六章、残月と、雲路の果て



 五、


「いらっしゃいませ」
 
 出迎えた女がこちらの顔を見るや、いぶかしげに眉をひそめるのが気配でわかった。世間というものに疎い桜だって、この店に自分のような女、しかも子供がお呼びでないのは察しがつく。いらっしゃいませ、の声をかけたまま笑顔を強張らせた女を仰ぎ、桜は少し考えてから、

「……おじゃまします」

 と頭を下げた。
 それは桜の知識においては、ひとの家に上がる際に使う正しい言葉だったはずなのだが、とりあえず現状においては激しく場違いであったらしい。はい、とうなずいたまま女はぱちぱち目を瞬かせた。
 桜は焦る。基本、表情というものがないのであまりそのようには見えなかろうが、内心は相当焦っていた。どうしよう、何て言ったら入れてもらえるのかな。上がらせてください、って言ってもだめかな。

「もしかして、迷子さんでしょうか……?」

 腰をかがめて桜の目線に合わせ、女が問いを差し向けてくる。
 桜はふるふると首を振った。心境は迷子さん状態なのだが、今は暁を探している最中なのだ。

「迷子さんではない?」

 女はあてがはずれたといったかんじで聞き返した。

「……うん」
「そうですか。では、どなたかとお待ち合わせを?」
「ううん」
「本当におひとりで?」
「うん」
「……あの、差し支えなければ、当店へどのようなご用事でいらしたのか教えてくださいませんか」
「ようじ……」

 女の言葉を繰り返し、桜はううと難しそうな顔をして眉根を寄せた。用事なら、あるのだが。でもどちらかというとこの店ではなく、暁のほうに。
 
「よろしければ。何かお力になれるかもしれないので」

 何せ、うんとううんしか言わない桜である。普通ならば愛想を尽かして店を追い出してもいいところだが、根気よく、微笑んでくれたりしながら女は尋ねてくれる。なんとなく、だが、このひとはいいひとそうだ。根拠も何もない、ただ動物的な勘のようなものでそう感じ取って、桜は女のほうへ少し歩み寄った。

「あの。暁、というひとが」
「あかつき?」

 問い返され、桜はさぁいったいどう説明すればよいだろうかと考え込む。
暁という男がここに今入ったと思うが、彼がこれから銃という武器で桜の大切なひとを撃つかもしれないので入らせて欲しい、と言って信じてもらえるだろうか。頭のおかしい子と思われて、門の外まで手を引いて連れて行かれるのが相場ではないだろうか。

「――……」

 泣きそうな表情になって、桜は唇を引き結ぶ。わかってもらいたいのだけど、うまく説明をできる自信がない。このひとを説得して首尾よく中に入れてもらうにはどうすればいいんだろう。どうしたら信じてもらえるのだろう。
 こういうとき雪瀬だったら? 雪瀬だったらどうやって入れてもらうだろう。
 ――そこまで考えて、桜ははっと天啓を得た。
 
「っあ、兄……、」
「お兄さま? ですか?」
「そう。にいさま。にいさまを、探していて私……」

 そうだ。嘘も方便、とはまさしくこのようなときに使う言葉ではないのか?
 嘘をつけ。つくのだ。舌の上で空回る言葉に、早くも膝ががくがく震えてくるのを感じたが、だいじょうぶ、できる、やる、と桜は自分に向かって念じる。何せ桜はもう一年近くもかの嘘吐き少年のそばにいたのである。橘一族など真砂を含め嘘吐きだらけだ。嘘吐き付き合い歴は伊達じゃない。
 桜は軽く息を整えると、ぐっとこぶしを握り、顔を上げた。

「わたし、にいさまが、ええと、ええと……おかね? そうお金を、忘れたから持ってき、ちがう、届けに、届けいけって、に、にいさま! ちがう、おおにいさま! 大兄さまに言われて、そう、だからわたし、ここにきたの。――ここに来たの、です」

 そこまでを一気にまくし立て、はーっと息をつく。ちょっと不自然なくらいどもっていたが、しかし女はそれを緊張ゆえと解釈したらしい。

「まぁそうだったんですか」

 得心がいった様子でぽんと手を打つ。

「お兄さま想いの感心した妹さんですね」
「うん、私兄さま大好き」
「ふふ、どうぞおあがりください。――ああ、お兄さまの容姿は?」
「髪の色は黒で、背は高くて、眸は青……」
「あぁあの方。あの方でしたら、先ほどご案内したばかりですよ」
「……どこへ、」
「二階の一番奥です。先客にもうお一方殿方がいらっしゃいましたからね、待ち合わせか何かじゃないでしょうか」

 そう、とうなずき、桜は下駄を脱いで店に上がりこむ。女がそれを下駄箱に入れ、代わりに“は”と書かれた札を渡した。

「お帰りの際には、私に渡してください。そうしたらお履物を持って参ります」

 桜は札へ目を落とし、こくっと首を振る。

「お兄さまのところまで案内しましょうか?」
「――ううん」
 
 きっとこのひとも仕事があるはずなのだし、そこまでしてもらっては悪い。それに暁と顔を合わせたら、兄妹設定が嘘であることがばれてしまう。気安く申し出てくれた女へ首を振って、桜は階段をのぼる。二段目までのぼってしまってから、桜はつと足を止め、女を振り返った。

「……あの、」
「やっぱり道、わからない?」
「ううん。ありがとう」
「いいえ。お兄さま、きっと喜びますよ」

 微笑み、手を振る女に、桜も小さく手を振り返した。




 途中何度か食膳を運んでいる使用人の女たちとすれ違いながら、ぺたぺたと裸足で階段を昇り、桜は二階へとたどりつく。外も紅に包まれていたが、内装もやはり柱などをはじめ、紅が基調になっている。ただの赤ではなく、少し鮮やかさの増した紅。普段、屋敷の木目の露出した柱に慣れている桜にはどうにも違和感がある。

 椿の描かれた襖の中には他にも客が幾人か入っているようであった。たまたま開いている襖から中を好奇心まじりにのぞきこんでみたところ、しどけなく衣を乱れさせて身体を重ねている男女を見つけてしまい、桜は慌てて目をそらした。薄々そうなのかなと思っていたけれど、やっぱりそういうところだったんだ。

 では、暁も奥間で先客のひととそういうことをやっているのだろうか。
 考え、桜はまたぺたぺたと歩き出す。
 ――だとしたら。
 好都合だった。隙をついて桜でも暁の銃を奪い取れるかもしれない。
 桜は帯締めにかけた銃を握りこんだ。


 狭い廊下をもう少し進むと、突き当たりが見えてくる。
 奥間からはうっすら光が漏れているようだった。
 ひとがいるのは確からしい。
 幸い、奥間のひとつ前は空き部屋になっていたので、桜はその前で足を止めると、誰もいないことを確認してそっと中に忍び込んだ。襖を後ろ手に閉める。

 以前少しの間だが旅籠に泊まったことのある桜の見立ては外れていなかった。暁のいる奥座敷とこの部屋は、どうやら内襖を隔てて繋がっているらしい。閉め切られた内襖から、隣の部屋の明かりが細く漏れて、畳に光の筋を描いている。微かではあったが、ひとが囁きあうような声も聞こえた。

 最初は見通すことが難しかった室内も、だんだんと夜目が利いて、おぼろげながらも輪郭がつかめるようになってくる。奥のほうへ太刀と羽織、そして例の包みが無造作に置かれているのを見つけ、桜はひゅっと息を呑み込んだ。
 これだ。この包みだ。
 歓喜が胸に広がる。
 見つけた、この包み。
 この包みにくるまれた銃さえどうにかしてしまえば、もう真砂のようなことは起こらない。
 
 桜は隣の部屋の暁らに気づかれぬよう、息をひそめて足を踏み出す。一歩。二歩。この距離ならば、下手すると衣擦れのような些細な音だって伝わってしまう。心臓の鼓動が喉をせりあがって、頭の内側にまで響いてくる。緊張で肩が張り、しまいにはくらくらと眩暈がしてきた。帯締めの銃身に添えた指先が震える。その震えが爪先にまで伝わらないことを祈りながら、襖と襖の間に線のように漏れ出た光の筋をかいくぐってさらに一歩踏み出す。

 そのとき、かたん、とすぐ近くでひとの立ち上がる気配がした。
 桜は足を踏み出しかけたまま動けなくなる。
 襖が開かれる。桜は思わず眸をきゅうと瞑った。

 だが、いつまで待ってみても部屋にひとが入ってくる気配はない。ゆっくり目を開ければ、床板を軋ませながら足音が部屋の前を通過していった。
 どうやら、暁かその連れのひとが席を立っただけだったらしい。
 ほぅと桜は胸を撫で下ろし、一応警戒して寸秒待ってみてから、空中で止まっていた足を畳につけた。

 包みの前にかがみこむ。痺れて感覚のなくなっている指先を包みへとかけ、それをつかみ寄せる。抱きしめたそれの確かな質感に、今まで肩に張っていた力がゆうるり解けていくのを感じた。

 ――よかった。これでもう誰も、誰も失うことはないんだ。大丈夫なんだ。真砂のようなことが起こることはないんだ。よかった。よかった。わたし、ちゃんとできた。ちゃんとできたよ雪瀬――……

「これはこれは。かような月の夜に、迷いこんだ鳥がおるな」

 背後からひそやかに囁きかけられたのはそのときだった。
 ごとんと包みが落下する。桜は、呼吸を止めた。
 
 後ろから背に落ちた髪をひと房すくい取られ、つぅと引かれる。身体が芯から凍りつく気配を感じながら、桜は背後を振り返った。
 淡紫と黒の眸が桜を捉える。髪をいじるその男の腕には一度見たら忘れることのできない、禍々しいまでの焼痕があった。

 ――先客にもうお一方殿方が……

 女の声が脳裏に木霊する。桜は声なき悲鳴を上げた。
 居合わせたその男は、――黒衣の占術師・月詠。