柚葉は苦笑をする。
「兄さまなら少し遅れてくるんじゃないでしょうか。所用で毬街のほうへ出ておりますゆえ」
「ふぅん……? 所用、ね」
雪瀬が桜を連れて葛ヶ原を出たのは正午近くだった。兄は馬が使えないので、桜を瀬々木のもとへ置いてすぐに引き返しても、長老会の開始時刻には間に合うまい。それに、柚葉は雪瀬に今日の長老会は暮れ六つ――つまり今から一刻後に始まると偽って伝えていた。おそらく兄はそれに間に合うようにして帰ってくる。柚葉の思い通りにことが運べば、すべてが終わったあとである。
暁の糾弾から裁きまで、柚葉は雪瀬の知らないうちにすべてを終えてしまう気でいた。愛情や優しさからではない。兄のあの脆弱な潔癖さが今は邪魔だった。下手に暁に同情でもして、予想外の行動をされては困る。
「皆集まったな」
あたりをぐるりと見回し、薫衣が呟く。
つられて室内へ視線をやり、柚葉はすっと眉根を寄せた。
おかしい。長老はもうほとんど集まってきているのに、まだ白川が来ない。当初の打ち合わせでは白川が暁を連れてここに来るはずだったというのに。
「さて、それでは――」
「待ってください」
薫衣の目配せで、最長老が長老会の開会を告げようとしたので、柚葉は軽く腰を浮かせて制止の声をかけた。皆の視線が一挙に集まる。
「……柚?」
「まだ……まだ白川という者が来ておりませぬ」
「しらかわ?」
「ええ。今日の長老会では他の案件に先立ちまして報告したい旨があり、彼は――」
そこまで言って、柚葉は周囲の怪訝そうな顔に気付いた。
「何か……?」
「柚。白川って誰だ?」
薫衣の聡明そうな双眸がまっすぐに自分を射抜く。ふざけていたりからかっている、という雰囲気ではなかった。焦燥が去来する。
「だ、誰、って薫衣さま? 白川でございますよ。薫衣さまはもしかしたらご存じないかもしれませんが、最近雇った使用人の」
「――あの、それはもしや白川毅のことでございますか?」
長老たちにお茶を出していた家人のひとりがおずおずと口を挟む。
彼はお盆をいったん畳に置き、姿勢を正して口を開いた。
「白川毅ならば数ヶ月前に高齢ゆえ、職を辞しております。もしかしたらまだ使用人部屋に名札がかかっていたかもしれませんが」
「そんなわけはありません」
柚葉は大きくかぶりを振り、家人を見つめた。
「高齢、だなんて。彼はまだ二十代の若者ですよ? 亜麻色の髪に、紅鳶の眸をした若者。以前、水死体が上がったとき、薫衣さまに頼まれて私たちにそれを告げにきたこともあります」
「私がぁ?」
顔をしかめ、薫衣は首を振った。
「そういう話は、確かに誰かとしたかもしれないけど。お前たちに告げろなんて頼んでないよ。水死体くらい私ひとりで処理できる。宗家の手を煩わせるまでもない。私が向かったら、お前らが先に来ていたんじゃないか」
「そんな……」
体温が急激に下がってゆくのがわかる。
震えだしそうになった肩を抱きしめ、柚葉は口元を手で覆った。
「ではあの男はいったい……暁は、」
無意識のうちにその名を口にし、はっとなる。
そうだ、暁。暁は、どうしたのだ。
「柚? 顔真っ青だぞ? その白川が、どうかしたの?」
「いいえ……いいえ薫衣さま」
弱々しく首を振り、柚葉はさっと立ち上がった。
「長老会を先に始めていてください。私はすぐに戻りますゆえ!」
「ちょ、おい、柚?」
背中に追いすがってきた声を振り払うようにして、柚葉は部屋を駆け出る。
失策だ。あんなに考えたのに、失策をしてしまった!
暁と親しい衛兵を見張りに立てて万が一逃がされたら、と思い、新入りの白川を見繕ったのだが、それが裏目に出た。どうして白川の素性をきちんと確かめなかったのだろう。簡単に信じてしまったりなどしたのだろう!
きつく噛みすぎた唇が切れて口内に血の味が広がる。
朝にたどった道を息を切らしながら走り、ようやく暁を置いてきた庵にたどりついた。ほんの少しの道のりなのに、すでに頭の天辺から爪先までずぶ濡れになっている。目元に張り付く髪の毛を煩わしげにかきやりながら柚葉は庵の中へ入った。微かな雨音が響いているだけで、中に人気はない。
「暁? 白川? いるんですか?」
呼びかけるが、返事はない。
「暁?」
――かたん。
そのとき背後から小さな音がして、柚葉は肩を跳ね上がらせる。
振り返る。薄闇から浮かび上がった男は紅鳶の眸と亜麻色の髪を持っていた。
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