六章、残月と、雲路の果て
七、
嗚咽がひきつけのように喉を震わせていた。
自分でも恐怖で泣いているのか、それとも違った別の感情で泣いているのかよくわからない。ただ身体は情けないほど震え、いくつもいくつも涙が頬から耳へ伝って落ちた。
「さて、この話には続きがある」
淡紫と黒の眸が不思議な色にさざめく。
月詠はおもむろに桜の上から身を起こし、言った。
「ある日のことだ。人形師の前に帝の使いを名乗る女が現れ、くだんの人形を粉々に砕いてしまう。女は風を操る術師であった。かくして、男は終わりのない劣情と嘆きの煉獄から解放される。それからあとは帝のもとで働き続けたという――ここのあたりは実にくだらない、三文小説らしい終わり方だ」
批判を加えるというよりは、無味乾燥に、淡々と言う。重たい頭を持ち上げ、桜はふるりと小さく首を振った。くだらない話のように、桜には思えなかった。どちらかといえばかなしい話なのだと思った。
「なるほど、都の女官どもにうけるわけだ。この手の悲恋に女子は弱いと見える」
口端に皮肉めいた笑みを引っ掛けると、月詠は立てた膝に頬杖をついて、桜の頬に手を伸ばした。泣き濡れたそれを骨ばった手の甲でくすぐるように撫ぜる。
「ここへは暁を追って来たのか?」
「……ん…、」
「何をするつもりで。よもや暁と決闘するわけでもあるまい?」
「……じ、う、」
からかい混じりの口ぶりで言った男から逃げるように桜は顔をそむける。
いつの間にか離してしまっていた包みを引き寄せて、頬にすり寄せ、ぎゅうと抱きしめた。きちんと言葉にはならなかったが、それだけで意味は伝わったらしい。月詠はほう、と感慨なく呟き、それから何か考え付きでもしたように口元に薄く笑みを浮かべた。
「銃か。ならばここへたどりついた褒美にひとつ、選ばせてやってもいいぞ」
「えらぶ?」
「ああ。その銃をここに置いていくというのなら、……そうだな。お前をこのまま無傷で返してやろう。安心しろ、追いかけたりもしない。――だが、もしも銃を離さぬというのなら。ここで五指を一本ずつ折っていくことにする。それでも離さないのなら腕を。足を。それでもというならば次は指を一本一本斬りおとそう。どこまでもつかな。お前の『意志』の強さとやらを示してみせよ」
くつくつと笑う声が耳を撫ぜ、戯れのように今しがた首筋につけられたばかりの紅斑をなぞられた。それで、身体はすぐに冷えていく。
真意をはかろうとしても、異なる色をした双眸は冷たく眇められているだけで、少し前まではわずかにか透かし見えたはずの感情の断片はすっかり隠れてしまっている。
「さぁ、どちらだ桜。答えよ」
冷たい声が二択を突きつけた。
まっさきに脳裏に浮かんだのは、月詠によってなぶられ、いたぶられ、血と肉片を撒き散らしながら死んだ縫の姿だった。同じことを、されるというのか。殺しはしないにせよ、ここで犯され、なぶられ、いたぶられるというのか。
――こわい。
四肢がかたかたと小刻みに震え出す。痛いのは、嫌だ。さっきお腹を少し押されただけでもあんなに痛かったのに。この畳に血だまりができるほどいたぶられるのはどれくらい痛いのだろう。想像もできない。きっとすごく痛いんだ。頭おかしくなるくらい、痛いんだ。
「所詮その程度の意志か。小指一本ぶんにも満たない?」
桜の胸のうちを見透かして月詠は言った。
「ちが……」
「ちがうのなら、どうしてためらうのだろうな」
獲物を狩る獣のように細まった眸が自分を見る。
「あの男はためらわなかったぞ。お前のために指も爪も手も腕も耳も目も臓腑ひとつひとつ血の一滴一滴に渡るまでを捧げた。見事だったな。ほんの短い時間、世話をしただけの娘にここまでできるものかと俺は内心少し驚いたよ。だが、お前のほうはせいぜい盗人の真似をする程度か」
「ちが……ちがう……ちがうわたし、わたしは、」
「では試してみればよい」
冷厳な声が耳を打ったかと思うと、手首を足で踏みつけられる。悲鳴にも似た叫び声が喉をついて出た。骨が折れるような激痛が走り、視界が赤く染まる。桜は自分でも何を言っているのかわからないような叫び声を上げて、その場にうずくまった。
男の足音がすぐそばで聞こえ、びくんと身体が弓なりに震える。容赦なく同じところを踏みつけられ、さらに背後から腕を取られた。指にぐっと反対向きの圧力がかかる。みしりと骨が軋むにいたって、ひっと喉奥から悲鳴が漏れた。それまで逃げそうになる自分を押しとどめていた何がしかが外れ、恐怖が胸いっぱいに広がる。
「…………けて、たすけてきよせ、たすけて……」
みじめな懇願が喉をついて出る。それに頭のどこかで確かに絶望をしながらなお、桜は雪瀬たすけて雪瀬と馬鹿のひとつ覚えみたいにしゃくり上げて繰り返した。
――べきと小枝が踏まれるような音が耳元でしたのは次の瞬間だった。
「ぅあああぁあああああっ」
今までの痛みがぜんぶ吹っ飛んでいくみたいな、荒れ狂うような衝撃が身体に走る。獣みたいな悲鳴を上げ、桜はめちゃくちゃに身をよじった。ちっと舌打ちの音がして、背中から畳に押さえつけられる。それでもしばらく泣いて、叫んで、暴れまわったが、そのうち力尽きてぐったり畳に突っ伏した。
「……ひ、ぁ……」
だが、まだ終わりではない。同じ痛みをあと九回繰り返して、それから腕を折って足を折ってさらには指を斬り落とさねば桜は解放されないのだった。それは恐ろしく長いことのように思えた。
か細い息を繰り返しながら、ああ、と桜は熱っぽい意識の片隅で呟く。
こんなことだったら、暁なんて追わなければよかった、と。
さっきあれほどまでに自分を縛っていた理性の鎖が解け、代わりにむき出しにされた悪感情が胸を覆う。――そうだ。桜は柚葉の言いつけどおり、瀬々木の家でおとなしくしていればよかったのだ。何もしないで、何も見ないで、考えないで、あの家でおとなしくしていればそれでよかったはずだ。柚葉も雪瀬も桜にそれ以上のことを求めていなかったし、そも桜の力などほんの微々たるものだ。それをわきまえて家でじっとしていれば、こんな思いをせずに雪瀬に迎えに来てもらえた。あの胸にぎゅうって抱きついて、お日さまと水の匂いに安心して。それから髪を撫ぜてもらって。そうしていれば怖いことなど何もなかった。
「……ぁあ…あ……帰りた、……かえ、……」
「そうか」
ふっと指にかかっていた圧力が消える。
月詠は淡然とうなずき、泣きじゃくる桜から手を離した。
「ならば銃は置いていけ」
微かな衣擦れの音がして、男が腰を上げる。
ふらふらと身を起こし、桜は呆然と立ち上がる男の背を見つめた。どんな気まぐれかわからないが、月詠は本当に部屋を出て行くつもりらしい。視界端を黒羽織が揺れる。だが、それが完全に消えてしまう前に、知らず、手が伸びていた。
「……まって」
いったい何をしているのだと、頭ががんがん痛む。
黒衣の端をつまんで見上げると、男は苦笑して肩をすくめた。
「我侭はいかんな。どちらかにせよ、と最初に言ったはずだ」
「しってる」
桜はわずかに顎を引いてうなずいた。
黒衣の裾に額をくっつけた。滑らかなそれに額をこすりつけ、いやいやするように首を振る。
「……か…、ない」
「何と?」
「じゅう…は、おいていかない。置いていかない。置いていかない」
絡まる言葉を懸命に繰り返すと、ふっと息をつく気配がした。
「――呆れた自己犠牲だな」
黒衣をつまむ手を煩わしげに払うと、月詠は先ほどさんざん踏みつけた手首をつかんで畳に押しつけた。指を折る代わりに足を開かせられる。
――じこぎせい、と月詠は言ったけれど。
本当はきっとそんなものではないのだと、桜はわかっていた。
桜が驚いて、怖くなって、否定したかったのは、月詠によって引きずり出された醜い本音のほうだった。知りたくなかった。よわくて、みじめで、いつも助けてしか言えない自分を嘘に変えてしまいたかった。
「本当によく泣く。人形のくせに」
呟く声が耳を掠める。その声を桜は虚ろな意識で聞いた。
帰りたい。
そんな言葉が脳裏によぎっては消える。
かえりたい。
かえりたい。
はやく、かえりたいよ。
桜は目を瞑った。
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