六章、残月と、雲路の果て



 八、


 かた、と襖が開き、遅れてきた長老が頭を下げて入ってくる。
 思わずそちらへ跳ね上げるような視線を投げかけてしまってから、雪瀬は微かな落胆をもって目をそらした。
 長老会が始まってもうずいぶん経つが、柚葉は未だに現れない。あの几帳面な妹が無断で長老会に遅刻するなど、今まで一度でもあったろうか。

「ねぇ薫ちゃん。柚さ、どうしちゃったんだろ」

 家に雇い入れたなんとかという男の態度が悪いと文句を言っている長老をはために、雪瀬はひそりと隣の薫衣に囁きかけた。帯元につけた香袋を暇そうにいじっていた薫衣は手を止めて、わからんと首を振る。それからはたと何がしかを思いついたように手を叩いた。

「っあー、そっか。そういやお前、あの場にいなかったのか」
「あの場?」
「ああ。ほら遅れてきただろうお前。柚な、長老会が始まるちょっと前に急に『先に始めていてくださいませ!』って駆け出していったきり、戻ってきてないんだよ」
「ちょっと待って。じゃあ開始時刻には間に合ってたんだ」
「いちおうな」

 それは妙だ。
 薫衣の話からすると、柚葉は正しい開始時刻を知っていた上で故意に雪瀬に間違った時刻を教えたことになる。

「私も気になって、少しあとに表門と裏門の衛兵に柚葉の姿を見かけなかったか聞いてみたんだけど。でも、屋敷を出て行ってはいないらしい」
「どういうこと? じゃあなんで戻ってこないの?」
「だから、わからないんだって。出る前に白川がどうのと騒いでいたから、何か調べ物でもしてるのかな」
「白川……?」

 覚えのある名前だったが、いったいどこで聞いたのだろう。雪瀬はしばらく記憶をたどって、ああ心中した死体のときか、と思い至る。浜に打ちあがった水死体のことを伝えに来た新入り。気負ったところのない語り口と、柔らかな物腰がなんとなく印象に残っている。
 でもその白川がいったいなんだっていうのか。
 雪瀬は話し合う長老たちをぐるりと見回す。どうやら衛兵の躾問題でもうしばらく長引きそうだった。これなら少しの間抜けても誰も構うまい。近くの灯台から明かりを取って、雪瀬は腰を上げた。

「どこに行くんだ?」

 こちらの動きに気付いたらしい薫衣が尋ねる。

「あー……どうしよう。どこにしようかな」
「『御手洗い』が無難でいいんじゃないか? ついでに腹を押さえる演技をするとなおいい」

 ぐっと後ろに伸びをしながら薫衣はのんびり言った。

「存分に用を足されるといい。どうせあのひとら、あと半刻は同じこと言い続けてる」

 薫衣の視線の先には喧々と怒鳴りあっている長老の姿がある。雪瀬は肩をすくめて返し、彼らに気づかれないうちに座敷を抜け出た。
 襖を閉めると、絶え間のなかった喧騒が急に遠くなる。厠のある方向へは向かわず、柚葉の自室のほうへと足を向ける。

「柚、いるー?」

 明かりはない。試しに障子戸を開けてみたが、やはり誰もいなかった。畳まれた夜具、整然と片付けられた文机といったものは雪瀬の呼びかけを拒絶するようにただそこに鎮座するだけだ。つけておいたはずの砂色ねずみの姿もない。早くも頼みの綱を失って、雪瀬は途方に暮れた。

「ったく油揚げぶんちゃんと働けっての。食い逃げか」

 夜の青い空気はしんしんとしている。
 ふと鼻先にひらりと花びらにも似たものが舞った気がして、雪瀬は顔を上げた。雪が降り始めたのだろうか。考え、おもむろに障子戸を開け放つ。
 とたん強い風が目の前を吹きぬけた。
 木の葉を散らす風に髪をかき乱されながら、雪瀬は眸を眇めて不穏な気配に蠢く空を眺める。ぽつぽつと小粒の雨が混じり、やがてあっという間に雨脚が強くなった。風は唸りをあげて空高くを駆けている。
 まるですべてをさらっていくような。
 ――嫌な風だと思った。






 身体を貫かれる痛みというのは何度繰り返しても一向に慣れることがない。
 それでも宮中で夜伽をやっていた頃のほうがまだましだと言えた。桜は痛いということをちゃんと知らなかったから。あの頃の桜の心は樹のうろみたいにすかすかで、薄い膜を隔てた遠いところで揺さぶられている自分を見ていればよかったから。だから、そういうことができなくなってしまった身体で、心で、貫かれるのは頭がおかしくなるほどの苦痛を強いる行為だった。理性なんてとっくに吹き飛んでしまった。桜は狂ったように泣きじゃくって悲鳴を上げて叫び声を上げた。
 やがて涙が涸れ、喉も小さく震えるだけになる。
 ぼんやりと濃い霞のかかった意識の片端で障子戸を震わせる風の音だけが鮮明に響いていた。重い瞼をわずかに持ち上げる。隙間風のせいか、手もとの火影が頼りなく揺れた。青白い炎が細く伸び、風に翻って頼りなく空へ散る。光が落ちた。
 かた、とひときわ大きな音がしたのはそのときだった。

「あのー……お取り込み中のところ、大変心苦しいんですけども」

 襖の間からひょっこり顔を出した青年は、畳に組み敷かれた桜と月詠とを見下ろし、如何とも言いがたい苦笑を浮かべる。
 その亜麻色の髪と、珍しい紅鳶の眸には見覚えがあった。暁に乱暴されそうになったとき、桜を助けて介抱してくれたひとだ。すすぎ、と名乗った青年は携えていた灯りを灯台につぐなり、深々と、いかにもといった風に嘆息した。

「あのねぇ、黒衣の占術師。隣でひとを待たせておいて、それはないんじゃないですかね。いくら寛容なわたしとていささか困ってしまう。それとも、いっそこちらも妓女を侍らしてよいことをしているほうがよろしかった?」
「――暁はどこへ行った?」

 月詠は起き上がると、青年の軽口はまるごと無視して別のことを問う。

「帰しましたよ。報告はわたしが代わりに聞きました」
「余計なことを」
「いいじゃないですか、まぁ別に。あなただって忘れていたんですし」

 肩をすくめ、青年は月詠の胸にぺいと黒羽織を押し付けた。
 状況にいまひとつついていけず、桜は畳に力なく横たわったまま月詠と青年を見比べる。すると、月詠は床に散らばっていた襦袢と小袖とを拾い上げて桜の身体をくるみ、膝裏にもう一方の腕を通して抱き上げた。抗うこともままならずに男の胸に頭を預ける。重たい頭を動かして月詠をうかがうと、部屋の隅に下ろされた。

「――浅ましく逃げ出そうなどと考えるなよ」
 
 耳朶に唇を寄せられ、低い声で脅される。桜の腕を背に持っていくとほどけかかった腰紐で手首を縛り、月詠は腰を上げた。

「漱、報告だ」

 ぱたんと襖が閉まる音と一緒に光の線が途切れ、あたりは真っ暗になる。
 ひとり部屋に残された桜はしばらく月詠の消えた襖のほうへ目をやっていたが、やがて視線を足元に戻し、まだ気だるさの残る身体をもそもそと動かした。部屋の出入り口にあたる襖のほうへ膝を使って押し進む。中途半端な膝立ちの姿勢は両手が使えないせいこともあって、ふらふらと心もとない。それでもなんとか半分くらいまでいったのだが、大きく前に出ようとしたはずみ、誤って自分の襦袢の裾を踏ん付け、「……ひゃ、」畳に顔面から倒れこんだ。
 陸揚げされた小魚か、潰れた蛙みたいに畳を這い蹲って、桜はもがいた。
 手を動かし、紐を解こうとするのだが、暗闇で背中ともあればなかなかうまくいかない。焦燥のためか汗で手が滑り、余計手間取ってしまう。

「んん、……」

 絶望が深い闇を連れて身体を覆うようであった。普通に歩けば数歩の距離であるはずの襖がとてもとても遠く感じる。正体もなく泣き出してしまいそうになるのを歯を食いしばってこらえて、仕方なく顎と膝とを使って這い進む。藺草が顎をこすってちくちく痛んだ。が、全然進めない。手を伸ばせば届きそう距離にある襖が一向に近づかない。
 ふと自分が畳を擦る音に混じって、軽い足音が耳元でした。どんどんと近づいてくる。ひとではない、もっともっと軽い――

「ちゅう」

 暗闇の中、額にそっと何かをくっつけられた。柔らかな毛並みが汗ばんだ肌を撫ぜる。目を上げれば、砂色をしたねずみが桜をじっと見つめていた。ひくひくとせわしなく動く鼻先が額にもう一度触れ、目元を降り、濡れた頬に当てられる。高い体温が小さな身体を通して伝わり、胸を凍りつかせていた何かが溶け出していくのを感じた。ぽろぽろと、こらえていた涙がとめどなく溢れて頬を伝う。ねずみはひどく驚いた様子で流れ落ちる雫をつかむようにした。その小さな手に有り余り、雫は弾けて落ちる。

「うー……」

 頬を畳にくっつけて泣きだしてしまった桜を軽く叩いて慰めると、ねずみはちょこちょこと桜の背に回り、手首を縛っていた紐を歯で噛み始めた。しばらく続けていれば、あっけなく紐が切れて落ちる。

 どんなもんだとばかりに胸を張ったねずみを抱え上げると、桜は手のひらの上にちょこんと座ったそれに頬ずりをした。濡れた頬にねずみが鼻先をくっつける。髭があたって少しくすぐったい。砂色ねずみはそうしてしばらく桜をあやしてから、ひゅるりと腕を伝って降り、出口を鼻先で示した。
 走るねずみを追って襖のほうへ向かおうとしてから、暁の銃のことを思い出して桜は足を止める。幸い、紫色の包みは無造作に桜がさっきいたあたりに転がっていた。はだけていた衣を紐で手早く結び、包みを取って銃把を腰に差すと、桜はきびすを返す。

「ちゅう!」

 しかし次の瞬間、ねずみが髭をぴんと立たせて甲高い鳴き声を上げた。
 背後の襖から男の手が伸びて後ろ髪をわしづかみにされる。

「まったく。つくづくこそこそした真似が好きな娘だな」
「っう、」

 引き寄せられ、襖に身体を叩き付けられる。
 頭と背中を打ちつけた衝撃で息が詰まったが、桜は手足をばたつかせるのをやめなかった。手が離れる。だが、はずみ生じた勢いを殺しきれずに桜の身体はすっ飛ばされて、壁に立てかけてあった大太刀と小太刀を巻き込んで倒れる。口の中を切った気がする。鉄錆に似た味が口内を広がった。
 お腹を思い切りぶつけたせいでうまく息ができない。畳にうずくまって、途切れがちの呼気を漏らしていると、くんっと後ろから髪を引っ張り上げられた。

「呆れるな。一度ならずも二度三度とそれが許されるとでも?」
「う、…」

 視界が涙でぼやけ、かすれた呻き声が喉を震わせる。桜は悔しさに眉根を寄せた。――そう、くやしい。くやしかった。せっかく砂色ねずみが紐を千切ってくれたのに。あと少しで逃げ出せるところだったのに。

 身をよじって男に抗い、桜はがむしゃらに畳に爪を立てる。藁にでもすがるように手をかくと、指先にこつんと冷たい感触が当たった。あ、と思う。ほとんど反射的に桜は畳に転がったその小太刀を引き寄せ、抜いた。無我夢中だった。桜は刀を逆手に持ち代え、背後へ向けてひと薙ぎする。ぶつっと月詠のつかんでいた自分の黒髪が男の手の中にわずかな長さを残して落ちる。
 黒と紫の双眸が軽く瞠られた。
 完璧な美しさを誇るその顔が驚きに歪んだのはおそらくはこれが初めてであっただろう。切れた髪がはらはらと肩から足元に滑り落ちる。荒く息をつくと、桜は月詠へ刀の切っ先を向けた。

「こないで」

 ぴんとその場に緊張の糸が張った。
 膝が震えて崩れ落ちそうになるのを必死に押しとどめながら、桜は口を開く。

「……わ、わたし…わたしはヌエじゃ、ぬえ、なんかじゃ」






『まずは名前を決めようか』

 青年はそう言ってほんの少し考えるようなそぶりをした。
 しばらく顎に手を当ててうんうんと唸っていたが、やがて柔和な顔にふわっとやさしい笑みを綻ばせる。

『じゃあ――『さくら』。桜はどうかな?』






「ぬえなんかじゃない! まちがえないで!」

 あらん限りに声を振り絞って叫ぶと、桜は月詠の脇をすり抜けて廊下に出る。
 腰に挿していた銃を構え、天井へ一発を放った。打ち鳴った銃声を聞きつけ、なんだなんだと閉まっていた襖から男や女が顔を出す。狭い紅楼はとたん騒然となった。集まりつつあるひとごみを縫うようにして抜け、桜は外に出た。




「間抜けだねぇ、黒衣の占術師。まるで女君に逃げられた物語の貴公子のようだよ」

 髪をひと房、手に残されたままたたずむ男を見て、漱はくすくすと屈託なく笑った。
 この青年はいつもあどけなく物を言うので、言葉ほどにはひとに不快感を与えない。おそらく憎まれない性格とはこのことをいうのだろう。月詠は苦笑して、柔らかい絹糸のような、さりとて今は頼りない感触を残すだけの髪の房を握り締める。

「逃げたか……」

 口にしたとたん、胸のうちに得も知れぬ不思議な感情がわき上がった。それは厚く立ち込めた雲がふつりと途切れたときのような、あるいは夜空を埋め尽くす花森が風にそよいだときのような、如何とも形容しがたいものだった。
 おそらく彼女がことごとく自分の想像を裏切ったからだと思った。おまけに最後は、間違えないで、と来た。

「楽しそうですね、黒衣の占術師」
「どうかな」

 乱れた衿を直すと、月詠は銃声を聞きつけてやってきた店の主人を、銅貨を握らせて追い払い、襖を閉めた。

「……追わなくていいの?」
「必要がない」
「ふぅん、そう。ならいいけど。――ああそういえば、彼ね。暁。もう使えないよ」

 漱は畳に落ちた小太刀を拾い上げながら、さながら道具の一つが壊れたとでもいうような淡白な口ぶりで告げた。

「だろうな」

 月詠は顎を引く。
 むしろ思いのほか長くもったと感心しているくらいだ。

「暴走をさせないうちにわたしが斬りましょうか」
「いや、よい。好きにさせておけ」
「……なんだかなぁ。投げやりなのだか、寛容なのだか、あなたははかりかねますね」

 漱はほとほと呆れたといった風に苦笑を漏らした。かち、と小太刀を黒漆の鞘に納め、こちらへ差し出す。

「時折考えるんだけど。あなたさ、本当はどうでもいいんじゃないの? 橘のことも、国のことも、ぜんぶ」
「ふふ、何故そう思う」
「何故、と来ますか」
「面白い答えを返せたら、褒美をやらんでもない」
「へぇ、これは光栄だな。いったい何をくださるっていうんでしょう」

 怜悧そうな紅鳶の眸はしばらく探るようにこちらを見つめていた。
 だが、やがて視線を解いて首を振る。

「でも、やっぱり遠慮しておきます。わたしできるなら長生きをしたいので」
「父母と兄は短命だったからな」
「そのとおり。わたしは彼らの二の舞は踏みませんよ。――それで、刀斎どのは? ご息災でらっしゃる?」

 漱は鮮やかに話の矛先を変えた。
 この男にしてみれば、こちらこそが本題だったに違いない。
 月詠は薄く笑った。

「さぁな。息災かは知らん。が、藍が早馬を寄越せぬということはまだ生きてはいるんだろう」
「……そう。まぁ、いいですけどね。万が一あの方に何かあったら容赦しませんよ」
「ほう、お前がか?」
「瓦町全領民が、です。そのためのわたしだ」

 きっぱりと言い切ると、漱は足を伝って昇ってきたねずみを懐へ入れ、略式の拝礼ののち、部屋を出て行った。



「――逃げるか。それもよい」

 湿った雨の気配がした。月詠は窓の桟に腰掛け、障子戸を開く。
 紅色の提灯が揺れる道を煙るように雨が降っている。ずいぶんと幻想めいた光景だった。水気を含んだ夜風に黒衣の裾を揺らしながら男は手すりにもたれかかる。手を開くと、はらりはらりと黒髪が羽根のように群青の濡れた瓦屋根の上に舞い降りていく。

「逃げよ、逃げよ。そうして自分の目で確かめるとよい。これからかの地で何が起こるのか」

 そうして最後の一糸すらも風がさらっていった。