六章、残月と、雲路の果て



 六、


「つまらぬ男に呼び出されて来てみれば。これは何とも奇遇ではないか。なぁ鵺」

 男は夜目に見てもなお美しい顔に微笑を載せて、つかみ寄せた桜の黒髪をくるくると指に絡めた。その手を振り払うだけの気力が桜にはすでに残っていない。ともしたら震えあがりそうになる身体を腕をつかんで抑えることしか。

「…………し…て」
「――何だ? 聞こえぬ」

 喉がはりついてしまったかのようだ。
 不意をつかれた驚きと恐怖とで頼りの四肢はがくがくと震え、体温が急激に下がっていっているのがわかる。
 ――それでもぎりぎりのところで桜は何とか自分を保っていた。以前であったならその場で気を失うか、よくて声も出ない身体も動かないという放心状態になっていたところである。桜はつかんだ腕に爪を立て、萎縮する自分を懸命に奮い立たせた。

「――はなして」

 さっきよりは芯の通った声が出る。
 月詠は眉を少し動かして、ほうと唸った。

「離して、か。――なるほど。言葉は使えるようになったが、如何せん、頭のほうの出来は悪いままらしい。そのように言えば、悪かったと詫びて俺が酌を始めるとでも?」

 意地悪く問い返され、桜はぐっと詰まる。そのとおりではあったけれど、頭の出来が悪いと言われて嬉しくなるわけがない。

「ふふ、腹を立てたな」

 月詠は甘く微笑って、桜の髪を離した。あ、と思ったのはつかの間で、身じろぎをする暇もなく肩を押されて、畳に倒されていた。もがいて逃げ出そうとすれば、男の身体が覆いかぶさるように乗って畳に無理やり縫いとめられる。

「だがこちらもいたく腹を立てているんだ。いったい何の真似だ? 外に逃がしてやったら、よもや盗人がごとき真似まで覚えて帰ってくるとはな」

 腹を膝で押さえつけられているせいで身体が動かせない。
 それでもがんとして包みから手を離さないでいると、さらにいたぶられるように腹にかかる力が強くなる。
 喘いだ息が口を割る。臓腑から嘔吐感がこみ上げてきた。

「同じものをふたつ持ってどうする。――返せ」

 低くなった声音には多分に脅しの意味がこめられていた。
 そしてこのひとは実際制裁を辞さない。殺しはしないのだ。だが、殺されるよりも恐ろしいことがあるのを桜は知っている。

「いや……、返さない、いやだ!」

 恐怖から銃を離しそうになる自分を抑えて、桜は必死に首を振る。だってやっと手に入れたのだ。真砂を撃った銃、やっと手に入れたのだ。あとは葛ヶ原に戻って暁を長老会に突き出しさえすれば、桜は大好きなひとたちを守ることができる。桜でも、守ることができるのだ。

「強情だな」
 
 おもむろに腹から足をずらされる。桜は激しく咳き込んだ。
 身体を九の字に折って喘いでいると、後ろ髪をぐいと引かれて先ほどと同じ格好で畳に転がされた。唇を交わらせられる。むせかけた息を吸い込まれ、口内を犯されると、咳き込む気力すら削がれた。どこかを切ったのか、鉄錆にも似た味が口内を広がる。いったいこの飲み下している血はどちらのものなのか。にがくて、痺れるくらいに熱い。血。貪るような口付けは、下唇を甘く吸われ、やっと離された。

「少し見ぬうちに幾分女らしゅうなったではないか」

 息がくるしい。畳に頬をくっつけて泣き喘いでいると、頤をつかんでいた手は首筋へと降り、それから衿をからげた。合わせに手がかかって一気に引き暴かれる。貧相な、痩せぎすの少年だか少女だかすらわからないような身体があらわになる。冷たい外気にさらされた身体は小さく震えた。

「しかしこっちはさっぱり育たんな。色気も何もない」

 白い裸身にまとわりつく黒髪をのけ、指先は身体の線をたどる。
 だけど、愛撫とは程遠い。まるで検分でもされているみたいだ。

「かの老帝が皇后杜姫を娶ったのも今のお前とさして変わらぬ年だったと聞く。公家からやってきた姫は女というよりはまるでめかしこんだ雛人形のようだったらしい。俗に男ははじめての女を忘れられぬというが、かの方の少女趣味はそこに起因するのかな。たまに考えることがある」

 深くて甘い声が耳を撫ぜる。
 男は乱れた髪房を丁寧に耳にかけ、そっと内緒話でもするように顔を近づけた。

「実際、帝は、あれは精がないわけではないが、近頃まったくの不能ゆえな。こちらがねんごろに奉仕をしてやらないとその気にもならんのだと、よく側妾が不平を漏らしておる。――ふふ、だろう? 夜伽のときも褥に入りもせずにいつも菓子ばかりを与えてもらっていたのだろう? お前ときたら夜伽だというに、性技のひとつも覚えておらん。これでは旅籠の湯浴み女以下だ。あれだって男相手に媚を売るくらいは知っている」

 羞恥からきゅっと目を瞑ってしまった桜の、額にかかった髪を大きな手でかき上げ、男は続けた。

「さて、いつだったろうな。存外最近のことだったかもしれん。帝が一度瑠璃紺の硝子瓶を見せてくだすったことがある。そう、桜花の文様の描かれた、異国の飴をいっぱいに詰めこんだアレだ。これを今からお前に持っていってやるのだと喜んでおられた。お前は人形のように顔色ひとつ変えないが、甘いものをやったときは少しだけ眸を細めてくれるのだと。まるで鳥に餌でもやっているような物言いだ。――が、実際に飴をもらうお前を見てなるほどと思った。褥に座って、帝に飴を口に入れてもらうのを待っているお前は鳥どころか市井で飼われている犬のようだった。正気の女官は眉をひそめただろう。少し心ある女官ならば胸を痛めただろう。だが、当のお前は何も理解なんぞしておらん。俺の愛した娘のなれの果てがこれかと思うと、実に滑稽だったな。滑稽にすぎて、いっそその首を絞めて殺してやれば楽になれるだろうかと俺はそればかりを考えていたよ、『桜』」

 桜ははっと目を見開いて、自分にのしかかる男を見る。
 黒と淡紫の双眸が自分をまっすぐ見下ろしていた。常であるなら人形のような無表情を誇るそのひとの顔には今は微かに、憐憫にも似た複雑な色合いが載っている。だが、すぐに大きな手が視界を覆い、何も見えなくなる。

「ところでその老帝の子に朱鷺という皇子がいるのだが、これがなかなか文才があってよい読み物を書く。奴の書いたお伽草紙のひとつにこんな話がある」

 閉ざされた視界の中で、目元を覆う冷たい手のひらと、男の色香を含んだ声だけが鮮明だった。桜は何故か男の話に耳を傾けようとした。

「さる国の若い人形師の物語だ。むかしむかし、という文句で物語ははじまる。人形師には誰よりも愛した女がいた。近く夫婦になると契っていた女だ。女の腹には男の赤子もいた」

 大きな手が胸から腹へ滑り降りる。桜の下腹部には引き攣った古い傷痕がある。それを指でなぞる。

「しかしある不幸が女を襲い――、女は腹を裂かれて赤子ともども息絶えてしまった。残された男は悲嘆にくれ、もう二度と人形を作ることはなかったし、生涯他の女を娶るまいとも誓った。だが、これが昔女に似せて作った人形を前にすると――、不思議に欲かき立てられる。女はもうこの世にはいないというに、その人形の頬は陶器であり、眼窩に収まる眸は石で、髪すらもただの糸の束であるというに、男は欲情を抑えられん。そうして人形の女を床に組み敷き、交わり続けるというそういう話だ。……なんとも気味が悪い。俺ははじめて読んだとき、笑いが止まらなかった」
「……わらった、の?」
「ああ、笑ったな。――お前には」

 目元を覆っていた手を取って、月詠は薄く笑った。

「泣ける話だったか?」