六章、残月と、雲路の果て



 十、


 雲間から差し込み始めた光が宗家の濡れた群青の瓦屋根を反射する。まだあたりは薄暗かったが、遠くで一番鶏の鳴く声がしたので、まもなくひとびとが起き出してくるに違いなかった。
 桜は雨水を吸い込んだせいで重くなった襦袢の袖を絞ると、まばゆい光を眇め見た。雨上がりの空は白い。
 疲れの色が濃いため息をつき、ぐるりとめぐらされた塀に沿って裏手に回る。
 門前にはひとつ、小さな篝火が焚かれていた。
 その隣に所在なく立つ衛兵の姿が朝靄の中、うっすら見える。あちらもこちらの足音に気付いた様子で顔を上げた。

「おや、桜さま。お早いお帰りでございましたね」

 その声に、はっとなって目を開く。

「あか、つき……」

 暁が、そこにいた。





「そう驚いた顔をなさいますな。知り合いの衛兵の寝ずの番を代わってやっただけですよ」
 
 心の欠けた笑顔というのはこうも恐ろしいものだったろうか。
 優しく微笑みかけ、にじり寄ってくる青年から、何か化け物のような得体の知れなさを感じて、桜はあとずさり、足を返そうとする。だが、こちらの動きに気付くなり、暁は身体を押し出すようにして行く手を阻んだ。ことさら背の高い青年は壁に手をついて立っているだけでも威圧感がある。

「桜さま。私の銃をどうなさいました?」
「し…、しらない」
「桜さま」

 不安から肩を抱こうとした腕をつかみ取られる。

「さわらないで!」

 反射的に飛び退り、桜は銃を引き抜いた。はっとなった暁が腰から刀を抜こうとするが、遅い。桜は両腕を差し伸ばし、暁の眉間に銃口を突きつける。

「弾など……」
「弾は、ある」
 
 今は無名に持ってきてもらったものを詰めてある。

「おねがい、ここをあけて。とおして……」

 引き金を引くのはもう嫌だった。銃声を聞くのも、誰かの血を頭から浴びるのも、もう疲れた。桜は銃を持つ腕が早くも痺れてくるのを感じながら「とおして」となんとかそれだけを繰り返す。戦う気力などすっかり消えうせていた。このひとが真砂を撃って崖から落としたという事実すら今の桜には些事に思えた。自分の心のつめたさに苦しくなってくる。でも、それすらも、今の桜には些事なのだった。ただはやく、中に入れて欲しい。雪瀬のいるところに帰りたい。あの優しい手のぬし。じゃないと、頭がどうにかなってしまいそうだった。

「とおして」

 ひっく、と喉が震える。

「とおして……」
「――わかりましたよ」
 
 うんざりとした顔になって暁は白旗を揚げる。眉間にあった銃口から自ら頭をはずして、門の閂に手を伸ばした。注意深く、桜はその背にも銃口を押し当てる。

「聞かないのですね」

 閂を抜き、門を開けながら暁は呟く。

「柚葉さまがどうなったのか」
「柚……?」

 その言葉に意識がふと立ち戻る。
 そうだ、柚葉。
 桜に何も書かれていない文を渡し、柚葉はあのあとどうしたのだ?

「ゆ、ゆず……、柚はあのあと、」
「――死んでおしまいになられましたよ」

 暁は力なく微笑んだ。

「もっとも手をかけたのは私ではありませんが。馬鹿なおひとです。私などを庇って、本当に馬鹿なおひとだ」
「嘘。うそだ……」

 かすれたその声は自分のものじゃないみたいに遠くで聞こえた。
 目の前が真っ暗になる。
 ――ちがう。こんなの、嘘だ。
 だって、暁の銃はさっき海に捨てたのに、何故柚葉が。

 文の中身に気付いて、すぐさま瀬々木の家から取って返した。だけど、あのときにはもうすでに何もかも終わっていたとでもいうのだろうのか。手遅れだったと、間に合わなかったのだと、桜のしたことすべて、最初からすべて無駄なことであったとでもいうのか。

「嘘つかないで!」

 桜は暁の胸に取りすがった。
 がくんと力なく揺さぶられた青年は、目元を覆うように手を額に当て、くつくつと笑い出す。やがてそれは激しい哄笑に変わった。

「燃えるような目をしてらっしゃる。私が憎いですか桜さま」

 ふっと笑みをおさめると、桜の両頬を引き寄せ暁は言った。

「ええ、そうです。柚葉さまを、あの清廉なる心の持ち主を消し去ったのはこの私だ。憎みなさい。そう、そしてその引き金を引くといい。正直、もううんざりしていましたからねぇ。夜な夜な真砂さまの幻影に悩まされるのも! 夢の中で何度も何度もあの方に嬲り殺しにされるのも! 雪瀬さまを撃てない自分も、柚葉さまを亡くして涙なぞを流した自分もええ、ぜんぶ、ぜんぶですよ!  さぁ早く引き金をお引きなさい桜さま! 私を殺しなさい! この卑怯な男を殺すのです! さぁ!」

 ――やめて。
 肩をつかまれ、むちゃくちゃに揺さぶられながら桜は喘ぐ。
 やめて。もうこんなのは見たくない。もうこんなつらいことはいやだ。――いやだよ雪瀬。たすけて。迎えに来て。はやくいつもみたいにもう大丈夫って言って。
 桜はふらふらとあとずさり、開きかかった扉に背をぶつける。
 
「さぁ!」

 耐えかねたように暁が桜の手首をつかむ。
 男の手が、赤黒く変色した痣を乱暴に力の加減もなくひっつかんだとき、桜の中で何かが弾け飛ぶように炸裂した。

「…や、ぁ、いやぁあああああ……っ」




 そして、一発の銃声が地を突き上げた。




 尾を引くような残響が壁をびりびりと震わせる。
 それは長老会にいた雪瀬の耳にも届いた。

「銃声……?」

 いったい何事だと視線を交し合う長老たちをよそに、雪瀬はぱっと席を立つ。

「お待ちくださいませ雪瀬さま!」

 それに気付いたらしい家人が駆けつけ、目の前に立ちはだかった。

「あぶのうございます。まずは衛兵を呼び、私めが」
「いいから。そこをどいて」

 道を阻もうとした家人の横をすり抜け、雪瀬はぱんと障子を開いた。
 濡れ縁から庭に出ると、突っ立っていた衛兵の腰から刀を奪って音のしたほうへと向かう。――ふつふつと腹の底で燻っていた懸念が一気に突き上がってきたかのようだった。銃声。桜だ。桜に何かあったのだ。

 茂みを抜けると、半開きの裏門が風で弱々しく揺れているのが見えた。
 視界が開ける。
 刹那、ずるりと扉に背をもたせていた身体が赤い線を引いて崩れ落ちた。心臓が重く跳ねる。どさ、と地面に生えた雑草を波立たせたその音がまるですぐ耳元で立てられたみたいに響いた。息をのみ、雪瀬は朝靄の中、門の前にひとり立つ人物へと目を上げる。
 銃を握る手はぶらんと垂れ、白い頬には返り血が飛び散っている。
 桜がそこにいた。

「何、を……」

 言葉が中途で途切れる。
 雪瀬は足元にうずくまる暁に駆け寄って抱き起こし、それから、茫洋とした眸でその場に佇んでいる少女を仰いだ。

「――桜?」

 呼びかけに反応して、びくりと少女が肩を震わせる。
 小さく首を振り、桜は追い詰められたような表情になってあとずさった。けれど彼女がきびすを返そうとするその前に、あたりへ音を聞きつけた衛兵たちが駆けつける。彼らはおのおの、返り血を浴びた桜と暁と雪瀬とを見比べた。

「雪瀬さま、これは……」

 衛兵のひとりが困惑した様子で訴えてくる。
 それで我に返り、雪瀬は暁の傷口を見た。肩のあたりを撃ち抜かれているが、人形の命の源である符は傷ついていない。

「焼酎……、焼酎持ってきて! あと布と糸と針、血止め薬とお湯! 医術に心得があるひとも呼んで!」
「ぎょ、御意に!」

 家人が慌てた様子で屋敷に駆け戻っていく。
 雪瀬は自分の上着を脱いで小刀で裂くと、それで暁の腕をぎゅっと縛った。
 銃弾は暁の肩を貫通したらしい。血に濡れた薬莢が地面に転がっていた。

「――雪瀬! 暁が血ぃ流して倒れてるって!?」

 家人に話を聞いたのだろう。布を両手いっぱいに抱えて走ってきた薫衣は、その場にたどりつくなり、「どいて」と言って暁のかたわらにかがみこみ、上着を開いた。

「血管が傷ついてんな。出血が多い……」
「雪瀬さま、薫衣さま! 焼酎を持って参りました」
「貸して」

 薫衣はすばやく栓を抜いて、それを暁の身体に降り掛ける。
 暁は酒が傷口にかかったときだけ微かに身じろぎしたが、蒼白な顔つきのままあとは動くことはなかった。