六章、残月と、雲路の果て



 二、


「おや、柚葉さま。いかがなさいました?」

 戸口から顔を覗かせた青年は柚葉の姿を認めると、少し面食らった風に紅鳶の眸をぱちぱちと瞬かせた。さっきと少しも変わらない柔和な顔つき。その表情は拍子抜けするほど邪気がない。

「白川……」
「ああ、もしかして暁さんですか? 戻ってきてみたら、いなくなっていてびっくりしてしまった?」
「暁を、どこにやったんですあなた」
「やだなぁ、そんな怖い顔なさらないで。誤解です」

 青年は苦笑し、ついと戸口のほうを手で示した。

「彼なら、お言いつけどおり先ほど長老会へ連れて参りましたよ。どうやら入れ違いになってしまったみたいですけど」
「入れ違い……そう。そうですか……」

 だとしたら、自分はとんだ早とちりをしていたということになる。
 母屋からここまで駆けてくる中でそれらしい影は見ただろうか。それとも柚葉とは別の道を使ったのか。
 彼はまだ入りたての人間のようなのでそれも十分にありえた。そうですか、ともう一度呟き、柚葉は湿った木格子から手を離す。白川はにこにこと人懐っこい笑みを浮かべてこちらを見つめている。

「疑うようなことを言って失礼しました。……でも、ほっとしました。私も長老会のほうへ戻りますね」
「傘はお持ちで? お送りしましょうか?」

 柚葉の髪や衣から滴り落ちる雨雫に目ざとく気付いて、白川が申し出る。

「いいえ、結構です。あなたも早く持ち場へ戻るといい」
「なら、お貸ししますよ。二本あるんです」
「ありがとう」

 ふっと微笑して、柚葉は白川の、男性にしては少し線の細い横顔を見た。

「ところであなたは武術には心得があるのですか?」
「……実はそちらはからきし。どっちかっていうと頭でっかちなんです」
「まぁ」
「聞きましたよ。柚葉さまは弓の名手なのだとか」
「名手だなんて。長老お得意のお為ごかしですよ。だけど、弓は好きです。刀と違って当てるのが的ですから、気が乱されない。――ですがおかしいですね」

 気を効かせて濡れた傘を取ろうとしていた男へ忍び寄り、柚葉はその手首をひねり上げた。かしゃんと乾いた音を立てて小刀が落ちる。抜き身のそれは冴えた青光のする刀身をさらし、沈黙した。

「武芸に嗜みのないお方がかような物騒なものを左手に隠し、いったい何をなさるつもりだったんでしょう」

 大きく見開いた紅鳶の眸が自分を見る。

「私が気付かないとでも?」

 一笑し、柚葉は組んでおいた印を青年の胸元にかざした。

「あいにくと気配には聡いんです。風術師はひとやものの気を読みますから。知ってます? 緊張状態に置かれると、ひとは心音、呼吸、発汗、筋肉の萎縮、ありとあらゆる場所に変調をきたすのですよ」

 張った肩、とくとくと打ち鳴る少し速い心音を衣越しに探っていき、柚葉は最後に青年を仰いだ。

「――聞かせてもらいましょうか。お前は誰? 何の目的で私たちに近づいたのです?」
「……」

 返されたのは長い間だった。
 口を引き結んだまま、青年は木偶にでもなったみたいにぴくりとも動かない。

 凡庸、という言葉が頭によぎる。
 百川の、策士・式ノ家素堂と、思慮深き翁・一ノ家刀斎。
 両名の才識は名高く、国でこれを知らぬ者なし。しかれども、法ノ家の漱に限っては両家に及ばぬ凡庸たる器であると。聞き及んでいた噂が真なら、これは返す言葉をなくした男の醜態と見れなくもないが……。
 
 ふっと青年の口端に酷薄な笑みが載ったのはそのときだった。
 
「……なんだ。もうばれちゃったの」

 淡白な呟きが漏らされたのはつかの間で、次の瞬間には人懐っこく相好が崩れる。まいりましたー、と青年は場違いな明るい声を上げて、その場に座り込んだ。

「わたしとしたことが何たる失態。むしろ見込み違い。そうだね、きみたち兄妹はいつだってあなたのほうがずっと注意深かった。わたしはおそらくあなたにこそ最初に文を送るべきだった」
「……白川毅ではない、と」
「もうお聞きになったのでしょう? それは三ヶ月前に高齢ゆえ職を辞した男の名です。わたしは漱」
「すすぎ?」
「ええ漱。何もかも水でさっぱり漱いでしまいましょう、と書いて漱。百川漱」

 流れるような口調でそう告げると、青年はおもむろに立ち上がって腰を折り、軽く叩頭する。何度か見たことのある、それは瓦町の正式な礼の仕方だった。

「ももかわ。百川諸家……?」
「そうです。ご存知なら話が早い。このようなぶしつけ極まりない対面になりまして、どうかご容赦を。柚嬢」

 愕然と呟いた柚葉の唇にすっと指をあて、青年は長身をかがめた。
 褪せた紅の眸が自分を見る。

「お察しの通り、わたしは百川諸家法ノ家、漱。――ついでに、ええこの際、白状いたしましょう。お疑いはまさしく。わたくしさる目的からあなたがたが敵対する黒衣の占術師さまと内密に手を結んでおります。今までわかぎ……颯音さまの監視をしていたのだけども、こちらの衛兵くんがあんまり頼りないから、その補佐へ回されましてねぇ。ここしばらく昼と問わず夜と問わず瓦町と葛ヶ原を馬で往復ですよ。いくら馬が得意のわたしとて、これには参ってしまった。
 ……ああ、話がずれましたか。しかるに、あなたに私怨はないけれど、柚嬢。真実を知ったからには消えていただかなくてはならないってそういうお話です」

 何気ない口調で恐ろしい言葉を口にし、漱は睫毛を伏せてゆったり微笑む。

「消えるとは、穏やかでないですね」
「その割にはあなたも存外落ち着いておられる」
「黒衣の占術師と組んでいると仰いましたね? 百川のあなたが何故です」
「ないしょです。まぁ気になるなら、潔癖症の紫陽花とそりが合わなかったとかそういうことにしといてください」
「……橘にはどうやって入り込んだんですか」
「暁さんの手引きで。そしてわたしの顔は特殊なんです。平凡というか、ひとの記憶に残らない」
「残らない?」
「幼少の頃、息をひそめる……いいえひそめずには生きられなかった生活を強いられましてねぇ。そうする術が自然身についてしまった。――話は終わりですか?」

 平坦だった声がすっと低くなる。
 あっと思ったときは遅かった。男に手首をとられ、気付けば柚葉は首に腕を絡められて羽交い絞めにされていた。

「離――」
「――お静かに、柚嬢」

 手で口を塞がれる。足元に落ちたままになっていた小刀に気付いて、背後の男が少し身じろぎをした。だが、それはさせない。漱の手が柄に届く前に、柚葉は下駄で刀を遠方へ投げ飛ばした。くるくると弧を描きながら刀が床を滑る。角で跳ね返って、それはちょうど戸口のところで止まった。
 その前に二本の足が立つ。
 ――袴を通してもわかるすらりと長い足。
 暁、だった。

「おやまぁ。よいところに来ましたねぇ、暁さん。さぁそれを拾って、こちらに渡してください」

 印が組めないように柚葉の手を取り押さえながら漱が言う。
 暁は青の眸を大きく見開き、手元のそれへおそるおそるといった風に視線を下ろした。柄に指で触れるも、ためらったようにこぶしを握る。

「暁さん」

 先ほどよりも若干強い語調で漱が畳み掛ける。
 それでも暁は手を開いたり閉じたりを繰り返している。
 その顔にうっすら浮かんだ苦渋の表情を見て、柚葉は喉奥で笑った。
 よもやこの男はこの期に及んでわたしに情をかけているのだろうか。

「いいですよ、暁。どうぞ刺してご覧なさい?」

 挑発するように言ってやると、暁は驚いた風にこちらを仰いだ。
 水の色を深めたかのような眸が揺らぐ。握ったこぶしが小刻みに震えた。暁は眉根を寄せ、震える手を反対の手で必死に押さえる。柚葉は冷笑した。

「是非もない。怖いのでしょう?」
「恐れなど……っ」
「ないというなら、その短刀で私を刺せばよい。けれど安心などせぬことでございますね。腹を差し抜かれたくらいなら、私はすぐにあなたの首を落としてみせますよ。そして、生き残ってみせます絶対に。お前みたいな弱虫なんかに私は負けない。だって、橘ですから。私には大兄さまと同じ血が流れているのですから。これしきの窮地、余裕でくぐりぬけてみせます」

 それは暁へのというよりは、震えそうになる己の四肢を動かすための言葉だった。怖くない、怖くなんかない。柚葉はこの国で一番強い天才風術師と同じ血が流れているのだから。そのひとの手によって育てられ、ここまで生きながらえてきたのだから。大丈夫、戦える。これくらい、切り抜けてみせる。
 
「さぁ、刀を持ってご覧なさい!」

 びくりと暁の肩が震える。
 その手が刀の柄へと引き寄せられるのを見取って、柚葉は背後の男の足を下駄で踏みつけた。

「いっ」

 思わず青年が腕を緩めた隙に中から抜け出で、迷わず印を組む。
 慣れた詠唱はほんの寸秒にも満たなかっただろう。

 闘気が頭を冴え渡らせるというのは本当だ。
 心は静まっていた。ふっと息を吸うと柚葉は暁へと狙いを定め、風を放つ。
 だが、それをかしゃんという乾いた音が遮った。
 暁が刀を取り落としたのだ。――否、ともしたら自発的に落としたのかもしれない。泣き笑いのような表情を浮かべて首を振ると、暁はそろりと目を伏せた。肩が落ちる。無防備に、肩が落ちる。

 けれど、ためらいは覚えなかった。
 だってわたしは二番目の兄ではないから。
 ただ、これしきの男なのかという落胆のようなものがよぎった。
 柚葉は目を細めて、指を折る。
 そのときひやりと脳裏で囁かれる声があった。

 ――……ひとをあやめたん、です。
 ――私はこの手でひとを、

「ほら、言わんこっちゃない」

 ふつりと風が消える。
 刹那、すぐ耳元で囁かれた声に背筋が凍った。

「柚葉さま!」

 叫ぶ暁の声が遠い。
 背中に軽い衝撃のようなものを感じて、刺されたのだろうかと考える。幸いこれといった痛みはなかったが、――やられた、と即座に舌打ちしたい気分になった。右手をつかまれているせいで印が組めない。風が出せない。

「放し、なさい!」

 柚葉は衿元の符を自由になっているほうの手で抜き取った。けれど呪を詠唱する前に、伸ばされた手によって口を塞がれる。

「まったく。見かけによらず、たいした肝をお持ちのお嬢さんだねぇ」
「んん……っ」

 息が苦しい。じたばたともがいているうちにうっすらと涙目になり、視界が歪んだ。柚葉は男の腕に爪を立てようとする。だが、その前に危ない危ないと手を離された。動こうとすれば、ひたりと刃を首筋にあてがわれる。薄く皮膚を切られたのか、ちくんと痛んだ。

「おやめください百川さま! 柚葉さまはだめです、柚葉さまはやめてください柚葉さまは」

 暁はこちらへ駆け寄り必死の懇願を繰り返す。愚かな、と柚葉はぼんやり思った。先ほどまで殺そうとしていた娘の命乞いを今この青年は必死にしている。今にも泣き出しそうな顔で。怯えきった顔で。愚か者だ。暁は、愚か者だ。どうしようもないほどの愚か者だ。

 懇願しても拉致があかないとわかったらしい。暁はほとんど這うようにして戸口に置いてきたらしい銃に取りすがる。舌打ちして漱が柚葉に突きつけていた短刀を持つ手首を返した。暁の眉間を狙う。

「――やめて! さがりなさい暁!」

 柚葉は左手で符を抜き取り、風を暁へ向けて放った。わずかに方向のずれた風の余波を受けて暁が倒れる。それを見て短刀を投げかけていた漱が手を止めた。
 とっさの判断だった。こちらに漱の注意を向けねば、と思った。何故かはわからない。切り札の符を使ってまで、何故こんな裏切り者を助けたかったのか柚葉にはわからない。
 
「お優しいことだね、柚嬢」

 冷やかすように漱が笑う。

「では、あなたのその気位の高さと胆力とお優しい心とに敬意を寄せて。最後に聞いておきましょうか。こちらに寝返る気は?」
「――かようなことを私に問う、恥を知りなさい」
「お見事」

 刹那、刃が腹へと食い込む。どん、と衝撃があった。けれど痛みは感じない。ただ、熱い。あつい。身体の力が抜け、急速な眠気が柚葉を襲う。柚葉は首を振った。嫌だ。死にたくない。死にたくない。こんなところで死にたくなんかない。死にたくなんか。だって私、まだ何もなしてないもの――……
 息も絶え絶えに柚葉は焼けた喉でどうにか呪を紡ぎ出そうとする。けれど声が喉を震わせることはなく、ただ引っかかるような息だけが漏れた。悔しくて頬を涙が伝う。かぜ、と柚葉は色褪せ始めた景色の中で思う。かぜ。かぜ、ふいて。どうか。だいすきなおおにいさまとおなじにおいのするかぜ。わたしの愛する風。空が遠くなる。遠く、遠くなる。柚葉は本当はそこになんかないはずの青空へと手を差し伸ばす。その指先に柔らかな風が集い、ふわりと優しく柚葉の頬を撫ぜ、――消えた。




「ゆずはさま……?」

 暁は地面に打った頭をさすりながら身を起こし、呆然と少女の名を呼んだ。ほとんど這うようにして、横たわる少女の前にたどりつく。おそるおそるといった様子で少女の頬へ指を差し伸ばした。だが、閉じられた長い睫毛はさやとも震えない。あの鋭い光を宿した眸が暁を見据えることもない。声が、紡がれることもない。

「嘘でしょう? うそだ、柚葉さま、負けないって言ったじゃないですか。そう仰ったじゃないですか。ねぇ、柚葉さま。起きてください。柚葉さ、」
「暁さん」

 少女を揺さぶろうとすると、それを肩をつかんで止められる。漱は長身を折って、柚葉の身体を抱え上げた。

「あの方が呼んでる。あなたは早くそちらに行きなさい。死体処理はわたしがしておきます。まだこの子の死が露呈しては困るからね」
「いやです、柚葉さまをどこに連れていくんですか!? やめてください返してください、その子は私の大切な子なんです! その子は大切な……八代さまと風結さまの残したかけがえのない子なんです。連れて行かないで……かえして、かえしてください私に柚葉さまをかえして――」
「――暁さん」

 とりすがろうとした暁をぴしゃりと遮って、漱は言った。
 
「わたしはね、今とても失望してる。あなたは橘一族を裏切ることを決めたのに、今さら何を取り戻そうというの?」

 ふ、と漱は口元に冷笑を浮かべ、肩をすくめた。

「何とまぁ安っぽい復讐心でございますね」

 頬を打たれたように暁は目を見開く。
 それに今一度肩をすくめてみせると、漱は身を翻した。
 どさ、と膝をつく気配があり、ほどなく背後からか細い慟哭が上がる。嘘だ、柚葉さま、柚葉さまと泣き叫ぶ男の声を、漱は冷めた面持ちで聞き、そして戸口から逃げ出そうとしていた砂色のねずみをつまみあげた。

「――あーあ。完敗だね、弟君」

 笑ってじたばたともがくそれを懐に入れた。