六章、残月と、雲路の果て



 九、


 宵から夜半にかけて毬街一帯を降った雨は、瓦町に近づくにつれ弱まり、やがてすっかり上がってしまった。雲間から差し込み始めた朝陽に馬上から手をかざし、漱は霧の中にたたずんでいる無骨な関所を見やった。
 毬街から休息をいれずに走ってきたので、愛馬も漱自身もかなり疲弊をしてしまっている。加えてこのぬかるんだ道。いくら瓦町一の俊足とたたえられる風切(かぜきり)とてもなかなかに骨が折れただろう。

「よく走りきってくれたね。帰ったら人参だ」

 雨で濡れそぼった栗毛のたてがみを撫ぜると、風切は嬉しそうに鼻を鳴らした。
 そこでふと足を止め、何か気配を嗅ぎつけでもしたみたいに、鼻面を上げる。つられて頭上を仰げば、雨上がりの淡い色をした空をまっすぐのびる白い点があった。

「白鷺――……扇か」

 橘一族が使役しているらしいあやかしの名を思い出し、漱はまずいな、と呟いた。馬具をがちゃんと揺らして進ませる。

「おーい、扇さーん!」

 駆けながら、遠くの白鷺に向けて漱はぶんぶんと手を振る。声が届いたのか、扇が首をめぐらせてこちらを見た。寸秒探るような間があったのち、ぐんぐんと下降してくる。

「馬上から失礼。百川諸家の漱です」
「知ってる。法ノ家の当主だろう」

 いちおう名乗りを上げると、扇はぶっきらぼうに返して風切の頭に止まった。

「俺は――」
「『扇』さま。存じております。弟くんに仕えてらっしゃる方ですよね」

 如才なく答え、漱は馬から降りた。
 
「葛ヶ原からはるばるお越しになった。――ということは颯音さまに何か?」
「ああ。雪瀬から言伝を預かってな。これから届けに行くところだった」
「奇遇ですね。ちょうどわたしも颯音さまのもとへ顔を出すつもりだったんです。なんなら、一緒に伝えて差し上げましょうか」

 にっこり笑って申し出ると、扇はにわかに警戒するようにこちらを見た。
 漱は苦笑して肩をすくめる。
 
「いえ、別に他意はございませんよ。ただ、屋敷までの足が省けるかなと思っただけで」
「……そうか」

 扇はしばらく逡巡した風であったが、やがて腹を決めたらしく首を上げた。

「言伝は『明日の夕刻、狂い桜の前』。――以上だ」




「おや。漱さまではありませんか」

 部屋にたどり着くなり、涼しげな声がかかった。
 橘颯音である。いつも感じるのだが、どうしてこのひとはこんなにひとの気配に聡いのだろう。漱は若干汗の滲んだ衣をはためかせつつ苦笑した。

「おはようございます。雨、上がりましたね」
「道が乾くのを待って出立するつもりです。紫陽花さまにも先ほどそのように伝えてまいりました」

 颯音は煙管の吸い口に唇をあてながら碁の片手間といった風に言った。その脇ではまだ寝巻きの透一が煙管を取り去ろうと奮闘している。どうやらこの一途な少年は煙草があるじの身体を害すると心配しているらしい。朝の穏やかな光に包まれ、煙管をとりあう青年と少年というのは何とも微笑ましい光景であった。

「これも見納めか。ふふ、寂しくなるなぁ」
「私もです」
「やだな。心にもないことを」

 漱との別れを惜しむような颯音でもあるまい。
 苦笑気味に呟くと、颯音は是とも否とも言わず、文字通り煙管をくゆらせて煙をまいた。

「漱殿」
「なんでしょう?」
「白鷺がね、そろそろ来るんじゃないかと思うんですけども。見ませんでした?」

 一瞬返答が遅れる。漱はそれを微笑で紛らわせながら「いいえ?」と言った。

「見ませんでした」





 奪った銃は帰る途中、海に捨てた。
 こうしてしまえば、もう誰も使うことができまい。
 桜は自分の銃だけを帯紐に引っ掛けて、霧雨の弱く降るぬかるんだ道を歩く。時間は少し早かったのだが、たまたま夜番を務めていた木戸番のひとりが前日の桜を覚えていたことが幸いして、通行手形を見せるとなんとか通してもらえた。
 桜の様子が尋常でなかったこともあったのだろう。濡れそぼった襦袢は肌に張り付き、何度も転んだせいでかぶった泥水がもとは白かった布地をところどころ茶色に染めている。髪は不揃いな長さで乱れ、襦袢からのぞく肌のあっちこっちに痣や擦り傷があった。

 桜が扉を叩くと、顔を出した木戸番は何か化け物にでも出くわしたようにひっと言った。喉がかすれてちゃんと声が出なかったので、仕方なく首に掛けていた木鈴を差し出す。ふたりの木戸番はお互い小突き合ってどちらが手を出すかをためらった末、一瞥をするだけで検分を終えて、門を開いた。
 ――気味悪がられて出されたようなものだった。面倒ごとを起こされる前に追い出してしまえという腹積もりが桜にすら透けて見えてしまった。くぐるなり閉められて鍵がかけられた木戸を一度だけ振り返り、桜はのろのろとまた歩き出す。

 凍てついた風が吹くと、切った唇がしみた。引き裂かれた身体の奥がずきずき痛み、知らず涙が頬を伝い落ちる。何度もしゃくり上げながら、桜は泣き腫らした目元を手の甲でこすった。みじめだと思った。

「――桜さま?」

 桜さまでございましょう、とそのとき駆け寄ってくる衛兵の影があって桜はつと顔を上げる。見慣れた関所の大門が眼前にそびえていた。篝火の炭が爆ぜる音が聞こえる。いつの間にか葛ヶ原へとたどり着いていたらしい。

「こんなお寒う格好で、こんなに濡れて。いったいどうなされました」

 老いた衛兵は持ってきた傘をそっとこちらの頭上に掲げてくれた。
 ありがとうと桜は言ったが、肝心の声が出てこない。不自然な間をいぶかしんだか、老兵は「桜さま?」と繰り返した。

「ああ、お怪我が……。屯所のほうで手当てをしましょうね」

 桜の手首に残った赤黒い痣に気付いて、老兵は軽く腕を取る。瞬間、身体がびくんと跳ねた。ひっとさっきの木戸番みたいな、怯えきった悲鳴が喉をついて出る。さんざん畳に押さえつけられ、身をよじろうとするたび強くつかまれた手首はほんの少し指がかすめただけでもずきりと軋み、つい先ほどの生々しい暴行の記憶を呼び起こす。
 ――嫌だ。手をつかんで、次は何をされるのだ? また畳に組み敷かれるのだろうかそれとも足で踏みつけられるのだろうか指を折られるのだろうか身体を貫かれるのだろうか今度はどんな風にいたぶられるのなぶられるの犯されるの

「はな…、はなして! はなして、やだぁ……っ」

 桜はいやいやとかぶりを振って、老兵の手を振りほどこうとがむしゃらに身をよじる。手はあっけなく外れた。それでもなお腕できつく両肩を抱き、必死に威嚇でもするように視線を上げていると、老兵はびっくりした風にこちらを見つめ返した。哀切とした眸であった。
 あ、と思うと、とたん罪悪感のようなものが胸をふさぐ。わたし今とてもひどいことをしてしまったんだ、と桜は思った。
 けれどもそれがわかっても、今の桜には謝るだけの気力がない。老兵から目をそらして、ただ、とおして、と訴える。

「通して、……おねがい……」
「……あぁそうでしたね。今すぐ」

 老兵は所在無く浮いた手を下ろして、ぱたぱたと門のほうへ戻っていった。まもなく内側から閂が外され、門が開く。通り抜ける際、宗家までお送りしましょうか、と老兵が尋ねてきたが、桜は力なく首を振ることしかできなかった。




 ――どうしたの、それ。

 それは、桜が仮住まいをしていた瀬々木の家から葛ヶ原の屋敷に移って間もない頃だった。庭いじりをしていたら、塀の隙間を縫うようにして伸びていた古い野茨に腕を引っかけてしまった。運悪く、野茨は鋭い棘を持っていて、引っかかれた桜の腕からは嘘みたいに血が流れた。それに痛かった。
 そのときの桜は今以上にかたくなで、また言葉を操るのも下手だったので、誰に手当てを頼むこともできず、自分では唾をつけるくらいしかできず、どくどくと血が流れる腕を抱えたまま途方に暮れてしまった。だから、雪瀬が夕方、部屋にやってくるまで、桜はひとり部屋の隅で丸まり続けていたのだった。

『なんで黙ってるのかなぁ……』

 雪瀬は呆れたように呟き、みしてみ、と桜の腕を取る。薬箱を持ってきて、傷口を洗い、刺さってんね棘、と言った。見れば、傷口に小さな棘のようなものが残っているがわかる。それを彼が抜こうとするので、桜はいやいやと首を振った。なんだか見るからに痛そうだったからだ。こらえていた涙が堰を切ったように溢れて頬を伝う。喉を震わせてしゃくり上げていると、わかったわかった怖くないから、と濡れた頬を引き寄せられ、頭を胸に押し付けられる。何も見えなくなったので一瞬だけほっとしたのだけど、それはつかの間のこと。
 頭を抱えたまま、もう一方の手で腕を持ち上げられると、恐怖がぶり返してきた。桜は雪瀬の胸に必死でしがみつく。洗いざらした小袖からはひとらしい温かな匂いがした。それに顔を押し付けていると、ちくっと腕が鋭く痛んで、けれど次の瞬間には今までじくじくとあった痛みが治まっていくのがわかった。
 
『はい、おしまい。がんばった。えらいえらい』

 ――そう言って、丁寧に涙をぬぐってくれた大きな手を覚えている。
 雪瀬の手はいつもひんやりしていて、刀を使うひとらしく皮膚がところどころ固くささくれだっている。決して綺麗な手ではない。だけど、痛くならないようにささくれたところを避けるようにして涙を拭いてくれるその手が桜はいちばん好きだった。

 何度も転んで泥水をめいっぱいかぶりながら、それでもなお歩くことを止めないのはその手がそこにあると知っているからだ。屋敷に戻ったら、雪瀬がいる。そうしたら、痛いのはすぐに消えてなくなる。棘を抜くように、なおしてくれる。雪瀬が、なおしてくれる。
 そう思うと、少しだけ身体が軽くなった。
 だいじょうぶ、あと少しだから歩けるわたし。