六章、残月と、雲路の果て
四、
「桜、ちょっと来てみろ」
桜が台所で茶器をすすいでいると、居間のほうから瀬々木の呼び声がかかった。軽く水切りしてから、桜は軽い足音を立てて居間へ向かう。
瀬々木の前に置いてあったのは、重箱とそこに所狭しと詰められた料理だった。
「夕ごはん?」
――には、少し早いなぁと思いながら桜は漆塗りの蓋を取ってみたりする。中には色とりどりの料理がぎっしり詰まっていた。どれが何なのかはいまいち判別がつかないが、とりあえず黒豆の隣にあるのは海老のおかしらだろう。
「いや。実はさっき、お前らが来る少し前に馴染みの船宿の女将がやってきてな、正月に出す料理の試食を置いていったんだ」
「ショーガツ」
「もうすぐ年明けだから。来る途中、門松や注連飾りが売られてなかったか? ああやってみんなで祝うんだ」
瀬々木は料理のひとつ――栗きんとんをすくって桜の口に入れた。
「俺はちっと甘すぎると思ったんだが。どうだ、うまいか?」
「ん、」
おいしい、という意味をこめて桜はこくりとうなずく。瀬々木は目尻を下げて笑い、来たときより元気になったな、と桜の頭を撫ぜた。
「仲直りはできたのか? 雪瀬と」
できた、のだろうか。きちんと言葉を交わして確認したわけではなかったけれど、見送ったときの雪瀬はここに来るときとは違う柔らかな空気をまとっていたので、きっと悪化はしてないはずだった。桜は小さく、目に見えるか怪しいくらいほんのちょっとだけ首を縦に振る。
「そうか。そりゃあよかったな」
苦笑し、瀬々木は箸を置いて箱の蓋を閉めた。
それで桜は別のこと――瀬々木に呼ばれたせいで後回しになっていた本来の用を思い出し、懐から綺麗に折られた一通の文を取り出す。
「せぜぎ、これ」
「うん?」
「柚葉が。瀬々木にって」
そうなのだ。雪瀬がいたせいですぐには切り出せなかったけれど、この文を届けるために桜はここまでやってきたのだ。
「柚が? なんだ、ご丁寧にお前の病状でも記してきたか」
「びょうじょう?」
「睡眠不足と食欲不振なんだろう?」
「……食欲? ううん?」
それは、確かにいつもより少し眠れなかったりごはんを食べられなかったりはしたけれど。別に瀬々木に診てもらうほどのものではない。
若干の齟齬のようなものを感じながら、桜はとりあえず中を早く見てくれるよう瀬々木を促す。柚葉は雪瀬には内緒でこの文を瀬々木に渡し、その指示を仰げ、と言っていたのだ。桜は未だひらがなしか読めないし、早く瀬々木に読み上げてもらって次のことをしないといけない。
「ってなんだこりゃ」
畳んだ懐紙を開いていた瀬々木がとたんいぶかしがるような顔になる。
「何が書いてあったの?」
「何もへちまも、真っ白だよ」
肩をすくめて、白い紙を返される。
「嘘……」
懐紙を裏返し、さらに文を包んでいた少し厚い紙のほうも確かめてみるが、文字らしきものは何もない。ひやりとしたものがうなじを撫ぜた。言葉にできない――ただ『嫌な』としか言い表せないような予感が胸に暗い影となって射す。
だって。だってこれじゃまるで。
まるで、真砂がいなくなったときみたいだ。
「――……っ」
桜は文を畳に置くと、ぱっと立ち上がった。
「お、おい桜?」
戸惑う瀬々木をよそに自室に駆け戻って、毬街を出るための木鈴と銃とをひっつかむ。
「桜。どうした? 何をしているんだ」
「葛ヶ原にもどる」
「戻るって言ってもな。この雨だろう。街を出る頃には真っ暗に――」
「もどるの!」
戻らなければ。
早く戻らなければ。
柚葉がいなくなってしまう。真砂のときのようにいなくなってしまう。
桜は肩をつかんできた瀬々木の手を力いっぱい振り払い、診療所を飛び出る。桜!と戸口のほうから追いすがってくる声がしたが、振り返らずに無我夢中に走った。外気が冷たい。息を吸い込むだけで肺がぎしぎしいった。
どうして、と額にぽつぽつと差す雨の冷たさに震えながら呟く。
桜は柚葉の力になるつもりであそこに行ったのに、そうしたいと心の底から思っていたのに、どうして今さら嘘なんかついて蚊帳の外に追い払うのだ。こんな風に、こんな風に守ってもらっても全然うれしくなんかない。うれしくなんかないのに。
けれどそれ以上に、こんな簡単な嘘すら見抜けなかった自分の愚かさのほうを呪いたかった。どうしよう。どうしよう、どうしよう雪瀬。桜のせいで、また取り返しのつかないことになってしまったのだとしたらどうすればいい? ぞっとするような想像がめぐり、うっすら眦に涙が滲む。桜は喉を震わす嗚咽をかみ殺して、手の甲でごしごしと無理やり涙をぬぐいながら走った。
降り出した雨のせいで人気の絶えた大通りをしばらく走ってから、落雁と呼ばれる橋を渡り、川沿いの道をまっすぐ進む。次第、閑静な臙井地区を外れ、あたりをにわかな喧騒が満たし始めた。絶えていたひとの通りもまた多くなる。
ぬかるんだ足元に赤い光が落ちる。
遠くのほうから微かに聞こえた三絃の音に引かれて桜は顔を上げた。見れば、左上方からほのかな明かりが漏れている。雨であたりが急に暗くなったせいだろう。まだ光の入っていない提灯に慌しく火を入れている男の姿が見える。二階立ての建物に沿ってぽつりぽつりと光を灯らせていく提灯は、濃い紅色をしていた。その建物の柱の色を見て、桜はああと思った。
毬街には、普通の客を相手にした旅籠の並ぶ玄楼街、港の近くにある青楼街、そして芸妓が蝶のように舞う紅楼街がある。その名の通り、玄楼は柱が黒く、紅楼は柱が赤いのだという。察するに、ちょうど後者の紅楼にあたる場所に差し掛かってしまったのだろう。
さりとて今の桜には関わりのないことだった。
彷徨わせていた視線を振り切って、桜はきびすを返そうとする。
そのときだった。
紅い柱の影をひとりの男が横切る。光を受けて朱色に染まる黒髪に、ひょろりとひとより頭ひとつぶん高い背。見間違えるはずもない。それは、暁だった。
「どうして……?」
何故、今ここに暁がいるのだ。
桜はその場にたたずみ、それから青年の腕に大儀そうに抱えられた不恰好な包みに気付いて細く息をのんだ。――銃だ。
それを見てしまっては引き返すことなどできない。
桜は川沿いに向けかけていた足を返し、暁を追って紅楼と書かれた大きな赤門をくぐる。一歩踏み入れると、たちまち赤い色彩が視界を満たした。赤。赤。赤。無数に揺らめく提灯の明かりに眩暈を覚えそうになりつつ、桜はぎゅっとこぶしを握ってひとごみを縫うようにして歩く。
暁はどうやら店を探しているらしい。看板を見つけては立ち止まり、首を振ってまた歩き出す。それをしばらく繰り返したのち、青年は立ち並ぶひとつの店の前で止まった。小さく顎を引き、暖簾を押して中に入る。
ふらふらと吸い寄せられるようにそちらに数歩踏み出してしまってから、桜はふと我に返って立ち止まる。どうするべきか、少し迷う。店の名前は覚えた。一度葛ヶ原に戻って雪瀬に伝え、判断を仰ぐべきだろうか。
だけども、そうこうしているうちにまた真砂のようなことが起こるとも限らない。あんな風な、――目の前にいたのに助けられなかった――失い方をするのはもう嫌だ。
桜は今一度、男の入った紅楼をきっと見据えると、確かな足取りでそのあとを追った。
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