六章、残月と、雲路の果て
三、
ことん、とかじかんだ指先が手元を誤り、湯飲みを倒してしまった。
おやおやと対面に座って湯飲みに口をつけていた少女が苦笑を浮かべる。
「当主殿が。珍しいこともあるものよのぅ」
「申し訳ないです。畳を汚してしまって」
颯音は詫びて、衿から出した懐紙で畳に広がった茶を拭こうとする。けれどその前にすばやく百川の家人が駆けつけて、乾いた布を畳に押し付けた。
見れば以前、颯音が昏倒させた家人である。すいませんね、と声をかけると、あちらはじとりと何とも言えない視線をこちらへ向けてきた。それきり言葉もなく、ただ黙々と畳を拭き、空になった湯飲みをさげる。逆立ちしても友好的とはいえない態度から察するに、どうやらあのときの恨みは未だ消えることなく引きずられているらしい。
颯音は苦笑し、それとなく膝に乗せた手に手を重ねる。
「当主殿。もしやこの部屋、ちとお寒いか?」
「いえ、そんなことは」
「手が少し震えているようだが」
「気のせいでしょう」
応えながら、颯音は目の前の少女の観察力に内心舌打ちをする。
紫陽花の指摘はそのとおりで、こうして手を組んででもいなければみっともない醜態をさらしてしまいそうなのだった。
何故か、恐ろしいまでの焦燥が颯音の胸のうちで頭をもたげていた。それは何の根拠も前触れもなく急に襲ってきたので自分でも判然としないのだが、あえていうのなら『虫の知らせ』といった類のもののようだった。漠然とした予感が呼び起こす不安と、焦りと、恐れ。
――恐れ? と颯音は自嘲する。
自分が、恐れ? らしくないどころか、矢か棒が天より降り、葛ヶ原のたぬきが逆立ちをして歩き出しそうである。そう思って振り切ってしまおうとするのだが、一度植えつけられたそれはおさまるどころか、かえって大きく膨らんでいくばかりである。今すぐに帰らなければならない、と半ば脅迫じみて思う。今すぐに帰らねば、俺たちは取り返しのつかないことになる。そしてこういうときの自分の予感はとてもよく当たるのだった。
「――紫陽花さま」
「うむ? 何じゃ?」
「予定を繰り上げたいんですが。今夜にでもここを発つことはできますか」
「と、言うてもな……」
紫陽花は心なし困った風に障子戸の外へ目をやった。否、この少女の場合は耳を、といったほうが正しいだろうが。
「ひどい雨が降っておる。地盤が緩み、よほど慣れた馬、乗り手でなければ峠を越えるのは至難の業であろうよ。――今日はもとよりそのことでおぬしに話があったのじゃ。雨が止むのを待って発たれたほうがよろしい」
「けれど、」
「この時期ならば、おそらくは数日で止む。待たれよ」
有無を言わさぬ口調で畳み掛けられ、颯音は口を閉ざす。
いくらひと月半を過ごしたからといって、瓦町の地理や気候には紫陽花のほうがずっと明るい。その紫陽花が待てと言っているのだし、それに正直、葛ヶ原からの道中、山慣れしていない馬で峠を越えるのはなかなかに骨が折れたので、この雨ならば確かに馬が動かなくなってしまうとも限らなかった。
数日待てばよいのだから、と颯音ははやる気持ちを抑える。今までだってひと月半も待ったではないか。
「当主殿。待つのはお嫌いか?」
「――大嫌いです」
「ふふ、はっきりと言うものよの」
紫陽花が苦笑を漏らす。
颯音は目を伏せ、家人が持ってきた湯飲みに口をつけた。それで少し表情を歪める。もしやこの尋常あらざる熱さは故意にだろうか。
ちら、と家人へ一瞥をやると、にやっと目が笑った。
――わざとだ。恐れ多くもこの天才風術師に嫌がらせとは面白い。颯音はにっこり微笑み返すと、家人に見せ付けるようにして平然と茶を飲み干す。相手が目をかっ開いた。
「おいしかったです。特にこの温度がすばらしい。お代わりはいただけますか」
空になった湯飲みを差し出すと、あちらは人外の者か何かへ向けるような視線をこちらへ送ってきた。お盆に湯飲みを載せ、いそいそと部屋から逃げていく家人を颯音は意地悪く笑って眺める。――完全なる八つ当たりだった。ああ舌がひりひりする。
「おぬしという奴はほんにようわからんのぅ……」
「はい?」
「うん、いやいいのだが。それより――」
「紫陽花さま! た、た、た、大変でございます!」
「うむ?」
そこへさっきの家人がばたばたと舞い戻ってきた。湯飲みを載せたお盆はいまだ手に持たれたままだ。茶をすすっていた紫陽花は気だるげな視線を上げた。
「騒がしい。何があった?」
「それが、妙な子どもが屋敷に入り込みっ――」
「子どもくらいでいちいち取り乱すな。そのようなもの叩き出せばよかろう」
「いえ、それが今まさにこちらへ向かっているのでございま」
す、まで言い終わらないうちに背後の襖が開かれる。ぽたぽたと床に雫が滴らせながら立っているのは小柄な人影であった。
「ああ、いた。やーっと見つけた……」
少年はゆっくり首をめぐらせると、濡れた頭を子犬のようにぷるぷると振って満面の笑みを浮かべた。
「失礼します! 橘一門蕪木透一、帰還が遅すぎてこんちくしょうな当主殿をただいまお迎えに上がりました!」
「……ゆ、ゆきくん……?」
あっけに取られる一同をよそに、透一は部屋に入って颯音の前までやってくる。そして、いっそ晴れ晴れしいまでの笑顔で「当主さま」とその場に膝をついた。
「まずは腹いせに殴ってよろしいですか?」
*
雨足は宵時を過ぎると激しいものに変わった。
「やみませんねー」
早々に湯を借りた透一は薄茶の髪を手ぬぐいで拭きながら、障子戸に映る雨影へ目をやる。
「誰かが雨降り花を摘んじゃったのかなぁ」
「雨降り花?」
「お伽話の中のお花です。摘むと雨を降らせてしまうっていう」
「ふぅん……」
先ほどまでこぶしを振りかぶった透一に追い掛け回されていた颯音は常より若干すげなく相槌を打つ。
「……あや。ご機嫌斜めですか? 颯音さん」
「きみがさっきしつこく追い回したからね」
「もう。結局何もしなかったじゃないですか。僕だってそれくらいの分は弁えてますよー」
弁えているのだったら、自分のあるじの背中に馬乗りになってぽきぽきと関節を鳴らし始めたりはしないだろう。
苦笑し、颯音は刻み煙草を煙管の雁首につめて、炭火へ近づけ火をつけた。ゆっくり煙草を味わっていると、透一がじとりと非難がましくこちらを睨めつけてくる。
「ほら、やっぱり機嫌悪いんだ」
「……えらく確信的だね」
「それくらいわかりますよ。ああもう、だめですだめです、没収です! あのねぇ、それ身体に悪い毒草なんですよ!?」
大げさな。まるで阿片(アヘン)でも吸っているような物言いである。
毒草じゃありません、煙草です、と煙管を取り上げようとした透一からひょいと身をかわし、颯音は障子戸の前に立った。黒檀の羅宇を指に挟み、障子戸を細く開けて外をうかがう。だが、雨は強まるばかりで、てんで上がる気配はない。颯音は濃茶の眸を眇め、吸い口に口をつける。もうー、と透一が不満そうに頬を膨らませた。
慣れた者をそばに置くと、気が緩んでしまって逆によろしくない。少年お察しの通り、颯音は実のところ少々、……いやかなり『ご機嫌斜め』だった。
――戻りたい。早く、一刻も早く葛ヶ原へ帰りたい。……否、戻らなくてはならぬのだと、颯音の第六感はそう訴え続けている。さりとてこの状況ではいかに颯音とて身動きが取れないのも事実だった。もどかしい。まるで泥に馬足を取られたかのような遅々とした状況に、颯音はいつになく苛ついた。
「……雪瀬たち、どうしてる?」
煙ったい息を吐き、新鮮な空気を吸い込むのと一緒に別の問いを差し向ける。
元気ですよ、と少年はにっこり微笑った。
「真砂さんのことがあって薫ちゃんとかちょっと落ち込んでたみたいですけど」
「ああ。真砂くん、ね……」
従兄弟にあたる青年が裏切りを企て、葛ヶ原から姿を消したことは颯音の耳にも入っていた。そんな時期に薫衣や雪瀬、柚葉や透一を葛ヶ原へ置いてきてしまったことを颯音は少し後悔してもいる。
「大丈夫かな。……あの子はあれで脆いところがあるからねぇ」
「――わかっているなら、置いていかないであげてくださいよ」
ぽつりといつになく真剣な口調で言われる。
颯音は目を瞬かせ、七輪の前で丸まっている少年のほうへ視線をやった。まじめそのものの顔で睨めつけられ、つい苦笑を漏らす。
「ああ、とても意地が悪いって?」
「そうじゃなくて――」
「失礼します」
そのとき、外から声がかかり、襖が控えめに開けられた。
「代えの衣をお持ちしましたが……?」
現れた家人……もとい柊は部屋に漂う微妙な空気を嗅ぎ取ったのか、おろおろと戸惑いがちの視線を交互にやる。颯音はどうぞ、と目を伏せ、中へ入るよう促した。
「衣って、わーありがとうございますー! 明日どうしようかなって思ってたんです」
どうやら柊は雨や泥で汚れた透一の衣服を慮って、新しいものを持ってきてくれたらしい。
「百川の家人さんはみなさん情に厚いんですね。うちのあるじとは大違い。えーと、」
「柊、と申します」
「ひいらぎさん」
うなずき、透一は着物を受け取った。透一は男としてはかなり背が低いほうであるのでちょうどよい丈のものを見つけるには骨が折れただろうに、ご苦労なことである。そう思ってちらりと着物を盗み見ると、可愛いひよこ柄の踊る……つまりは子供用だった。
「柊さんはどこの家の家人さんなんですか?」
「三家の、という意味でなら、一ノ家、刀斎さまに仕える身になりますね」
「ああ、百川特有の……一ノ家、式ノ家、法ノ家、というやつですか」
「はい。百川諸家は古来より一ノ家が軍事を、式ノ家が祭祀を、そして法ノ家が内政を司っております。現在は刀斎さま、紫陽花さま、漱さまが継いでおられる」
颯音はすでに聞いたような話であるので、口は挟まない。
ただ煙管を口にくわえながら、ひよこ柄の着物を少年に合わせてみたりしていると、それを嫌そうにぱっぱとはたき、透一は柊のほうへ膝を進めた。
「漱さまといえば。僕葛ヶ原からの道中それらしき方をお見かけしましたよ」
「まことですか?」
「巧みな馬裁きで思わずうっとりなっちゃいました。葛ヶ原のほうへ向かっているみたいだったんですけど、何かあったんですか?」
透一は颯音と柊の双方へ視線を投げかける。
漱とは碁を一局、と約束したきり会っていない。
颯音は肩をすくめ、柊へ質問を投げた。だが、柊のほうは鳩が豆鉄砲を食らった顔、というのにふさわしいかんじで口をぽかんとあけている。
「……それは本当に漱さま、でしたか?」
「え、ええ。たぶん……遠目だったから絶対とは言えませんけど」
少し自信をなくした様子で透一がうなずく。
柊はしばらく黙考していたようだったが、やがて首を振った。
「非礼をお許しください。ですがおそらく見間違いだと思います。漱さまはここ数日屋敷にこもられ、政務に追われていると聞き及んでおりますから。紫陽花さまもそのように仰っておりました」
「――ああ言ったな。奴は数日どころかここ半月ほど瓦町から出てはおらんよ」
おもむろに言葉が継がれ、半開きのままになっていた襖からすっと少女が顔を出す。まるで影法師がそのまま抜け出てきたかのような登場の仕方であった。さりとて、目を丸くしたのは透一だけで、颯音はもちろんのこと、柊もすっかり慣れた風である。
「蕪木殿」
「は、はひっ!?」
「なぁにそう怖がらんでよい。別にとって食うでもなし。――なぁ当主殿、おぬしからもそう言ってたもれ」
「さぁ。紫陽花さまの主食はあいにくと存じませんのでなんとも」
ひらりとかわすと、紫陽花は失敬なと眉根を寄せた。
「私の好物は栗屋の豆大福だというに。しかし、蕪木殿。漱を見たと申すか」
「え、ええ? う…、はい」
「ふふ、ご存知かな。瓦町から葛ヶ原の境の峠にはそれはぎょうさんあやかしが住むという。もしや狐に、化かされたのではないかの?」
くくくと紫陽花は喉を鳴らして笑う。
透一はどこか怯えたような顔をして、颯音の袖端をぎゅっと握った。
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