六章、残月と、雲路の果て



 十一、


「いったい何がどうなってるんだ……」

 薫衣はそこら中に散らばった、血を吸った布を片付けながら呟く。
 暁は今、手当てを終えて褥の上に横たえられていた。命に別状はなさそうだが、重傷である。
 治療に使った布や湯をすべて片付けてしまうと、薫衣はおもむろに衿元から懐紙に包んだ薬莢を取り出し、「雪瀬」と言った。長年の付き合いから来る勘のようなもので彼女の意図することを読み取って、雪瀬は衛兵に左右を固められるようにして部屋の隅に座り込んでいる少女へ目をやる。桜は放心したような顔つきで暁を見つめていた。

「……桜」
「――お待ちくだされ!」

 だが後方から飛んできた声がそれを遮る。
 集まった家人や衛兵たちをよりわけ、進み出てきたのは雪瀬にも馴染みの老兵であった。

「わたくしからご報告を。雪瀬さま。薫衣さま。長老さま方。一部始終はわたくしが見ておりましたゆえ」
「見ていた、だって?」
「はい、薫衣さま」

 老兵は普段は人懐っこい笑みばかりを浮かべている顔を、ひとが変わったように蒼褪めさせ、わななく唇を動かす。

「わたくしは昨夜から今日の明けにかけて毬街との境の関所にて夜番を務めておりました。そのとき、ちょうど明け方頃だったでしょうか。雨に濡れた桜さまを見つけてお通しし……、はい、規律にそむいて一番鶏が啼く前に門を開けたのはわたくしめでございます。罰はあとでなんなりとお申し付けくださいませ。
 ――ただ、そのときの桜さまがどうにもおかしなご様子でしたので、わたくし心配になりまして、あとの者に当番を代わってもらい、つい後を」
「それで何を見たというのだ」
 
 回りくどい語り口に苛立った風に長老のひとりが詰問する。
 老兵は身をすくめ、はいとか細い声でうなずいた。

「わたくしはちょうど屋敷の角のところで、暁につかみかかる桜さまを見つけました。ええ桜さまが撃ちました。信じられませんが、わたくしがこの目で見ました」
「そんな……」

 信じられない、と雪瀬は思った。暁がつかみかかってきたのならともかく、桜が自分からひとにつかみかかって銃を撃つなんてそんなことありえない。何かの間違いではないかと問い返そうとしていると、――そのとき、他の者によって介抱されていた暁が視界端で身じろぎをした。

「そう……です。そのとおりにございます」

 やめろと制す周りの腕を振り払い、暁は負傷した右肩をかばいながら身を起こす。つられたように顔を上げる桜にちらりと一瞥をやったとき、その喉奥が小さくくつりと震えたのが雪瀬には見えた。
 すっと暁の指が桜を差す。

「この娘が私を撃ちました。紫藤さまの話に相違ございません」

 緋色の眸にはじめて驚愕の色が走った。みるみるとその表情が蒼褪めていくのがわかる。桜は自分を固める衛兵の腕を振り切り、こちらに背を向けて逃げ出そうとした。
 だが、ほんの数歩もいかないところで、戸口近くに立っていた薫衣に足を引っ掛けて倒される。あっけないくらい簡単に桜は地面に転がった。少しの間抵抗するように弱々しく四肢を動かしたが、それもたやすく、覆いかぶさるように乗った身体に封じられる。

「……で、なんだって? 桜がお前を撃っただ?」

 薫衣は、ぐったりと抵抗をやめてしまった桜を衛兵のほうへ渡すと、こちらを振り返った。暁はこくりと顎を引いて、血の気の失った唇をうっすら持ち上げる。

「そうです。先ほど紫藤さまのお話されたことは一部に過ぎません。桜さまが何故私をお撃ちになったのか、一部始終は私からお話いたします」
「待った暁。傷に障る。今じゃなくてもあとで――」
「雪瀬さま。これしきの怪我、人形にはなんてことございませぬ。それよりもあの者を放置することのほうがゆゆしき事態」
 
 ――嫌な。
 汗が冷えた背中を伝った。

 そして暁は語りだす。

「今晩、私はかねてから薫衣さまに命じられていた書簡を、毬街の自治衆の方に届けるために毬街に行っておりました。皆さまもご存知のことと思います。ですがその帰り、紅楼の門のところで桜さまの姿を見かけまして、失礼とは存じながらもあとをつけたのです。桜さまは何かを探しておいでのようでした。しばらくあたりを歩いたあと、さる店の前で足を止め――、中に入りましたので、私もそれを追いました。奥間の一室には、黒衣の占術師がおりました。おそらく待ち合わせていたのでしょう」
「黒衣の、占術師だと……!?」

 あたりに衝撃が走る。

「そのとおりでございます!」

 口調を徐々に熱っぽいものに変えて、暁は続けた。

「もとより桜さまのことは気にかかっておりました。怪しい銃声がした夜も、皆さま、覚えておいででしょう? 海に飛び込もうとするなど、桜さまの様子は尋常ではなかった。私はそこから推察をしたのです。もしやあの夜真砂さまが姿を消したのは朝廷に寝返ったからではなく、桜さまが黒衣の占術師と繋がっていることに気付いて消されたのではないかと! 何せ、あの場所は崖でした。海に落ちれば、死体は見つかりません。そしてそれを先ほど問い詰めたところ、銃で撃ってきました!」
「なんと……!」
「内通者! この娘こそが内通者ではありませんか!」

 長老と衛兵たちが口々に騒ぎたてる。
 あっという間に部屋の中は混乱に包まれた。
 
「恐ろしい。はよう……はよう誰か縄を持ってきなされ!」
「そうだ、はよう!」
「否、刀を!」
「首を切れ! 首を!」
「はやく娘の首を切れ!!」

 高揚した長老たちから次々と声が上がり、衛兵のひとりに押し出される形で少女はぺちゃりと床に投げ出される。桜は弱々しく一度震えたきりうずくまって死んだように動かなくなった。

「ほら、誰かはよう!」
「また銃で撃つかも知れぬでは」
「――撃たない! 黙れ!!」

 力任せに壁を叩き、雪瀬は怒鳴りつけた。